#101
★メイプルキティの冒険★
16/24
 青白い光が、ふわんとガブリエラから放出される。その光景に、楓はどきっとした。

 この能力で行き来するエネルギーは、カロリーが元になってはいるが、生命エネルギーそのものだ。命そのもの、といってもいい。だからこそ、それが剥き出しになって他の生命に直接奪われることができる今の状態に、楓は非常に恐怖を、つまり命の危険を感じているのだ。
 だがガブリエラは常にその危険に身を晒しながらも平然と外を歩き、それどころか怪我人ごとに適切な量のエネルギーを見極め、作業的に自分を切り分け、より効率的に多くの人に与えることを仕事にしている。

 そして、今。
 ガブリエラが発したエネルギーが、ライアンに向かっていく。腫れはどんどん引いていき、怪我の部分で乱れていたライアンのエネルギーが、きれいに流れるようになる。
 しかし今の光景は、彼女がヒーローとしてこの能力を使う時ともまた違う、と楓は感じ取っていた。傷ついているがゆえ、より貪欲にエネルギーを求める傷口へ自ら向かっていくその様は、飢えた猛獣の前に白い喉を晒す、いや牙に肌を当てるような行為に等しい。
 いつものガブリエラは、例えば上手く進化した植物が、食べられても問題ないところだけを地上に出して根は隠しているように、自分を割り切っている。
 だが今のガブリエラは、食べられるがままだ。何もかもを貪り尽くされてもかまわないというように、自らの全てを開け放している。
 そのおかげでライアンの怪我はあっという間に治り、さらに肌艶まで増している。ガブリエラが惜しみなく差し出すエネルギーを限界まで貪ったライアンのエネルギーの流れが、たっぷりと豊かな大河のように満たされていく。

「──ふふ」

 囁くような小さな笑い声が、楓の耳に僅かに届く。
 薄い唇が、笑みの形になっている。ガブリエラは微笑んでいた。灰色の目は下瞼が持ち上がって細まり、熱っぽく潤んだ目の端が少し火照っているように見えるのは、赤い睫毛のせいだけではないだろう。
 ガブリエラは、傷んでいたライアンの手に、自分の手をそっと添えていた。傷が消え、それどころか肌艶を増した、完璧な男の手。骨張った手の甲に浮き上がった血管を、華奢な指先が、触れるか触れないかの動きで、ほんの僅かについと撫でる。

「おー、治った治った。完璧! サンキュー」
「ふふふ」

 手を握ったり開いたりして具合を確かめるライアンに、ガブリエラが笑う。嬉しくてたまらない、という風に。自分を好き放題たっぷり貪って満たされた男の手を、彼女はうっとりと、愛おしそうに見上げていた。
「じゃ、会社でちゃんと着替えて、そのあとランチ行くか」
「そうしましょう」
「お嬢ちゃん、悪いけどもうちょっと我慢──、……どした!?」
 振り返ったライアンはぎょっとして、ひっくり返った声を出した。

「顔真っ赤なんだけど! 何!? 熱!?」
「えっ、どうしましたかカエデ!」

 ふたりの言う通り、楓は真っ赤だった。顔どころか、耳や首まで赤い。

「だ、だ、だいじょうぶ」
「いやいやいや大丈夫な赤さじゃねえし」
「エンジェルウォッチの体温計は? ……あれっ、平熱です」
「だから、大丈夫だってば!」
 腕につけたエンジェルウォッチを覗き込んでくるガブリエラの手を、楓はまだ赤い顔のまま振り払った。
「お嬢ちゃん、着いたらすぐドクターに診てもらえ」
「ちっ、違うから! そういうのじゃないから! やめて連絡しないで!」
「はあ? そういうのって?」
 通信端末を立ち上げ医師たちに連絡を取ろうとしていたライアンを、楓は慌てて静止する。ライアンは怪訝な顔をし、──そしてガブリエラといえば、「ぴんときた」あるいは「しまった」というような顔をし、さりげなく目を逸らした。

「……ええと。では、私はチャンバーに行ってきますね」
「は? お嬢ちゃんは? 大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫です。多分、あの、その、……うっかりしていました」
「ギャビー、もう!」
「はあ……?」
 楓は頭から湯気を出す勢いだが、ガブリエラはそっぽを向き、ピチュピチュと小鳥のような口笛を吹いた。
 ライアンは何がなんだかわからず首を傾げるが、彼女らの様子から本当に大したことではないのだろうと判断し、ドクターに連絡を取るのをやめて通信端末を仕舞う。
「ええと、ええとですね。ではその、私はスーツを脱いできますね」
「えっ、そしたらここ俺だけになるんだけど、お前がいねえと怖がるんじゃねえの?」
「だ、大丈夫ですよ。ねえカエデ」
「……だいじょうぶっ!」
「ええ……なんでそんな逆ギレっぽい返事……」
 そそくさと退室しようとするガブリエラ、赤い頬を膨らませている楓を見比べたライアンは、「わけわかんねえ」と頭を掻く。
 そしてガブリエラはさっさとチャンバーに向かっていき、ラウンジはライアンと楓のふたりになった。

「あー……っと。お嬢ちゃん、ちょっといいか」
 腫れ物に触るような様子で、ライアンは話しかけた。警戒する子猫のような上目遣いで、楓がちらりと彼を見る。
「タイガーのおっさんとジュニア君が、スゲー心配してたぜ。お嬢ちゃんに余裕があれば、電話でもかけてやったら? 電話だったら普通に喋れんだろ?」
「あ、……うん」
「ホントは顔見に来たかったみたいだけど、そのへんお嬢ちゃんがどういう感じかわかんなかったからさ。もし大丈夫そうなら、明日あたり飯でも食いに行けばいいし。とりあえず安心させてやれよ」
「うん、わかった。ありがとう」
「伝えたぜ」
 そう言ってライアンは肩を竦め、楓のいる位置から対角線上、つまり最も遠いソファに腰を落ち着けると、何やらびっしり文字の表示されたタブレットに目を通し始めた。仕事か私用かわからないが、楓が気負わないようにあえてコミュニケーションを断ったという彼の気遣いは、楓にもいい加減理解できた。

 ──そこまでしなくても、今のライアンなら、本当に大丈夫なのだが。

 完全に平気とまでは行かないものの、元々他とは比べ物にならないほどライアンに対して恐怖心を持たずにいられることについては、楓自身気付いている。
 そして今、楓はその原因を理解した。なぜなら彼は、ガブリエラが心の底から気を許し、すべてにおいて優先させる相手だからだ。彼の運転する鉄のゆりかごの中なら、彼女は喉を晒し、腹を出して無防備に熟睡することすら出来る。
 今の楓にとって唯一の庇護者であり理解者であり、手放しで安心できる存在がガブリエラだ。その彼女が特別にする相手だからこそ、楓もまた特別に、いくらか気を許すことが出来るのである。

 しかもライアンは、生命力の存在感自体はむしろずば抜けて大きいのだが、先程のように怪我をしているときなどを除いて、常日頃エネルギーを求める力があまり強くない。他の生命が常に飢えた獣なら、彼は常にたっぷりと食事をし、満足気に悠々と構えているような気配がはっきりとしている。
 それは、ガブリエラが常に彼の側にいて、怪我をすれば先程のようにただ治す以上のエネルギーでもって彼を満たし、おそらくは怪我をしていなくても自分のエネルギーを捧げ続けているからにほかならない。
 彼は常に肌艶が良く、完璧に健康で、髪や睫毛の先に至るまで艷やかで、楓が前にテレビで見た時より明らかにキラキラとしている。
 以前それを指摘すると、ライアンはアスクレピオスの医師団によるフルスキャンを受け、悪いところはガブリエラの能力で完璧な状態にするという本格的な全身ケアを週に1回受けている上、それ以外でも気付いた所は即座にガブリエラからの能力を使ってもらっているからだ、とバーナビーが教えてくれた。「どんなにお金を出しても受けられない、世界最高峰のケア環境ですよ……」という、どこか恨みがましい言葉とともに。

 つまり、楓の唯一の庇護者であるガブリエラが心を許し、更に常日頃からガブリエラによって万全にケアされ、溢れんほどに生命力が満たされている状態のため、楓はライアンに恐怖心を感じにくいのだ。
 大きな獣であっても、それに無防備に近寄ってじゃれついている人がいて、これ以上なく満腹だという確認が取れていて、こちらを襲ってくることはまずないとわかれば恐怖心はぐっと減る、そういうことだ。
 つまりガブリエラは自主的に自分の血肉を惜しみなくせっせと切り分け、ライアンの口に運び続けているのである。だが、ライアンにはおそらくその自覚はないだろう。なぜならこれは、この能力を宿したガブリエラと楓にしかわからない感覚だからだ。

 先程ライアンが戻ってきて姿を見せた時、ガブリエラの雰囲気が変わった。
 今思えばあのときだけでなく、彼の姿が視界に入れば、ガブリエラはすぐにそちらに意識を向けている、と楓は気付いた。
 彼が視界に入るその度に、彼女のエネルギーが一斉に彼に向かって綻ぶからだ。

 生きようとする力、生命力が、手放しで綻び、歓びとともに広がり、ひとつのものに向かっていく様。太陽に向かって花が開くようなそれは、間違いなく、とても美しい光景だ。
 しかし、楓にはどうにも刺激が強かった。なぜなら花がそうするのは、実を結ぶためだ。蜜を差し出し、私を食べてと誘う様。自然の中ではとても美しい原初の行動、そして人間社会においては、秘するべき恋愛の様。
 尊いことであるのは、わかる。しかしガブリエラがライアンに向ける思いはあまりにストレートで、まだ少女である楓は照れてしまう。それは例えば、鳥が飾り羽を広げるのを美しいと思う反面、交尾を求める求愛行動だと思うと、なんだか気恥ずかしくなってしまうのと似ていた。

「戻りました!」

 数分経たないうちに、ガブリエラが戻ってきた。ヒーロースーツを解除し、ぴったり前を閉めたアスクレピオスのブルゾンを着ている。
「はあ、おなかがすきましたね」
「……さっき、ライアンさんにめちゃくちゃエネルギー使ってたもんね」
「えっ」
 楓に言われ、ガブリエラは明らかにぎくりとした。すると、文書に目を通していたライアンが怪訝な表情で顔を上げる。
「あ? そうなの? そんなひでえ怪我だった?」
「そ、そういうわけではありません。その、念のため、念のためです。念のためしっかり治したのです」
 念のため、を3回も繰り返したガブリエラはまた目を泳がせてそっぽを向き、ピチュピチュと小鳥のような口笛を吹く。
 だが白々しく響いたそれに誰も反応せず、シン、と車内に静寂が訪れた。ガブリエラは、挙動不審にそわそわしている。

「……ギャビー」
「セクハラではないのです!」

 語るに落ちる。まさにその見本のように、ガブリエラは喚いた。頬は赤い。楓は、残念なものを見る目をした。
「私まだ何も言ってないけど……」
「はっ!? しまった!? うう、やはりカエデは賢い……賢いばかりに……」
「ギャビーが勝手に自爆したんだよ!?」
「なあ、何の話?」
 セクハラって何、とライアンは相変わらず怪訝な顔をしている。
 恥ずかしいのかばつが悪いのか、ううう、と呻いて頭を抱えているガブリエラの肩を、楓はぽんと叩いた。

「えっと……。ライアンさんは何も思ってないみたいだし、いいんじゃないかな?」
「う、ううう」
「怪我を治すこと自体は、ギャビーの役目だし……。その、余計に力を使うのも。ギャビーがいいなら、いいと思う。……でも、目の前でやられるとちょっと」
「ううう、カエデがいることを忘れていたのです! お恥ずかしい!」
「なあ、だから何の話!?」
 話の内容から自分にも関わる内容であるということはわかるのに、ガブリエラと楓のふたりだけで会話が成立していて、自分は蚊帳の外。奇妙なその状況にライアンはとうとう大きな声を上げたが、ガブリエラは頭を抱えて悶えているだけだし、楓はそんなガブリエラを見て、ひたすら生暖かい目をしている。

 介護人が個人的な面識のない患者を世話するのは、いくら熱心にしていてもあくまで他意のない作業であり仕事である。傍から見ていても、手際に感心することはあれど他には何も感じない。
 しかし介護人の方に患者に対して特別な感情があり、手つきや表情にそれが感じられる場合、目のやり場に大変困る。そしてそれは彼女が白状した通り、場合によっては確かにセクハラ。そういうことだ。
 だがそのセクハラまがいの愛ある介護を受けた本人が全く何も感じていないため、話は全くかみ合わなかった。

 そして話が噛み合わないまま騒いでいるうちに、ポーターが停止した。アスクレピオスに着いたのである。
「着きました! はい! シャワーを浴びに行きましょう、すぐ行きましょう! 行きますよカエデ、さあ! さあ!」
「おい」
「アーおなかがすきました! とてもおなかがすきましたー!!」
 ライアンの制止をあえて聞こえていないふりをし、顔が赤いままのガブリエラは楓の手をぐいぐいと引いてポーターを降りていった。






「……カエデ、ありがとうございます。先程は、何も言わないでくださって……」
「ううん、元はといえば私が反応しちゃったからだし……」
「いえ、その、しかしそれは……、申し訳ありません」
 それ以外の言葉が見つからなかったのか、ガブリエラはしゅんとして、恥ずかしそうに肩を縮こまらせた。

「普段とても……とても我慢を……“待て”をしているのでですね……」
「う、うん?」
「ライアンが悪いのです……魅力的すぎるのです! ですので! つい!」
「……ギャビー、言いにくいんだけど、それ前にニュースでやってた痴漢のおじさんと同じ言い訳だよ……」
「アー!!」

 残念を通り越して痛々しいものを見る目で言ってきた楓に、ガブリエラはとうとう頭を抱えてしゃがみこんだ。
「ちがうのです! セクハラのつもりではない! 痴漢でもないです! ウウウ」
「うん、うん、わかってるよ」
 痴漢の犯人と警官のような会話である。と突っ込みを入れる者は、ここにはいない。

 シャワーを浴びた後は結局ライアンと合流して昼食を取ったので、もちろんふたりは彼に色々と問い詰められた。
 しかしガブリエラは赤い顔でアーウーと唸るばかりであるし、楓は説明できても説明しづらいので、同じような反応になる。結局ライアンはいくつかの質問をした後、何か考えるような顔をして、この話を切り上げた。
 ガブリエラは何もばれていないと思っているようだが、頭も察しもとびきり良い彼のことなので、おそらくは近いところまで理解してしまったのではないだろうか──と楓は思っていたが、ウーウー唸っているガブリエラが気の毒だったので、やはりそれ以上何も言わないでおいた。

「……ねえ、ギャビー」

 悶えているガブリエラに、ふと楓は静かに言った。
「ギャビーは、どうしてヒーローになったの」
 楓がなんで自分ばかりこんなめにと呪い、こんな力なければよかったと恨んだというのに、ガブリエラはそんなことを思ったこともないという。
 それどころかその能力を使い、自分の身を削って他人を助けている。彼女は楓と同じ歳でこの能力に目覚め、ヒーローになると決めて、鉄のゆりかごを飛び出し、故郷を飛び出し、険しい荒野を乗り越えてまでシュテルンビルトにやってきた。
 その理由を理解しようと、楓は彼女に質問した。

「む、よくされる質問ですね。人を助けたいのでですよ」
「なんで、助けるの?」
「それは、人を助けるとですね。悪い人が少なくなるのです」

 ガブリエラの説明は拙かったが、すぐに理解できた。
 理屈は単純だ。ヒーローの資格は、悪者をやっつけて困っている人を助けること。しかし前者が心もとなく後者は抜群にできるガブリエラが見出したのは、困っている人を助けることで犯罪に走る可能性を潰し、結果的に悪者が生まれてこないようにする、という形でのヒーローだった。
 子供の楓ですら理想論だと思うような、拙い理屈。だがそれを否定するのがはばかられるほど、さも当たり前のように澄んだ目で言うガブリエラは、とても無邪気で、ピュアに見える。

「うーんと……、じゃあ、なんで助けたいと思ったの? えっと、理由じゃなくて、動機っていうか」
「動機? 動機ですか。うーん、好きでやっていることです」
「好きで……。みんなが?」
「そうですね。人は好きです。動物も、植物も。みんな好きですよ」

 にっこりするガブリエラの言葉に、嘘はない。
 彼女は人懐っこく、寂しがりで、誰かといたがる。新しい知り合いを作るのにも積極的なほうで、パーティーも好きだ。人間が好き、と言っていいだろう。動物に関してはたまに食料との区別が曖昧で不安になるが、犬を撫で回し、リスや小鳥を手に止まらせ、イグアナのモリィも可愛がっている。少なくとも、恐れてはいない。草木や花も同じで、蕾をつついて花を開かせ、ブーケを貰えばなるべく長く保つように丁寧に世話をする。
 そこで楓は、先程のことを思い出した。甲斐甲斐しくライアンの指を治し、そして完璧になった彼の手を惚れ惚れと、うっとりと見上げる彼女の姿。

「いちばん好きなのは、ライアンさん?」
「はい」

 何の迷いもなく。
 はっきりと、先程のヒーロー云々の質問のときよりも更に当たり前のようにガブリエラは頷いた。その表情もまた明るく、にっこりとしていて、誇らしげにも見える。

「……そっか。ギャビーは、本当にライアンさんが好きなんだね」

 楓は、ごく深い理解と実感を込めて言った。
 ガブリエラは一瞬きょとんとしたが、すぐに満面の笑みになる。
「えへへ。はい、そうです! 私は彼を愛しているのです」
 飾り気のない直接的な言葉は、何も知らなければ、陳腐にも稚拙にも、幼稚にも思えるかもしれない。だがその言葉にどれだけの重みがあるのか、楓には理解できる。
 ガブリエラの能力をコピーしていなければ、わからなかっただろう。しかし今の楓だからこそ、生々しいほどに理解できるのだ。
 それは彼女が、自分を貪る存在である人々を恨むどころか好いていて、だからこそ彼らを助け、ヒーローたらんとしていること。
 そしてライアンに関しては、“食べられてもいい”どころか、すすんで“食べて欲しい”と思うほどに大好きで、愛しているということ。

 ──正真正銘、命を懸けて、彼女は彼を愛しているのだ。

 こんなにも重く真剣な愛情を目にしたのは、楓は初めてだった。
 もちろん、両親や祖母、伯父からの家族としての愛情の深さは理解している。母が天国に行ってしまっても変わらず薬指に指輪をはめ続けている父を、内心とても素敵だとも思っている。
 だがもしかしたら一方通行かもしれないのにもかかわらず、命がけで他人を愛する恋愛の様は、楓にとっておとぎ話の中のものと言えるほどに遠いものだった。

 楓とて、目の前で家族が命に関わる大怪我をしていたら、自分の身を削っても助けたいと思うだろう。だがしかし、自分の身を損なう事自体への恐怖がなくなるわけではない。
 しかし彼女は自分の力を悲観したことはいちどもないと言い、人も動物も植物も皆好きだと言い、誰より愛しているというライアンに関しては、突き指ごときでさえ自分の身を切ってせっせと彼の口に運び、しかもそれを喜々として行っている。
 こんな彼女の有り方について、正直言って楓にはまるで理解できなかったし、──やはり、それは天使や聖女の有り様にしか思えなかった。

「ですので、先程は、ついですね……好きなあまりにですね……。うう、これはやはりセクハラや痴漢になりますでしょうか……」
「ち、違うと思うよ。……多分」
「ううっ」
 ガブリエラは、恥ずかしそうに肩を落とした。
 このふたりがまだそういう関係ではないということは、楓もカリーナから聞いて知っている。カリーナは「さっさと付き合えばいいのに」と言っていたが、正直楓もそう思う。そうなれば、ガブリエラもこんな事で天使らしからぬ気持ちにならなくて済むだろうに、と。
「大丈夫だよ! なんていうか、その、い、いやらしい感じのあれじゃないし! ギャビーもそういう気持ちでやったんじゃないと思うし!」
「そ、そうでしょうか。そう見えましたか」
「え? 見え? えっと、……多分」
「たぶん……」
「だって私そういうのよくわかんないもん!」
 とうとう楓も顔を赤くして、ぶんぶんと拳を振った。

「そうなのですか。カエデは、恋人になりたいような方がいませんか?」
「……いない」
 照れ臭さのせいでぶすっとした返事になったが、ガブリエラはあっさりと「そうですか」と言った。
「カエデは、こういう話が苦手ですか?」
「あんまり……かな」

 小学校のクラスでも、それぞれ好きな子、気になる男の子の話が飛び交っている。早熟な子は、年齢相応の範囲とはいえ、彼氏ができたという話もあるようだ。
 だがほんのりとでもそういう存在ができたことがなく、最近までバーナビーの切り抜きを集めて黄色い声を上げるのが精々だった楓は、どうもそのあたりがピンとこなくて、話に入っていけないのだ。
 さらに、あろうことかその憧れだったバーナビー本人と親しい縁ができてしまったばかりに異性を見る目のレベルが途方もなく上がってしまった、ということもあるのだが、これについては楓は自覚がなかった。

「そうですか。もしそういう方ができたら、皆で好きな人の話をしましょう。コイバナというやつです。楽しいですよ」
「うーん……」
「何か悩んだら、私やカリーナや、パオリンや、誰でもいいので相談するといいです。特に、ネイサンは頼りになります。ネイサンは女神様ですので」
「……うん」
「カエデが好きになった方なら、きっと素敵な方でしょう」
 そう言ったガブリエラの表情がとてもにこやかで、言い方も他意のないものだったので、楓は素直に「うん」とまた頷いた。

 ──自分も彼女のように、命懸けで誰かを愛する時が来るだろうか。

 楓はそっと自問したが、やはり遠い世界の話のようでまるで想像がつかず、すぐに考えるのをやめてしまった。






 最初こそびくびくしていたものの、結局、楓はガブリエラの能力を暴走させることはなかった。
 なぜならそれは、恐ろしいからだ。食べられたくない、死にたくない。自分以外の生命のすべてが捕食者であるという恐怖があるのに、能力の暴走などありえない。賢い赤ん坊が、危険を前にその泣き声を本能的に潜めるように。
 だが同時に、においを漂わせるようにエネルギーが漏れ続けることも変わらなかった。これもまた、完全に外界を遮断するのが恐ろしいからだ。生命の危機に対する恐怖と、孤独に対する恐怖が、楓を中途半端な状態にした。

 そしてその状態が許されるのは、ガブリエラがいたからだった。
 たくさんの食事が必要にはなったが、常に飢えを感じて焦るほどにはならない。それは楓がふわふわと溢れさせるエネルギーを、常に側にいるガブリエラがすぐにすくい上げて吸収し、楓に戻してくれるからだ。まるで小さな水槽の中のビオトープのように完成した関係性が成立していたからこそ、楓は安心することができた。

(私って、甘えてる)

 そう思ったからこそガブリエラを師匠にすることを選んだはずであるのに、楓は彼女の側にいればいるほど、強くそう思うようになった。
 最初はそれを恥じ自己嫌悪にも陥ったが、カウンセラーであるシスリー医師は、それは単に気付きであって改善点というわけではない、と言った。
 あなたはまだ子供であるのだから──という、これもまた楓が嫌というほど思い知っていることを言われれば、素直に聞き入れる他ない。楓はとにかくあらゆる面で気付いたことをまとめ、彼女に報告し続けることにした。

 ガブリエラを観察してよく理解することで、自分身のこともきっとよく分かるようになる、とシスリー医師は変わらず言った。同じ能力を持った違う人間として、一緒に生活する。そうすることで、能力のことも、そしてそれぞれの違いもよく分かるのだと。
 そして実際、楓はこの短い間に、今の状況がなければきっと永遠に気づきも理解もしなかっただろうことにたくさん出会っている。

 泣いている楓をガブリエラが迎えに来てくれたように、彼女自身が楓と同じ12歳だった頃、鉄のゆりかごから彼女を抱き上げた人がいるのだろうか。それとも、自分の足で飛び出したのだろうか。
 どうして自分ばかりこんなめに、と楓は自分の運命を恨んだが、ガブリエラは、自分の能力がなければよかったと思ったことはないという。しかもその能力を多くの人に使おう、ヒーローになろうと決めた。
 それはなぜだろう。彼女が生まれつき聖女で、天使のようで、しかし楓はそうではないからだろうか。

 ──聖女とか天使とか、冗談でもねえわ。そいつはただの犬だ、犬

 だが、彼女が誰より愛する彼は、彼らしからぬほどそう断言した。
 なぜだろう。何が違うのだろう。

「誰かと一緒に暮らすのは、とても楽しいですね」

 楓に対してガブリエラが面倒そうな顔をしたことは、いちどもなかった。むしろ楓がいることを嬉しがり、常ににこにこと機嫌が良さそうだ。
 楓はガブリエラと同じベッドで眠り、毎日同じ時間に起きた。起き抜けにはまずふたり分の朝食を電子レンジで温めるのは、自然に楓の役目になった。交互にシャワーを浴びて、楓の編みこみに感心するガブリエラの赤い髪をお揃いの髪型に編みこんで、手を繋いで部屋を出る。
「まー、姉妹みたいになっちゃって」
 微笑ましげに、ネイサンが言う。
 同じ髪型をして、殆ど常に手を繋いでいるガブリエラと楓は、あきらかに人種が違うというのに、本当に姉妹に見えた。それはふたりが発する同じ力のせいであることを、楓はよく自覚していた。

 車移動にばかり頼るのも良くないと、朝はガブリエラのバイクの後ろに乗るようになった。バイクは車のような密室は作れないが、走っているバイクに手を延ばすことは物理的に難しいので、あとは楓の気持ちの問題だと言われれば、反論はできなかった。
 初めて乗るバイクはとても速く、空気と景色がびゅんびゅん流れていく中、楓は必死で薄い背中にしがみつく。
 だが広い空の下で自由自在に走るバイクに跨ると、何もかもが吹っ飛ぶような開放感が得られるということを、楓は知った。

 食べても食べてもお腹が空くことに辟易しながら毎日ものすごい量の朝食を摂るのは大変だが、食べずにはいられない。元に戻ったときのことについては、楓はあえて考えないようにした。考えたくないともいうが。
 食事が無機質な給油作業のようになりがちだからこそ、誰かと一緒にテーブルを囲みたいと望む彼女の気持ちが、楓にはよくわかった。
 手料理を喜ぶガブリエラのために、楓は何度か簡単な料理を作った。どの料理もガブリエラは大喜びで完食し、料理をしたことがないというので、いちばん簡単だろうとゆで卵の作り方を教えると、ガブリエラは大げさなほど感動した。
 ゆで卵を作るのが楽しいのか家でそればかり作って食べるので、偏った食べ方はだめと言ったのはギャビーでしょうと叱ると、しゅんとしつつも少し嬉しそうな顔をする。
 そしてそんな彼女のために、楓は今度はパンケーキを焼いたり、ガブリエラに電子レンジの使い方を教えたりした。
 フライパンいっぱいの巨大なパンケーキを作り、あらゆる種類のジャムやバター、アイスクリームをつけながらふたりで食べたのも、やたらに楽しかった。写真を見たパオリンやカリーナに羨ましがられたので、後日第2回パンケーキ女子会が開催される予定である。

 昼食は大抵ライアンと一緒で、3人でテーブルを料理で一杯にする。ライアンも、ガブリエラと同じくらいたくさん食べる。強力なNEXT能力者はエネルギー摂取が旺盛であることはそれなりに一般的な常識で、バーナビーなども、見た目にそぐわずかなり食べる。しかしライアンのそれは特に顕著で、時にガブリエラより食べる時もあった。
 最初は驚いたが、自分の中に星がひとつある感じ、という彼の言葉を思い出し、楓はなんとなく納得した。彼の能力が星を作るようなものならば、毎度核融合を起こしているようなものである。当然、膨大なエネルギーが必要だろうと思ったからだ。

 それからは、ジャスティスタワーに行くことがほとんどだ。虎徹やバーナビーと顔を合わせることも多い。

「アンジェラ、その、楓のことだけど、どんな感じだ?」
「カエデですか? カエデはとてもかわいいです! そしてとても賢い!」
「だろぉ? ……いやそうじゃなくてな、……うん、上手くやってるならいいわ」

 ふたりは、特に虎徹は心配そうにしていたが、楓はいつもガブリエラにくっついて回った。その様子がまるっきりリラックスしきったそれだったので、虎徹もやがて、しつこく大丈夫かと聞くことはなくなった。
「お父さん、心配かけてごめんね」
「いいんだよ。……なんか、いつもと逆だなあ」
 あまり近くに寄れないまま楓が言うと、虎徹は苦笑しながら言った。

「戻ってきたら、お前の冒険話を聞かせてくれよ」

 お父さん待ってるから、という虎徹に、楓は大きく頷き、またガブリエラの元に走っていった。










 真っ赤な髪が翻る。──いや、これは髪ではない。毛だ。荒野をひた走る狼犬の毛並み。
 先の見えない地平線の果てに向かって一目散に走っている彼女に、子猫が必死にしがみついている。子猫? ──違う、これは自分だと、楓は自覚した。
 子猫になった楓は、狼犬の姿をした彼女の骨っぽい背中から吹き飛ばされないようにするのに精一杯で、どこに向かっているのかもわからない。
 彼女はとても自由で、まるで全速力のバイクのように速い。しかも跳ね回るような走り方をするので、振り落とされないように、必死で彼女に縋り付く。スピードが速すぎる。落ちたら死ぬ。誰かに助けを求める暇もない。自分でどうにかしなければならない!!
 すると犬の姿をした彼女が、吠えるように言った。

「立つのです! 腰抜けから死ぬのです!」

 とんでもないことを言う彼女に急かされて、楓はがくがく震えながら膝を伸ばした。彼女の骨っぽくて頼りない背中を力いっぱい握りしめて、その背に立つという暴挙に出る。

「大丈夫! 私はあなたを死なせません! 必ずです!」
「転んだら死ぬ、だからこそ転ばないのです!」
「怖いのも、寂しいのも、大丈夫です! 慣れれば平気です!」

 馬鹿なことを言うな。危ない。怒られる。いやまず死ぬ。絶対に死ぬ。慣れたりなどするものか。するわけがない。
 そうして半泣きになりながら、とうとう彼女の背中に立つ。そうしてふと前を見て、楓は目を見開いた。

 地平線の向こうにあったのは、何もかもを消し飛ばすような輝き。



 ──そんな夢を見て、楓は今日も、彼女の隣で目を覚ます。
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BY 餡子郎
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