#010
 ──熱狂的なブームになった。

 誰もが絶望するような、未曾有の大事故。
 しかし、地上での被害は幸い軽傷者ばかり。最も絶望的とされた、メトロに生き埋めになった乗客も弱ってはいるが、全員がほぼ無傷という快挙。いや、奇跡と言われた。

 つまり、戦えないが命がけで人を癒やす健気なヒーロー・ホワイトアンジェラをこれ以上なくドラマティックに、しかも生放送でショッキングに映したこと。そして他のヒーローたちが一丸となってアンジェラを助けたことによって、ヒーロー全体のイメージアップは甚大なことになった。
 また普段冴えない二部リーグヒーローや、一般職に就いている地味な能力者たちが活躍したことにより、二部リーグは地味でいまいち頼りにならないというイメージも払拭。

 ──小さな力しかなくても、誰かのヒーローになれる瞬間は存在する。そうでなくても、できることを! 

 そう言って避難誘導を行う二部リーグヒーローたちの姿は民衆の感動を呼び、『ぼくらのヒーロー』で堅実に積み上げてきたニッチな人気は、これでもかというほどの大爆発を起こした。
 今シュテルンビルトでは、従来通りにスカイハイやバーナビーなどの超人気ヒーローのグッズや知識をいかに持っているかと同時に、誰も知らないマイナーなヒーローをどれだけ知っているか、ということもまたブームになっていた。
 今までさほども作られていなかった上に倉庫で埃をかぶっていた二部リーググッズは売れに売れ、品切れが続出。特に前所属の“ケア・サポート”時代のホワイトアンジェラのグッズ──すなわちたった1種類だけ小ロットで作られたストラップは、超プレミア価格でオークション取引がされている。
 ちなみにホワイトアンジェラの所属企業のものということでマッチョ君のグッズも出回ったが、これは大した価格もつかずにそのまま忘れ去られた。

 この流れは途切れることなく、二部リーグを扱う番組は一定の視聴率が取れるようになり、ホワイトアンジェラを特集した回の『ぼくらのヒーロー』の再放送はネットでも何度も視聴され、動画サイトのサーバーが2度落ちた。
 また今までのホワイトアンジェラの活動を紹介しつつ行われた、実際の事故の最中のライブ中継は、HERO TVの歴史の中でもかなりの視聴率を叩き出した。特に折紙サイクロンが現場に潜入した際に小型カメラで撮影された映像は、数字的に、見ていない者のほうが極僅か、というまでのものだった。

 そしてそれら全てを仕切った、HERO TVプロデューサーのアニエス・ジュベールの評価は、やはりショッキングでセンセーショナルな攻めの題材を扱わせたら天下一品だと、うなぎ登りになったのだった。






「ホワイトアンジェラ、経過はいかがですか」

 メモを携えたインタビュアーが、にこにことしている。
 ガブリエラは、ホワイトアンジェラのトレードマークである大きな遮光サングラスと、白い犬耳付きベールの頭巾をつけたまま、「おかげさまで」と頷いた。
 医療用ベッドに背を起こした格好でこのヒーロースタイルは妙なものがあるが、これからヒーローとしてどのように活動していくのが未定である今、安易に顔を出すのは避けた方がいい、という周囲の判断からの対策である。
「体重も、もうすぐ元に戻りそうです」
「それは良かったです。今いちばんしたいことは?」
「えー……」
 特にありません、と言いたいところだったが、インタビュアーの後ろ、カメラを構えたオーランドの横でアニエスが鬼の形相で睨むので、ガブリエラは「早く退院したいです」と当たり障りないことを言った。
「それは、早くヒーローとして活動したいということ?」
「ええと、……はい、そうですね」
「皆気になっていると思いますが、これから先、ホワイトアンジェラはどのように活動していくのでしょう? 企業への所属は? スポンサーはつくのでしょうか?」
「たくさんの企業から、お申し出を頂いています」
 事前に台本を用意していた質問が来たので、ガブリエラは、はっきりと答えた。丸覚えした台本を読むのは得意だ。

「今までと比べて、本当に環境が変わったので戸惑っています。法律的なことなどもありますし」
「なるほど」
「専門の方に相談しながら、慎重に決めさせていただきたいと思います」
「皆、ホワイトアンジェラのこれからの活躍を楽しみにしていますよ!」
「ありがとうございます」
「今までの活動ではあまり……ほとんどカメラに映ることがなかったようですが、これからは、貴女の活躍をメディアで見ることができるようになりますか?」
「ええと、私にはわかりません。これから所属する企業のやりかた次第です」
 今回はかなり大規模な事故で、他のヒーローも関わっていたという特殊な事例だったので注目されたが、本来の自分の能力も活動も地味なものだ。いちど有名になったからといって、これから先もそうであるというわけではない。自分は盛大な一発屋みたいなものだ──、と、目立つこと自体にあまり興味を持ったことのないガブリエラは認識していた。
 もちろん、睨みを効かせているアニエスに従って、余計なことは言わないが。
「そうですか。しかし、貴女のこれからの動きにシュテルンビルト中、いえ世界中が注目しています。これからもメディアは貴女を追いかけることになるでしょう。その点については?」
「えっ。せかい?」
「はい」
「大げさだと思います」
「まさか!」
 ごくごくフラットな声色で答えたガブリエラに、インタビュアーは興奮気味に話し始めた。

 外部ヒーローのゴールデンライアンを招集したことで、今回の事件はシュテルンビルトだけの話題ではなくなった。そしてホワイトアンジェラは、“戦うのではない、癒やすヒーロー”という全く新しい存在として、センセーショナルに人々に認知されたのだ。
 そうしてホワイトアンジェラの存在は、NEXTが周りに害をなしたりする存在ではないという象徴としても捉えられ始めている。長く続き、今でも根強いNEXT排斥や差別問題においても、ホワイトアンジェラは今、非常に注目されているのである。

「ええと……そのようですね……」
 政治的なことや社会問題、主義主張に関わることは発言するな、ときつく言い渡されており、なおかつ台本の用意が充分ではないガブリエラは、曖昧な返事をした。その態度に満足行かなかったらしいインタビュアーは、更に身を乗り出す。
「もしかして、人気者になることについて、あまり興味が無い?」
「確かに、目立つことに熱心になったことはありません」
 今まで全く知名度がなかったし、さもあらんというコツコツとした活動スタイルであったという点も、ホワイトアンジェラの爆発的注目度の理由のひとつである。「確かに」と、インタビュアーは頷いた。
「有名でなくても、人を助けることはできますし……」
「なんと素晴らしい、崇高な志です。貴女らしい」
 インタビュアーは感動したようにゆっくり首を振っているが、ガブリエラは、私らしいとは、と微妙な気持ちだった。崇高などと、生まれて初めて言われたので一瞬意味が理解できなかったほどだ。
 周りが勝手に、自分の像を作り上げていく。なるほどこれが有名になるということかと彼女が変な感動をしていると、インタビュアーは再度顔を上げた。

「しかし、アンジェラ。今や貴女は間違いなく、世界的に有名なヒーローですよ。しかも、誰もが貴女を讃えている。貴女こそ本当のヒーロー、いえ天使だと」
「はあ」
 相変わらず穴の空いたバケツのような反応のガブリエラに、インタビュアーは更に続けた。
「世界で最も多くの信者を持つ○○教からは、貴女を聖女認定しようという動きもあります。このあたりはどう捉えていらっしゃいますか?」
「うぅん……、ああ、母は喜ぶかもしれません」
「お母様が?」
「熱心な信徒なので」
 なるほど、と頷いて、インタビュアーは一旦身を引いた。ガブリエラ自身の考えが聞けたわけではなかったが、プライベートな情報が得られたので、それなりに満足したらしい。

「ではホワイトアンジェラ。あなたがこのように素晴らしい活動を行うに当たっての信念やポリシー、そのあり方などを教えていただけますか?」
「あの、それは、……どうして人を助けるのかとか、そういう質問でしょうか。すみません、私はあまり頭が良くなくてですね……」
「いえいえいえ、そんな! でもそうですね、そういう事だと思っていただいて結構です」
「そうですか。そうですね、……人を助けると、悪い人がいなくなるので、です」
「……ええと。どういうことでしょうか」
 今度はインタビュアーが聞き返すと、ガブリエラは考えながら、殊更ゆっくりと話しだした。

「ヒーローというものはつまり、悪者をやっつけて、困っている人を助けるものです」
「シンプルに表現すれば、そうですね」
 子供のような言い方だが、確かに間違ってはいない。インタビュアーも、他のスタッフも頷いた。
「私には、“悪者をやっつける”、ということが、ほとんどできません。一部リーグヒーローのように。私の能力でできるのは、怪我をした人を治すこと。それだけです。しかし──」
 懸命に考えながら、ガブリエラは言った。
「──怪我をしていなければ、ちゃんと歩くことができる。働くこともできます。病気にもなりにくくなります。おなかがいっぱいなら、食べ物を盗んだりもしません。仲間はずれをせずに、みんなが美味しいものを食べられれば、気持ちが優しくなります」
 幼い子供のようにたどたどしい言葉を、皆、じっと聞いている。
「つまり、みんなが健康で、おなかがいっぱいであれば、悪いことをする人は少なくなります」
「……なるほど?」
 インタビュアーは曖昧な表情で深く突っ込まず、その質問を切り上げた。そしてその後細々とした質問をしてから、最後に言った。

「ヒーロー・ホワイトアンジェラ。貴女はまさに身を削って、人々を助けてきました。所属企業を失っても、ボランティアで病院に通い人々を助けていたことは有名です。そして今回の事件は、その活動の最たるものと言っていいでしょう。あなたをそこまで突き動かすものはなんですか?」
 そう言われて、ガブリエラはきょとんとした。
 ──何と言われても。というその表情はサングラスに阻まれてはっきりとはわからなかったが、口元がぽかんとしている。しかし険しい顔のアニエスの顎が上がり始めたのに気付いたガブリエラは、慌てて口元を引き締めた。

「いえ、その、あの、よくわかりません。好きでやっていることです」

 わたわたとガブリエラが答えると、インタビュアーは「素晴らしい!」と声を上げ、目をきらきらさせた。

 その後、放映時のことなどについて幾つかのやりとりをすると、インタビュアーやスタッフたちは、満足気に病室を出て行った。
 その最後尾で、アニエスがにやりと笑みを浮かべつつ、ビッと鋭いサムズアップをしてくる。いちばんの懸念であった彼女への貢献が無事に果たせたことにホッとして、ガブリエラは苦笑しつつ、力ない敬礼を返したのだった。



「……いけませんね」

 スタッフと入れ替わりに病室に入ってきたユーリ・ペトロフは、挨拶を交わした後、まずそう言った。
「軽率にプライベートなことを話すのは、あまりお勧めできないと言ったはずです。特に肉親のことは」
 事件後、所属する企業、つまり後ろ盾のないガブリエラの相談役となったのが、シュテルンビルト司法局のヒーロー管理官兼裁判官でもある彼だった。
 普通、彼のような立場の者が、個人に専属で付くことはない。しかしホワイトアンジェラはそれほど注目度が高く、そして社会的な影響が甚大な存在であった。
「世界のすべての重要企業、組織、団体が、貴女に注目していると言っても過言ではない。特に○○教、宗教関係は繊細な問題であり、かつ影響力が冗談では済みません。貴女のお母様が敬虔な信徒だと知ったら、お母様を通して貴女にアプローチをかけようとしてくるというのは、じゅうぶんに考えられます」
「申し訳ありません。……しかし、大丈夫だと思います」
 けろりと言ったガブリエラに、ユーリは片眉を上げた。

 ヒーローアカデミーに入る前は、幼年学校──未開発地帯に多い、小学校よりも更に基礎的な、四則演算や読み書き、一般常識レベルの最低限の教育を行うそこをなんとか卒業したのみというガブリエラは、自分は学がないからと、あらゆる面においてユーリに従順だった。
 確かに学歴がない分説明しなければならないことは多くあるが、提出しろと言った書類は全て目を通してから記入し、期日より余裕を持って提出してくるし、わからないところは素直に質問してくる。そのため、ユーリは概ね、彼女をやりやすい、そしてそれなりに好ましい相手として認識していた。
 しかしそれだけに、重要な事に反論してきた彼女は珍しかった。

「何を根拠に」
「母は入院しています」
「入院?」
「頭がおかしいので」
 やはりけろりとそう言ったガブリエラに、ユーリは一瞬目を見開いた。──動揺したのである。そしてガブリエラはそんなユーリの反応を気にしているのかいないのか、続けた。
「私は頭が悪いですが、母は頭がおかしいのです」
 なんともコメントしがたいことを、ガブリエラはけろりと言った。
「私が子供の頃からおかしかったのですが」
 ガブリエラ自身事情がよくわからないのだが、片親である上に母がこの調子であるためか、ガブリエラは、教会で寝床を世話して貰っている、教会の娘だった。故郷を出る時、ガブリエラは一応の育ての親でもある神父にだけ言付けをしてシュテルンビルトを目指した。
 もし母に何かあったら教えてほしいというガブリエラの頼みを、神父は承諾してくれた。
 そしてガブリエラがシュテルンビルトでヒーローアカデミーに入学し、電話という連絡手段で神父と連絡を取った時。神父が告げたのは、母は娘が側にいなくなったことも気付かず、毎日欠かさず神に祈っているということだった。

「アルバイトのお金がたまった時、施設に入ってもらいました。綺麗な礼拝堂のある所です」
「……そうですか」
 ユーリは、静かに頷いた。
「母がまだ教会で暮らしていたら、ペトロフさんのおっしゃるようなことになっていたかもしれません。しかしちゃんと施設にいますので、おそらく大丈夫です」
 つまり、精神に異常をきたしている、と医師が診断書を出して施設に入っている母親を、まさか大々的に取り上げたりしないだろう、ということだ。そしてそれは、ユーリも同意だった。
 ガブリエラの言うことが確かなら、彼女の母親の発言には、影響力はまるでない。母親の存在が知られたとしても、精神疾患を抱えた故郷の母を見捨てず然るべき施設にきちんと入所させ、慣れない都会暮らしの貧しさの中から費用を支払い続け、またそんな母親を抱えてヒーローとして奉仕活動を続けたという更なる美談になるのがせいぜいで、利用されることはないはずだ。
 ユーリは少し俯きながら、「そうですか」ともう一度言った。

「……事情はわかりました。しかし、軽率な発言は控えるように」
「わかりました。気をつけます」
 ガブリエラは、素直に頷いた。彼女は気をつけますと言えば、本当に気をつける。無知ゆえにヘマをやらかすことがないとは言えないが、彼女も自分の頭の悪さは重々自覚しているようで、台本さえ用意してやれば、そのとおりに喋ってくれる。そのあたりは自分がサポートすればいいことであると思っているユーリは、よろしいと頷いた。

「貴女は、……貴女は今、絶対的に正しい存在です」

 ユーリは、重たい声で言った。
「有名になりたいとも人気者になりたいとも言わず、ただ黙々と、身を削って人を救い続けてきた貴女が聖女に認定されても、誰も驚きません」
「大げさでは?」
「大げさではありません」
 静かだが強い声に、ガブリエラは、サングラスを取った裸眼で彼を見た。
 細身だがかなり背が高く、燃え尽きたような灰色の髪に、あまり健康的とは言えない白い肌。きちんと寝ているのかと心配になる、濃い隈の目立つ目元。──まるで死神のようだ。
 結構な美形なのに、もったいない。更に言えば、変な柄のネクタイももうちょっといいものに変えたらいいのに、とガブリエラですら思う。
「貴女は、完璧だ。私利私欲など欠片もない、自己犠牲の権化。迷いもなく、疑うべくもなく、完璧に正しい、……正義」
 ユーリが、顔を上げた。ガブリエラと似た色の灰色の目が、強い光を放っている。

 聖女。──天使。

 彼女がそう呼ばれることについて、ユーリはさもあらんと思う。
 あまりに各方面への影響力が高いとして、ある意味VIP待遇のような形でガブリエラの担当になった時は、こんなに完璧な人間がいるものかと、ユーリは当然のように疑っていた。
 人には表と裏がある。誰もに欲があり、虚栄心があり、その上辺だけのものを守るため、時にいかなるものをも残酷に犠牲にする。その姿の愚かしさを、そして犠牲にされるものの悲しさを、ユーリは嫌というほど知っている。そしてその欲や虚栄が大きいほど、犠牲になるものが大きいということも。
 だからホワイトアンジェラとやらもそうであるのだろうと、ユーリは青く燃える炎を胸に、彼女に向き合った。

 しかし彼女は、違った。
 本名すらガブリエラという天使の名であった彼女は、あらゆる面で嘘がなかった。彼女はいちどとして、有名になろうとしたことも、富を得ようとしたこともない。
 後ろ盾となる所属会社がなくなってからはアルバイトをしながらボランティアに献身し、人を助け続けた。感謝の印として、そして能力を使う文字通りの糧となる食料を受け取ることはあるが、金銭を要求したことは全くない。そしてその活動を、誰かに知らせようとしたこともない。
 黙々とひとりで、彼女はただただ、人を助け続けていた。

 ──怪我をしていなければ、ちゃんと歩くことができる。働くこともできます。病気にもなりにくくなります。おなかがいっぱいなら、食べ物を盗んだりもしません。仲間はずれをせずに、みんなが美味しいものを食べられれば、気持ちが優しくなります

 先ほどのインタビューでの彼女の答えに対し、理想論だ、と当然のようにユーリは思った。もっと言えば、綺麗事であると。それは例えば、クリスマスの日に小さな子供が「世界が平和になりますように」と願うようなレベルの拙いものだと。
 だからこそ、インタビュアーも深く突っ込まず、質問を切り上げた。ただでさえ、子供の願い事に野暮な言葉はかけられない。しかも彼女のように口先で願い祈るだけでなく、実際に己の身を削ってそれを成し遂げたというこれ以上ない実績のあるその主張に、彼らは黙ることしかできなかったのだ。
 それに実際、このメトロ事故で彼女が乗客たちを万全な状態に保っていなかったら、密室での極限状態によるパニックで乗客同士でのトラブルが発生し、場合によっては想像もしたくない惨状になっていたこともじゅうぶんに考えられるのだ。
 彼女ひとりが犠牲を請け負ったおかげで、少ない食べ物を奪い合う者も出ず、お互いが尊重しあい、いざ助かるという時になっても、皆が協力して彼女を真っ先にレスキューに差し出そうとした。それはまさに、すべての罪を背負って丘の上の十字架にかかった救世主の姿を彷彿とさせた。

 ──満たされていれば、人は優しくあれる。

 その考え自体は真理に近い、とユーリも思う。
 なぜならそれは、己を満たしていたもの──すなわち地位や名声、金、健康な体。あるいは代わりのきかないものを失った時、人は信じられないほど豹変するのだということを、ユーリはよく知っているからだ。
 満たされない人は狂い、誇りを失い、他人どころか、愛していたものすら傷つけて、罪人に堕ちてゆくのだと。

「宗教的なものを差し引いても、あなたはこれから、NEXT差別という社会問題を覆すアイコンとして扱われるようになるでしょう。あなたほど、NEXTを肯定するに象徴的な存在はいない」
「はあ。……それは、ええと。よくわかりませんが、変な感じですね」
「は?」
 ユーリは、ぽかんとした顔をした。ガブリエラの声が、やはり淡々としていたからかもしれない。彼女はユーリと同じような色の目に困ったようなものを滲ませて、苦笑を浮かべていた。
「変な感じ、とは」
「聖女とか、天使とか……。なぜなら私は、犬の子なので」
「……犬の子?」
 何かのスラングだろうか、とユーリは首をひねった。ガブリエラの故郷は、もはや外国語に近い訛りを持つかなりの僻地である。
「つまりその、私の母は、えー……」
 ガブリエラは、少ないボキャブラリーから、なるべく直接的でない言葉を選んだ。ビジネス会話はそれなりにこなせるのだが、そうでない場合、ガブリエラは非常に語彙が少ないのである。

「つまり、望まない妊娠をして私を産みました」
「それは……」

 ユーリは、今度こそ驚愕の表情を浮かべた。そして、畜生の子という言葉の意味を察する。
「元々、母は男性が嫌いな人でした。修道女ですし」
「はあ」
「それなのに相手はNEXTで、詳しいことは知らないのですが、能力を使って女性を、その、どうこうする、……ええと、わかりますか」
「……結構。だいたいわかります」
 懸命に繊細な言葉を探そうとするガブリエラを、普通よりそういった話題に察しのいい裁判官であるユーリは、やんわりと留めた。
「それで私を産みましたが、頭がおかしくなりました」
 堕胎は罪である、とする教義であることは、ユーリも知っていた。

「ですので私は犬の子で、そしてガブリエラです」

 ガブリエルの女性形。処女懐胎を告げる、受胎告知の天使の名前。

「可哀想に」

 その言葉すら、おそらく自分ではなく、母親に向けられているのだろう。しかし怒りの欠片もない、ただただ仕方なさそうな彼女のその有り様が、ユーリにはやはり理解できない。
 ユーリなら絶対に、彼女のようにはならない。母を傷つけたものを、自分に向けられた悪意を、罪を、必ず裁く。

「多分これも、調べればわかるのではないですか」
「……そうでしょうね。あえて隠す、ということもあるでしょうが」
「はあ。大騒ぎですね」
 当人のくせに、まるで他人事のようにガブリエラは言った。

 その様子に、ユーリはどこか拍子抜けする。
 子供のような綺麗事を口にし、しかもそれを本気で実行してみせる傍ら、しかし実際に接してみると、彼女はいかにも慈悲深い聖女、という感じではない。
 ユーリがぼんやりとイメージする聖女は、哀れな者に涙を流し、人の愚かしさを嘆き、確かな意思でもって人を救う、というような、非常にドラマティックな存在だ。
 だが彼女は、まるでそういう感じではない。むしろ、なんだか乾いた印象だ。確かに人の悪口は全く言わないし、どちらかというと鈍臭くてぼんやりした様子で、怒りを見せたところも、少なくともユーリは見たことがない。仕事と名のつくものには真面目だし、人の言うことは素直に聞く。たまにユーモアも見せる。品のないジョークに笑うこともある。
 だが彼女はいつも淡々としていて、何もかもを当たり前のように行うのだ。先ほどのインタビューでも、彼女からはいわゆる、自分に酔ったような熱意は感じられない。別にそんなに大げさなことじゃないんだけど、と本気で思っているのが、ユーリにはよくわかった。とはいえ、メディアではやはり慈悲深き聖女、というふうに改変されて扱われるのだろうが。

「……犯人は、きちんと捕まったのですか」

 ふとユーリが尋ねると、ガブリエラはきょとんとした。
「え? ああ。ドラッグをやっていて、それで死んだそうです」
 救いようがない。思わず顔をしかめるユーリに対し、ガブリエラは、やはり淡々としている。悲しさも怒りもなく、ただ起こったことを話している、それだけの様子。

「……あなたは、神を信じていない?」
 あまりにも彼女が淡々としているので、ユーリはつい尋ねた。
「さあ。難しいことはわかりません」
 それは、どうでもいいということだろうか。それとももっと別の意味だろうか、とユーリが思っていると、彼女は更に言った。

「先ほども言いましたが、私は好きでやっているだけです」
「……正しいと思っているから、ではなく?」
「うーん、どうでしょう。母が言うところによると、正しいことだとは思いますが」
「お母様が?」
「はい」

 ──困っている人を助けなさい。愛をもってです。
 ──たとえ自分の身を削ってもです、ガブリエラ。
 ──あなたには、その力があります。

 それはとても良いことで、何よりも尊いことである。ガブリエラの母は、ことあるごとにそう言っていたのだという。
「そうすれば、星に行けると」
「星?」
「はい。私はずっと○○教の教えだと思っていたのですが」
「私も詳しい訳ではありませんが、聞いたことがありませんね」
「おそらく、私の育ったところ特有のものです」

 曰く。
 約束の日、女神から遣わされた天使がやってくる。
 愛をもって善行を積めば、天使は我々を輝く星へと連れて行ってくれる。
 ただし、その行いに邪なものがあれば、天使は我々を地に這う蛇に変えてしまう。

「しかし、頭のおかしい人の言うことです」
 身も蓋もなく、非道いというよりはやはりあっけらかんと、ガブリエラは言った。
「故郷にいる時、母は私が“誰かを助ける”ことをしないと、食べ物をくれませんでした。そうしなければ星に行けない、と言われて。とにかく私はおなかがすくと、誰かの手伝いをしました。星がどうこうというのはよくわかりませんでしたが、ただ食べ物が欲しくて」
 ガブリエラの故郷は非常に治安が悪かったため、母に食べ物を貰うために、危険な“人助け”をしたことも、何度かあるらしい。

 能力に目覚める前のガブリエラは、頭が良いわけでもなければ身体能力に優れているわけでもなく、腹には貯まらないくせにすぐ脂肪になる安物の食事のせいでブクブク太るばかりの穀潰しだった。それこそ、卑しい犬の子と蔑まれるような。
 だが能力に目覚めてからはどれだけ食べてもむしろそれが誰かの助けになり、礼さえ言われる。十字架にかかっている聖人を思わせる痩せ細った身体が、ガブリエラにとっての免罪符になったのだ。

「強迫観念になっている?」

 裁判官という職に就くにあたり、ユーリは必須項目として、そしてそれ以上に独学で、特に犯罪心理学を修めている。彼女の特殊な心理状態に興味を持ったユーリが更に質問すると、カブリエラはまた首を傾げた。
「きょうはくかんねん?」
 ガブリエラは、自身の無教養を隠しもしなければ恥じもしない。
「……カウンセリングは?」
「受けたことがあります。アカデミーでも、ヒーローになる時も」
 NEXTは迫害や差別で精神的な傷を負うことも多いので、様々なところから集まってくるアカデミー生のため、アカデミーにはカウンセラーを常駐させている。またヒーローとして活動する際の様々な資格条件のひとつに、メンタルチェックもある。
「特に異常とは言われませんでした。ストレス値はいつも平均より低めです」
「……まあ、何よりです」
「図太いのだと思います。私は頑丈です。今回も生きていますし」
 鶏がらのような身体で、ガブリエラは説得力があるのかないのかわからないことを言った。
 しかし体のことはともかく、ハイティーンにもならない歳で着の身着のままシュテルンビルトにやってきたことからして、確かにメンタルは非常にタフなのだろう、とはユーリも認める。

「ですので、私がやっていることが“完全に正しい”ことかどうかは、わかりません。しかし母にとっては、間違いなく正しいことになるでしょう。それが親孝行になっていればいい、とは思います。彼女は、とても可哀想な人ですので」
 能力を使う時、ガブリエラは母を思い出す。
 生きながらにして神の御下に行ってしまったような母は、今までいちどもガブリエラをまともに見たことはない。ただいつか本当に彼女が天に召された時、彼女の言う星というものがあるなら、そこから自分のやったことを見て少しは感心してくれたらいい、とガブリエラは思っている。
「しかし、今の私を母がきちんと把握しているのかどうかは、わかりません。多分していないでしょう。私も、母から食べ物を貰わなくても、自分で稼いで食べていけるようになりました。ですのでやはり、ただ私が好きでやっているだけなのです」
 結局は自己満足ということ、と、おそらく要約すればそういうことを、ガブリエラはあまり豊かではない語彙で言った。
「……最初は確かにただ食べ物が欲しくて、死にたくなくて、力を使ったり、人の手伝いをしたりしました。しかし今は、違います」
 ガブリエラは、微笑んだ。

「やりたいので、やっているだけです。私の意思で。星に行きたいわけではなく」

 ユーリは、目を細める。彼女の笑みは控えめだったが、ユーリが眩しく感じるほどの輝きが確かにあった。
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BY 餡子郎
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