#102
★メイプルキティの冒険★
17/24
その日のR&Aの仕事は、写真撮影やインタビュー。楓はいつもどおりガブリエラの出勤についていき、ライアンも合流してポーターに乗り込むと、そのままスタジオに向かった。
「今日はスタジオの端で待っていていただくことになりますが、大丈夫ですか?」
ポーターでヒーロースーツを着込む前にされた確認に、楓は頷いた。
「うん。アークの人がいるんでしょ? 大丈夫」
「そうですか。慣れてきましたね! カエデは強い子!」
同じ髪型の頭を撫でながら、ガブリエラがにこにこする。
撫でられた頭に自分で手を遣って、楓は苦笑した。
数日経って、楓は車の中や密室以外でも、ひとりでガブリエラを待つことが出来るようになった。
しかしそれは、周りが怖くなくなったというわけではない。ただ、こうやって待つときは必ずアークの誰かが横に付き、人を近寄らせないようにしてくれることを理解した。そうやって待つことが、彼女の仕事について回るために、どうしても必要なことであるから。
つまり、恐怖を抑えこんでガブリエラや周りの人々の言うことを信じ、また“我慢する”ということを覚えたという、ごく単純な話だった。決して恐怖感が消えたわけでも、能力制御が上手くなったわけでもない。
楓は、慣れた。あれほど慣れることはないと思っていたのに、甘えたことを言っていられない状況と時間が、強制的に楓を慣れさせた。平気ではないが、我慢ができるようになる。慣れとは自主的なものではないのだと、楓はまたひとつ学んだ。
(なかなか成長しないなあ)
ガブリエラの観察は努めてよく続けていて、お互いに理解も深まったと思う。言葉少ななコミュニケーションも取れるようになり、「すげーツーカーじゃん」とライアンにさえ言われた。
「大丈夫ですよ。今回のお仕事の方たちは、普通の人たちばかりです」
「……うん」
その言葉に引っかかりを覚えつつも、楓は頷いた。
クリスマスもまだであるが、スタジオのセットは春である。季節を先取りして幾つかイベント系の宣材を撮りためておくのだ。R&Aは比較的急にデビューが決まったため、前準備やストックが色々と足りていない。これから先の忙しさを緩和させるために、今彼らのスケジュールはぎゅうぎゅうに詰まっていた。
楓はお偉いさんにだけちゃんと挨拶をし、SレベルNEXTのアークについてもらって、スタジオの端の椅子に腰掛けていた。誰か近寄ってきたら、彼がさり気なく遠ざけてくれるのだ。といっても、ホワイトアンジェラの護衛としてもそろそろ有名な白スーツの厳ついボディガードが立っていれば、そもそも寄ってくる者もあまりいないが。
カメラマン、スタイリスト、AD、その他いろいろ、楓には役職も役割もわからない人々が、慌しく動き回っている。
奥のセットでポーズを取っているのは、もちろんR&Aだ。
ふたりともフル装甲のヒーロースーツをばっちり装着し、いかにもヒーローらしい格好いい写真を撮っている。しかしやがてライアンがフェイスガードを上げたり、ヘッド部分を丸々外したりし始めると、撮影の雰囲気も軽いものになっていく。
主にはライアンがばっちりとキメにキメたポーズをとり、アンジェラがその後ろや端で可愛らしくコミカルな、あるいは突っ込みどころのある動きをしている、という構図が多い。T&Bもよくやっているパターンなので、コンビヒーローの定番なのかな、と、かつてワイルドタイガーを切り落としてバーナビーの部分だけを切り抜きまくっていた楓はぼんやりと思った。
しかし、本人たちいわく恋人同士ではないとはいえ、世間からはほとんどそのように見られているふたりなので、それらしい構図も時々要求される。
その度、アンジェラはへらへらふにゃふにゃしてはライアンに怒られ、しばらくシャキッとし、そしてまたへらへらふにゃふにゃしていた。時々、「はうう!」という奇声も聞こえる。
楽しそうで何よりですねえ、とアークが呟いたが、楓もそう思う。なんでまだ付き合ってないんですかねえ、という言葉にも完全同意だ。
その撮影がひと段落すると、おつかれさまでーす、と狭い業界で熟れて訛った独特の発音の挨拶が交わされ、次の仕事のスタッフが入ってくる。スケジュールが詰まっているので、撮影という仕事内容をいちどに詰め込んでいるのである。
今度はひとりずつ別の撮影になるようで、アンジェラは『WANKOのきもち』という腕章をつけたスタッフに囲まれ、頭部だけはヒーロースーツのままだが、首から下はきぐるみのようなもこもこの衣装を着せられ、本物の犬たちに囲まれての撮影。ライアンは完全にヒーロースーツを脱いでアクセサリーの多いパーティー用のスーツになり、『sternbild fashion week』というスタッフと何か打ち合わせをしている。
動物のスタジオ撮影はなかなか難易度が高いものだが、モデル犬としてトレーニングを受けている上にアンジェラの能力のおかげでリラックスしている犬たちはとてもお利口で、さほど時間もかからず撮影は終わった。
「お疲れ様です、ライアン!」
そしてスタッフとの挨拶を終わらせると同時に、アンジェラがライアンの撮影グループの方に駆け寄っていく。そして彼らと何か話すと、喜びを表すようにぴょんぴょんと跳ねた。きぐるみ姿なので、余計に犬っぽい。
周りのスタッフは、仕方ないなあ、という顔だ。撮影したライアンの写真を貰えるようにアンジェラが交渉したのだということを、楓は察した。毎度のことだからだ。
「きゃあ!」
「うわ、すみません!」
ひとりふたりではない声が上がり、スタジオが騒然とした。アンジェラを追いかけるようにして、犬たちがケージの扉を振り切って脱走したからだ。
その中の1匹がふと立ち止まり、楓の方を見る。楓はぎくりとしたが、犬はふいと顔を逸らしてアンジェラの方へ行ってしまったので、ほっと胸をなでおろす。
本能の強い動物のほうが、よりこの能力に対して敏感だ。しかし極力隠れるようにして能力を抑え込んでいる楓よりも、ライアンに近寄っているせいで能力がだだ漏れているアンジェラのほうが、彼らにとっては魅力的に映ったに違いない。
小型犬1匹にもびくびくしている楓と違って、アンジェラは平然としている。大型犬から小型犬までの犬たちに囲まれて、「おなかがすいているのですか?」などと呑気なことを言っていた。
犬を逃さないようにとスタッフが焦って扉を閉めに回るが、その必要はなかった。犬たちは1匹残らずアンジェラに集っており、そしてアンジェラと一緒に立っているライアンも、結果として高級なスーツが犬の毛まみれになっている。
犬の担当らしいスタッフは平謝りしているが、当のライアンが犬を撫で回しながら腹を抱えて大笑いしているので、スタジオの雰囲気も和やかだ。
ライアンはやがて数匹の小型犬を両手で抱き上げ、足元でいい子におすわりしている大型犬、そしてきぐるみ姿のアンジェラとぎゅうぎゅうになってまとまると、私用の端末を取り出してセルフィを撮影した。
もしやと思って楓が自分の端末でネット接続してみると、ゴールデンライアンの公式SNSアカウントに、「仕事中」という短いタイトルで、ゴージャスにキマったスーツのライアンともこもこのきぐるみ姿のアンジェラ、そしてたくさんの犬たちがぎゅうぎゅうにフレームに詰まったセルフィが更新されていた。
「カエデ! おつかれさまです。退屈ではありませんか?」
犬たちをケージに入れる手伝いも終わって手持ち無沙汰になったのか、きぐるみを脱いで首から下だけ私服になったアンジェラが、楓のところに戻ってきた。ライアンは、スーツについた犬の毛をスタイリストに取ってもらいながら仕事を再開させている。
「おつかれさま。大丈夫、見てるだけでも飽きないよ」
「犬が逃げたのは予想外でした」
ひとやすみです、と言いながら、アンジェラは用意してあるドリンクを飲み、ぷはあ、と息をつく。
「そっか。あ、さっき撮ってたセルフィ、さっそくコメントとかライクついてたよ」
「おお、本当ですか。私もライクをつけなければ」
「つけるんだ……」
「画像も保存します!」
本人のパートナーでありつつもいちファンとしての活動に余念のない彼女に、楓は呆れ半分で感心した。ちなみに、彼女はライアンや他のヒーローたちの投稿を見るためだけにアカウント登録をしているので、自分では何も更新していない。
「ライアンさんはまだ?」
「ライアンは、撮影だけでなくインタビューもあるのです。もう少しかかると思います。3月に大きなファッションのイベントがあって、その関係のお仕事だそうです」
「へえ……」
楓はなんとなく身を乗り出し、ライアンたちを伺った。
「あ……」
ばち、と視線が合ったスタッフのその顔に、楓は目を丸くする。そして思わず勢い良く身を引いて、目が合った“彼”の視界に入らない、アンジェラやアークたちの影に身を縮める。
「どうしました、カエデ」
「……ライアンさんの取材してるの、アポロンメディア?」
「えーと、確かそうです」
ひそひそとした楓の質問に、アンジェラは頷いた。楓の様子がおかしいので、アンジェラもライアンたちの方を見る。すると何やら怪訝そうな顔でちらちらとこちらを伺う、アポロンメディアの腕章をした若い男性を見つけることが出来た。
「あの、グレーのスーツの男性でしょうか」
「うん……」
「彼が何か?」
顔を近づけ、声を潜めて聞いてきてくれるアンジェラに隠すのも意味は無いだろうと思い、楓は素直に耳打ちした。
彼は、楓が虎徹たちにくっついてアポロンメディアに顔を出していた時、楓を迷惑がっていたひとりであるのだと。
「そうなのですか。……普通の人のようですが」
ホワイトアンジェラのメットで素の視線がわかりにくいのを利用して“彼”をよく観察した彼女は、そんなことを言った。
「あからさまにきついことを言うタイプじゃなかったけど……」
例えば、楓を睨むことはないが、見かけると絶対に目を合わさないようにしてそそくさと姿を消して距離を取る。迷惑だ、受け入れるならせめて特別手当を寄越せなどとぼやくが、相手は子供だ、かわいそうだと正論を返されると気まずそうに一旦黙る。しかし少し時間が経って周りが楓を迷惑だと言い始めると、同調してまたそうだ迷惑だと言い始めるような、そんな人物である。名前までは知らない。
「む? こっちを見ていますね」
「うえっ、やだなあ。また迷惑とか思ってるんだろうなあ……」
「おかしい人ではないので、何かしてくることはないと思います。気にしないことですよ」
「うん」
楓は頷き、自分が座っている椅子を引いて、より彼の視界に入らないようにした。会話を聞いていたらしい大柄なアークの男性が視界を遮るような位置に立ってくれたので、「ありがとうございます」と小さく礼を言う。
その後しばらくしてライアンの仕事も終わり、お疲れ様ですの大合唱が始まった。ぞろぞろと引き上げていくスタッフたちに、楓は胸を撫で下ろす。
「お疲れさん。何もトラブルなかった?」
こちらに歩み寄ってきながら、ライアンが手を上げて尋ねてくる。ドレスアップした彼は格好いいと同時にかなり迫力があり、楓は目がちかちかするような気がしながら「大丈夫」と頷いた。
「何よりだ。ああ、お嬢ちゃんに伝言預かってるぜ」
「え?」
「さっき俺と仕事してたアポロンメディアの社員で、えーと」
ライアンは名前を言ったが、楓は首を傾げた。しかし、グレーのスーツの若い男だと言われれば、当然もしやとなる。楓は、反射的に身構えた。
「お嬢ちゃんがアポロンについてきてた時、態度悪くて申し訳なかったって」
ライアンが言ったその内容に、楓は目を丸くする。
「いちばん大変なのは本人なのに、みたいな? お嬢ちゃんも最近大丈夫そうだし、なんなら今直接謝ればつったんだけど、なんかそれはいいとか言って」
「……そう」
「なんだかな〜と思ったけど、ネガティブなことじゃなかったから、一応伝えとく」
「うん。ありがとう」
「ほんとにそう思ってるなら、直接言えって感じだよなー」
欠伸をしながらの彼らしい意見に、楓は苦笑した。
「悪い人じゃないんだよ、多分」
「いいヒトでもねえけどな」
どうでもいいことのようにライアンは言い、この話を切り上げる。
「んじゃ着替えて飯行こ、飯。お嬢ちゃん何食べたい?」
「うーん、洋食ばっかりだから和食がいいなー。R&Aのおすすめは?」
「カツドンはどうでしょう! 折紙さんに教えていただいたお店があります! テンドンやオヤコドンもおいしいですよ!」
「おお、前言ってたとこだな。いいじゃん、行こうぜ」
行き先が決まり、3人は一緒にスタジオを出てポーターに戻っていった。
「むう、今日は何度もすみません、カエデ。ここで待っていてください」
「そんな長い会議にはならねえと思うから、よろしくな」
「わかった。行ってらっしゃい」
ばたばたとしているガブリエラとライアンを、楓は手を振って送り出す。
様々な丼料理を3人で食べ尽くして店の度肝を抜いたランチの後アスクレピオスに戻ってくると、急遽必要になった会議のために自社ヒーローふたりにお呼びがかかった。
色々と目をつぶってもらってはいるが、急な会議へ全く無関係の楓が出席するのは流石に良くないらしく、控えられるのならそうして欲しい、という要請だった。
楓の正直な心情としてはできればガブリエラの側に居たいものの、それを堪える機会ができればなるべくそれに従うべきだという気持ちはある。そのためにここにいるのであるし、そう望んだのは自分だからだ。
そのため、楓は彼らのデスクのあるヒーロー事業部オフィスに残り、ガブリエラたちの帰りを待つことになった。扉の近くに立つアークもまた楓の扱い方に慣れ、あえてコミュニケーションを取ろうとはせず、黙って待機してくれている。
「……ゲームでもしようかな」
ぽつんとオフィスに取り残された楓は、おもちゃとぬいぐるみまみれのガブリエラのデスクに行った。絵本や塗り絵の冊子と一緒に置いてあるミニ・タブレットを持ち上げ、電源を入れる。
これは今のように楓がひとりで手持ち無沙汰になったときのために、とガブリエラが用意したもので、アプリやゲームがたくさん入っている。ガブリエラが自腹を切って新品を買い与えようとしたのを必死で止めて、パワーズのひとりから使っていない私物を借りてきてもらったものでもあった。
楓が自分から乞うた能力制御訓練、そのためにやらなければならないこと、また命の危険に関わることに関しては、ガブリエラはとても厳しい。しかし実は、それ以外のところではダダ甘もいいところだった。
彼女は基本的な金銭感覚こそ庶民的でしっかりしているが、自分が気に入った対象には、金も手間も全く惜しまないという悪癖があった。しかも一部リーグヒーローとして高給取りになっているため、その規模もなかなか洒落にならない。
楓はガブリエラがそこまで自分を気に入ってくれていることを嬉しく思う反面、彼女が自分のためにしようとしてくれることを止めるのにも何度か苦労した。下手に断ると悲しそうにしょんぼりされてしまうので、落ち込ませないように断るのも大変なのだ。
こんな具合なので、もし質の悪い人間に惚れ込んだら乞われるがまま何でも買ったりやったりしかねないということで、「王子様がお金持ちでよかったわよねえ」と言ったのはネイサンだが、正直楓もそう思う。
実際、財布の紐を緩める必要がないかわりに、彼女は自分の身を物理的に切って彼に与えているのであるし。──そのことを知っているのは、楓だけであるが。
タブレットが起動し、山ほど入っているゲームの一覧が表示される。
しかし楓はふと思い立ち、そしてたっぷり2、3分迷ってから、インターネット接続ブラウザを立ち上げた。何故迷ったのかといえば、用意してもらったこのタブレットには、キッズフィルタがついていないのだ。そのことに気付いてから、真面目な楓はこのタブレットでネットサーフィンをしたことがなかった。
いつも自分が見ているのとは、少し違う検索結果。
ニューストップにゴールデンライアンのSNSアカウントについてのホットニュースが上がっていたのでついタップすると、先程の犬まみれのセルフィに、スカイハイからの「かわいい! そしてかわいい!」というコメントがついたせいで、ものすごい数の閲覧数になっているという微笑ましい内容が表示された。
スカイハイのアカウントはほとんど会社の人間による広報的なお知らせしか投稿されないので、本人が書き込んだとみられるコメントは珍しく、騒がれているようだ。
スカイハイのおかげで少しほっこりしつつ、楓は検索画面を開く。そしてキーボード画面を引き出し、検索語句を入力していった。
楓がしばらくタブレット画面に集中していると、やがて、誰かがオフィスにやってきたことを表す小さなチャイムが鳴った。ガブリエラとライアンが戻ってきたか、と楓は顔を上げ、タブレットを終了させる。
しかし、ドアを開けてオフィスに入ってきたのはあのふたりでもなく、そして知っている顔の誰でもなかった。
「あら? あなたはだぁれ? アンジェラはどこ?」
可愛らしい──本当に可愛らしい声を上げて入ってきたのは、小さな女の子だった。まだ小学校にも上がっていなさそうな、本当に小さな女の子である。
ドレスと言っていいほどふわふわと広がった白いスカートに、リボンのついた赤い靴。まるで中世の公爵夫人のように、花の飾りとリボンがたくさんついた帽子をかぶっている。つばの広い帽子のせいで髪や目の色がよくわからないが、整った可愛い顔立ちであることは確かだった。服装のせいもあり、まるで人形が動いているようである。
「クラークさんのお嬢さんですよ」
アークが、少女の素性を教えてくれた。
「ごきげんよう。リリアーナですわ」
スカートをつまみ、片足のつま先を後ろについて膝を曲げるという、たいへん古風でおませな挨拶をした小さな少女は、そう名乗った。
「それで、アンジェラはどこ?」
「えーと……アンジェラはお仕事だよ。急な会議に行ってるの」
「まあ、そうなの」
困ったわね、というふうに、リリアーナは頬に指先を当てて首を傾げた。服装や口調もそうだが、動作もいちいちロマンチックな風である。
「じゃあ、戻ってくるまでここで待つわ」
「いえお嬢様、今日は……」
「なあに? だめなの? どうして?」
楓を気遣って引くように促すアークだが、リリアーナは物怖じせずぐいぐいと彼に詰め寄った。
「あの……、大丈夫です。その、触ってこないでくれさえすれば平気だから」
楓がそう申し出ると、上司、しかもトップの娘だから強く言えないのか、それとも単に小さな女の子相手だからか、困った顔をしていたアークの男性がホッとした様子になった。
それからリリアーナはそのアークから楓の事情について説明を受け、ふんふんと頷いた。そして、とことこと楓のところまでやってくる。
「触らなければいいのね? わかったわ」
「ありがとう。あ、私、楓っていうの」
「カエデ?」
「メイプルって意味だよ」
「メイプル? メイプルシロップのメイプル? かわいいお名前ね。すてきだわ!」
「ありがとう。リリアーナちゃんは、百合って意味かな」
「そうよ。リリアーナは白い百合なの」
「きれいだね」
「うふふ」
にっこりしたリリアーナはとんでもなく可愛らしく、楓もつい微笑んだ。
そして自分が自然に笑みを浮かべられたことで、楓は確信する。
──この小さな少女には、すべての生命に感じるあの恐怖感を“全く”感じない。
「ふうん。メイプルは今アンジェラの能力になっているのね」
自己紹介や事情を説明がてら少し話をすると、リリアーナはそう言った。
「じゃあお姫様らしく振る舞わなければいけないわ」
「お姫様?」
「ええ」
リリアーナは、もっともらしく頷いた。
「リリアーナはお姫様が大好きなの。一家言ございますわ」
リリアーナは、ツンと顎を反らした。
小さな少女は、見た目の年齢と比べると非常に語彙が豊かで、口も達者だった。知能の高さがありありと伺え、年齢通りの学校に進学したらおそらく相当浮くだろうということが想像できる。
しかしその内容は子供らしく、あっちこっちに話が飛ぶし、楓が理解していようといまいとお構いなしに喋り倒すのが基本のようだった。
「つまりね、たとえ短い間であっても、天使の力を持つのだもの。メイプルにもきちんとお姫様らしく振る舞っていただかなければいけないわ。よろしくて?」
「そ、そっかあ。難しそうだね……」
要するにお姫様大好きで、父親の会社の天使の名を冠したヒーローもお姫様に見立てているらしい女児相手に、楓は気圧されつつも穏やかに返す。
「当然です。素晴らしいお姫様になるには、一朝一夕の努力ではとてもとても」
ふう、とおしゃまなため息をついて、小さなご令嬢はたっぷりとしたふわふわのスカートから扇を取り出し、一丁前に口元をそれで隠した。
「そうですわねえ、まず見た目は合格よ。ええ、あなたとってもきれいだわ。黒い目がエキゾチックよ」
「あ、ありがとう」
「姿勢や動きも良いわね。素質がおありだと思うわ。言葉づかいは完璧ではないけれど、まあまあかしら。……アンジェラに比べれば、誰だってまあまあですけれど」
低いソファに座っても足が床につかない少女は、頭痛を堪えるような仕草をした。
「アンジェラが、あの事件の時にわめきたてたおぞましい言葉! わたくしは目の前が真っ暗になりましたわ!」
「あー」
あのバイク盗難事件でのことは世間でも散々騒がれたので、楓もそこそこ詳細を知っている。といっても、キッズフィルターがかかったネット環境と、フォローのために放送された教育番組が深夜放送だったせいで、彼女が実際どれほど口汚かったのかはよく知らないが。
「お姫様として皆から敬われるには、それだけの立ち居振る舞いを身に着けなければいけませんわ。身勝手に振る舞うだけではただの暴君ですもの。立場に見合うものを身につけるのは当たり前の義務ですわ」
何やら立派な考えを持っているらしいことはわかったので、楓はただ頷く。
「ですから、アンジェラにはわたくしが厳選した詩集と物語のご本を渡しましたの。朗読と書き取りも言いつけました。今日はその成果のチェックにまいりましたのよ。抜き打ちで」
「えっ」
楓は、ぽかんとした。
あの事件の時、ガブリエラが半泣きでこなしたという課題の存在は、メディアで公表されたので楓も知っている。
子供に対する罰のようだと思って苦笑していたのだが、まさかそれを命じたのが本当の子供だったとは。
そしていくら上司の子供とはいえ、ほんの小さな少女が命じてきた課題を半泣きになってまでヒーローが実行していたかと思うと、乾いた笑いしか出ない。
「まあ、アンジェラのことはいいわ。あとで本人に言います。今はあなたのことよメイプル。あなたはものを知りません。それは事実です」
楓はその偉そうな言い方に驚いたが、リリアーナがあまりにも可愛いお人形そのものの風貌なので、むっとするまでには至らなかった。
「いいこと? アンジェラの力を使うのなら、お姫様たるべきなの」
「お姫様かあ。あはは、素敵だけど、あんまり柄じゃないっていうか……」
「柄じゃないとかあるとかいう問題ではありませんわ。これは義務です」
リリアーナは扇を閉じ、ぴしゃんと軽くソファを打った。
「その力は、天使の力。皆の心を奪うのなら、責任を持たなければ」
幼く甘い声と堅苦しい言葉にギャップがあるだけに、それは奇妙に強く聞こえた。
「皆、あなたに優しくしてくださるでしょ」
顔色を変えた楓を見て、リリアーナは貴婦人らしい帽子の広いつばで陰った目を細め、再度開いた扇で口元を隠した。
「なんで……」
「あら。その様子だと、気付いてはいらっしゃるのね」
扇の影から楓を見たリリアーナは、ツンと言った。
楓は驚きのあまり絶句している。もちろん、実感があったからだ。
クリスマスに向けて、他のヒーローたちに負けない忙しさのホワイトアンジェラのスケジュールについて回った楓は、その先々で、とても親切にされてきた。
しかし関係のない子供が忙しい仕事の場にいれば、鬱陶しく思われるとか、そうでなくても、無関心でいるのが“普通”だ。しかも能力制御がまだできていないSSレベルのNEXTの子供ともなれば、迷惑がられてもしょうがない、と楓も思う。実際、アポロンメディアではあからさまに邪険にされもした。
だからこそ、虎徹とバーナビーも楓をむやみやたらに現場に連れて行かず、極力楓を預けて仕事に行っていたのだ。
しかしガブリエラと行動し、そして彼女の能力をコピーした状態の今、どこに行っても、誰も彼もが、時に過剰に感じられるほど楓に親切だった。もちろん、楓自身の能力の内容も、他人にとっては無害なホワイトアンジェラの能力をコピーしている状態であることも言っていない。
しかし彼らは常に繊細に楓を気遣ってくれ、頑張ってねと手紙やお菓子が後で届けられることすらある。今まで虎徹たちと行動していたからこそ、その差はとてもあからさまに感じられた。
さらに今日、あのアポロンメディアのグレーのスーツの男性社員。
あれほどぐちぐちと楓を疎ましがっていたはずの彼が、短い間同じ空間で過ごしただけで、急に態度を変えてきたこと。この実例でもって、楓は今までもしやと思っていた考えを確信に近づけていた。
つまりこの能力は、周りの人間の気持ちを軟化させるのではないか。
警戒心や悪感情を薄れさせ、更にこちらに対して親切に接し、好意的な態度をとるようにさせる。そういう効力がもたらされているのではないか、と。
「……リリアーナちゃんは、何を知ってるの?」
「わたくしは色々知っていてよ。リリアーナはお姫様が好きなの」
楓の疑問に、小さな少女は謎かけのような、ただ単にこちらの話を聞いていないのか、それとも根本が稚く支離滅裂なだけなのかよくわからない返答をした。
「愛で世の中が上手くいけばいいけれど。他人のおせっかいをしないのも重要なのよ」
格言か教訓めいたことを、リリアーナはごくもっともらしく言う。
「アンジェラは今、ヒーローとして活動しているけれど。でも本来、それはこの能力にとって正しい形ではないわ」
とん、とん、と、リリアーナは扇で自分の手のひらを軽く叩きながら言う。
「だって、どうやったって全員を救えるわけではないのだもの。この世界にどれだけ怪我人がいると思って? ひとりを救えば他は救わないのかと責められる、それが延々と続くのよ。いくらあの子が正しいことをしていても、助けたひとりに感謝されるだけ。目の前の命を助ければ助けるほど、もう一方で起こる妬み嫉みでどんどん“聖女のくせに依怙贔屓をする悪者”にされていく。そうやって、愚かで即物的な大衆の食い物にされるのが正義だというのが絶対多数になってごらんなさい。十字架にかけられて血肉を貪られてお終いだわ」
幼い声が、大きな刃物を振るうような言葉を紡ぐ。
「お姫様は、皆に愛されて、守られるもの。何も不自然ではないわ。そして時々、選ばれた者にだけ力を使うのよ。天使の力を授けられた英雄が、有象無象の哀れな大衆を救ってくれる。熾天使(seraphim)でもなく権天使(principality)でもなく、力天使(virtues)としてあるのが正しいあり方なの。それなのに、よりにもよって自分自身が英雄(hero)になるだなんて。飢えた毒蛇の群れに身投げするようなものだわ。サポート特化というのがぎりぎりの落とし所ね」
リリアーナは、きゅっと首を動かして楓の方を見た。人形がこちらを見たようなその動きに、彼女のマシンガントークに唖然としていた楓はビクッとした。
「だからアンジェラは万人に対しての聖女ではなくて、特別なお姫様になるべきなの。おわかりかしら」
「えっとその」
「だからアンジェラをお姫様にしてってパパにお願いしたの」
おろおろしている楓の返事を待つ気配も見せず、リリアーナは続けた。
「なのに、パパったら自分の好きなヒーローにしちゃったのだわ。だったらせめて守ってくれる王子様をつけてってお願いしたら、ゴールデンライアンが来たの。……まあ、彼はそれなりによくやっていると思いますけれど。それにしたって、エンジェルライディングまではまだしも、犬だなんて。──いぬ! なんてことかしら、なげかわしいったら」
「……リリアーナちゃん、難しい言葉色々知っててすごいね……」
「そんなことはわかっていてよ! あら何だったかしら。犬はリリアーナも好きよ。ああ、ふわふわの小さい犬ならね。今飼っているのは鳥だけど」
どうやら、リリアーナは興奮すると思うがままに言葉をまくしたてる癖があるようだった。
それにしても、幼い者特有の甘く高い声でありつつ言葉が達者で流暢というちぐはぐさのせいで、まるでいつか読んだ児童書の主人公が迷い込んだ、不思議の国の登場人物のようだ。見た目も喋るお人形のようなので現実感が薄く、混乱してくる。
だがしかし、この少女は間違いなく、アンジェラの能力について深いことを知っている。そう考えた楓は、口を開こうとした。
「ただいま戻りました! ──あっ、リリアーナちゃん? 来ていたのですか?」
意気揚々と扉を開けて、ガブリエラが戻ってきた。
★メイプルキティの冒険★
17/24