#003
「コレステロール値は大丈夫ですか。マヨネーズの摂り過ぎが心配です」
「だっ! 大丈夫だってーの!」
お揃いの水色の検査着を着てスリッパをぺたぺた鳴らしながら廊下を歩くのは、 鏑木・T・虎徹ことワイルドタイガーと、その相棒であるバーナビー・ブルックスJr.である。
「あっ、虎徹だ! 虎徹!」
「ワ・イ・ル・ド、タイガー!」
進行方向の廊下の角からやってきた、女の子が乗った車椅子を押していた少年に指をさされた虎徹がむきになって言い返すと、少年はきゃははと笑った。
「もういい加減いいんじゃないですか、虎徹でも」
「よくねえよ!」
呆れた様子のバーナビーに、虎徹は苦々しい顔で言った。以前の事件によって虎徹の正体は素顔とともにバレているのだが、彼は未だにバレていない“てい”でアイパッチのマスクを着用し、先ほどのようにファンから虎徹と呼びかけられた時は、「ワイルドタイガー!」と言い返している。
それにしたって、今のようにアイパッチすら着けていない時に「虎徹」と呼ばれて「ワイルドタイガー」と言い返していてはむしろ逆効果だろうに、とバーナビーは思う。実際、今となってはもはや“お約束”のようなやりとりとしてファンに認識されているのが現状だ。
「あの、あの、……こ、こんにちは、バーナビー」
「はい、こんにちは」
頬を染めておずおずと挨拶してきた車椅子の少女に、バーナビーはとびきりの笑顔で返した。虎徹は、少年の頭をぐりぐりと撫で回している。
「タイガーとバーナビー、怪我したの?」
「いいえ、検査ですよ。これからも元気にヒーローができるように、調子が悪いところがないか調べるんです。あなたは?」
「私も検査。もうすぐギプスが取れるの」
「それは良かった。頑張りましたね」
「えへへ……」
嬉しそうな少女の頭を優しく撫でてから、虎徹とバーナビーは兄妹だという彼らと別れ、また廊下を進む。
少女に言った通り、ふたりは今、検査に来ていた。
ヒーローという特殊な職業を成立させるにおいて、基本的には各々の所属企業が彼らを管理するものの、シュテルンビルト全体でヒーローに関する共通の決まり──というより、法律が存在する。
そのひとつが、年に2度行われる健康診断だった。NEXT能力に関する項目もあるため、指定された施設に全ヒーローが何人かずつ集められて、様々な診断・診察を受けるのだ。
ゴールドステージにあるこの検査施設は、NEXT能力の本格的な検査設備を有する、世界最大にして唯一の施設でもある。
通常の健康診断が終わったので、ふたりは今、NEXT能力について調べる棟に向かっていた。
「んあ……? なんだあれ、寝てんのか? 堂々としてんなあ」
「こんなところで?」
ふと虎徹が足を止め、人気のない小さな休憩コーナーのソファを指す。六角形の眼鏡のフレームを指で押し上げてそちらに視線を向けたバーナビーは、レンズの奥の目を見開いた。
そこには確かに、ふたりと同じように検査着を着た人間が横たわっており、スリッパを履いた足がはみ出している。
「今ここにいるということは、ヒーローですよね。二部の」
「そうだなあ。疲れてんのかもしんねーけど、検査着のまま寝るのは──」
「二部とはいえ、ヒーローがそんなにマナーの悪い真似を? 具合が悪いのかもしれません」
「……様子見てみっか」
途端に真剣な表情になった虎徹は、あまり足音を立てないようにソファに近寄る。
「え? 男? 女?」
「失礼ですよ、虎徹さん」
とはいえ、バーナビーも実は同じことを思った。
寒かったのだろうか。ふたりと同じ水色の検査着の上からぶかぶかのパーカーを羽織ってフードを被っているが、ぎょっとするほど痩せているのは一目瞭然だった。手足は枝のように細く、だが背丈はそこそこあり、だからこそ足がソファからはみ出している。
発育の悪い少年、という表現がしっくりくるような容姿。ここにいるならヒーローのはずだが、身体が資本のヒーローがこんなに細いものだろうか、とふたりの頭に疑問が浮かぶ。しかもフードの陰から見える顔色は、まるで大理石のように血の気がない。更には僅かに震えている。
「おいおい! めちゃくちゃ顔色悪(ワリ)ィじゃねーか! やばいぞこれ」
「やっぱり寝てるんじゃなくて、倒れたようですね。ドクターがいるところまで運びますか」
「いんや、素人がむやみに動かすとよくねえ時もある。俺が見てるから、医者呼んできてくれ。えーっと名前……」
虎徹は、細い手首に巻かれた、名前と性別、年齢や血液型などが書かれた紙製のバンドをチェックする。こういう場面では虎徹のほうが頼りになるのだということを知っているバーナビーは、素直に彼の指示を待った。
「ガブリエラ・ホワイト。女の子だ。ヨロシク」
「Roger」
バーナビーはそう言って頷き、自慢の俊足で廊下を駆け去った。
「貧血、はともかく、栄養失調ォ!?」
虎徹は、素っ頓狂な声を出した。バーナビーも、目を見開いて驚いている。
普通患者の容態について他人に教えることはないが、ここは検査施設であって病院ではなく、そしてふたりは彼女を助けた、しかもヒーローである。
ガブリエラは間違いなく二部リーグヒーローであり、そして倒れた原因は、虎徹が叫んだとおりだった。結局医務室に運ばれた彼女は、栄養注射を打たれたあと点滴に繋がれ、今もベッドで寝ている。
「おいおい、そんなんで体力勝負のヒーローやってんのか!?」
「彼女の能力は、戦うためのものではないんですよ。実際、彼女はいちども犯人確保をしていませんし。後方支援のヒーローです」
「後方支援……」
聞いたことがなかったのか、「そんなんあんの」と虎徹が呟くと、バーナビーが「聞いたことはありますが、実際見たことはないですね」と同じくらいの音量で返した。
「……にしても、あんなに細かったら事件現場で走り回ってもらんねーだろ。ヒーローなんかしてて大丈夫なのかよ」
「彼女は、素晴らしいヒーローですよ!」
医者は、真っ直ぐな目をして、きっぱりと言った。そのあまりにもはっきりした断言っぷりに、ふたりは一瞬気圧され、目を見開いて黙る。
彼曰く、彼女、ガブリエラは、医療関係者の間ではとても有名であるらしい。そして、彼女を知っていて彼女のファンでない者はなかなかいない、とも言った。
「NEXT能力については一応守秘義務があるので私からは教えられませんが、本当に素晴らしいもので……」
医者は、目を細めた。心酔しているような、尊いものを語るような表情。
「ヒーローというよりは、聖人といえるかもしれません。彼女に助けられた人は、皆そう思っていますよ」
それから、しばらく。
「あのう」
「うおっ!? びっくりした! 誰!?」
銀行強盗の挙句に派手に逃走した犯人を、一部ヒーロー総出で全員確保したあと。
やれやれとトランスポーターの前で一休みしていたワイルドタイガーは、いきなり近くで聞こえた声に驚いて、思わず飛び退った。その派手なリアクションに、スーツのマスクをあげて素顔を出したバーナビーが、呆れた顔をする。
「いちいち大げさですね、あなたは」
「うっせーな! ……で、えーと、誰だっけ」
少し距離をおいて立っているのは、真っ白な衣装の人物だった。エナメルのミニワンピースのような服に、ニーハイブーツにロンググローブ。同じエナメル素材の、シスターか昔のナースのようなベール頭巾には、縦に長い三角耳がふたつ、ぴょこんと立っている。目元は大きな遮光ゴーグルで見えないが、いわゆる絶対領域になる部分の太ももが、ぎょっとするほどに細い。
二部リーグヒーローであることを証明するバッジを着けているので身元は明らかだが、それにしても、見たことがない。一時期ワイルドタイガーとバーナビーは二部にいたことがあるので他のヒーローよりかなり面識は多いはずなのだが、それでも彼女には見覚えがなかった。
「あの、私、先日、健康診断の時に助けていただいた……」
「……あー!」
ぽん、と虎徹が手を叩く。まだスーツ姿なので、実際はガシュン、と駆動音がしたが。
「はいはい! あの倒れてた嬢ちゃんか!」
女の子っぽくてわからなかった、とまでは、デリカシーがないと散々娘の楓に言われている彼も、なんとか言わなかった。
数日前に見た痩せぎすな体つきは、ひと目で性別がわからなかった。今はシスターやナース風の格好をしているので女性とわかるが、バディ・ヒーローふたりとも、やはり彼女に中性的なイメージを抱く。
なぜならその声が、とても特徴的だったからだ。初めて聞いた彼女の声は、高い。しかし女性らしい高さというよりは、声変わりをする前の少年のような、非常に特徴的な声色だった。それに痩せているが背は高めで、ベールについた犬耳を入れると、身長180センチのワイルドタイガーとさほど変わらない。
「えーっと名前、確か……」
「ヒーロー名は、ホワイトアンジェラといいます。このたびはご迷惑をお掛けして、誠に申し訳ありませんでした」
名乗った彼女は、型で押したような謝罪とともに深々と直角に頭を下げた。ワイルドタイガーは彼の民族的習性か、「あ、ども」と後頭部に片手を当てて、ペコペコと頭を下げ返す。
「……で、もう体調は良いのか?」
「おかげさまで。それで、これは、お礼です。当社で扱っている商品ですが……」
腰を低くした彼女が差し出した大きな紙袋を、今度はバーナビーが受け取る。それは封のされていない大口の紙袋で、色々なフレーバーのカロリーバーと、栄養ドリンク、ゼリー飲料、のど飴などがぎっしり入っていた。
市販品であるため、安全性があり、ひとつひとつは高価ではない。つまり当たり障りなく、なおかつあって困らない品々。
断る理由もないので、コーヒーブレイクの時のおやつとしてオフィスに置いておけばいいだろう、と思ったバーナビーは、「ご丁寧にありがとうございます」と言ってそれを受け取った。ワイルドタイガーが紙袋を覗きこみ、「おっ、きなこ味。うまそう」と声を上げる。
「では、これで」
「帰るのか?」
「いいえ、私はこれから仕事です」
ホワイトアンジェラは、淡々と言った。「あそこで」と指し示す先には、数台の救急車。
「……そういや、後方支援の二部リーグっつってたな。どういうことすんだ?」
「私は、怪我を治すことができます」
「えっ」
あっさりとした回答だったが、それだけに、ワイルドタイガーはアイパッチを着けた目を丸くする。
「あなた、“ケア・サポート”という会社の二部リーグヒーローですよね」
ずい、と進み出たバーナビーが言った。
「先日の出来事の後、ホームページを拝見しました。存じあげなかったので驚きましたが、範囲を限定した手堅い売り方で、二部リーグの中ではかなり成功している方だと」
「そうなの?」
「ありがとうございます」
きょとんとするワイルドタイガーと、再度深々と頭を下げるホワイトアンジェラ。
「ええ。主に医療関係者を中心に、知る人ぞ知る、という存在ですよ。狭く深く、といったところでしょうか。技能限定ヒーロー……というような印象を受けました。あなたの能力はいかにもヒーローらしいものではありませんが、そこであえて活動範囲を限定し、いえ活かし、立派に成り立っている。感心しました」
上手いことを言う、とホワイトアンジェラもまたバーナビーに感心した。技能限定ヒーロー、確かに、である。医療関係者ならば唯一の公式グッズであるストラップをぶら下げている者も少なくないのだが、それ以外はさっぱり知名度がない、それがホワイトアンジェラだ。
「怪我を治す、という能力もホームページに記載がありましたね。どうやって治すんです?」
「はあ〜、怪我を治すなんてスゲエじゃねえか」
同じヒーロー業でありながら今まで知らなかった存在は、実は先日から、ふたりの興味をおおいに引いていた。バーナビーはこのとおり色々とホワイトアンジェラのことを調べたし、虎徹もまた、後輩である二部リーグヒーローに話を聞いたりしていた。──とはいっても、二部リーグヒーローたちも、ホワイトアンジェラのことをまったく知らなかったのだが。
「はあ」
いじられることも多いがベテランの古株であり、最近かなり人気が盛り返してきたワイルドタイガーと、キングオブヒーローにもなったバーナビー。このふたりが自分の仕事に興味を持っているらしいことに、ホワイトアンジェラは驚いた。
しかしここで突き放す必要も、特に無い。いちど見ればこんなものかと納得するだろうと簡単に判断したホワイトアンジェラは、「実際にご覧になりますか」と提案した。
ふたりはすぐに頷き、パワードスーツのまま、ホワイトアンジェラについていった。
「わーっ! バーナビーだあ!」
「きゃああ、素敵ー! ハンサムー!」
姿を見せるなり人々を沸かせたTiger & Barnaby──特にバーナビーに、さすがだな、とホワイトアンジェラは感心した。先程までいかにもインテリといったようなクールな顔つきをしていたバーナビーは、輝くさわやか笑顔で、「ハアイ!」などと言って星が飛ぶようなウィンクをかましている。プロだ、とホワイトアンジェラは再度感心した。
「アンジェラ、T&Bと知り合いなんですか!?」
何度か顔を見たことのある医療スタッフが、興奮気味の顔で話しかけてきた。そういえばワイルドタイガーのファンだと聞いたことがあるな、とホワイトアンジェラは思い出す。
「知り合い……、いえ。あの、私の活動を見学なさるそうです」
「へえ! アンジェラもついに一部ヒーローに注目されるように」
「いえいえいえいえ、そんな、いえ、まさか」
思わず、目の前でぱたぱたと手を振る。だが彼は気にしなかったようで、「アンジェラの活躍、ぜひ見てもらうといいですよ!」とにこにこしていた。
ホワイトアンジェラは気を取り直して、最もひどい怪我をしたという、担架に乗せられた初老の男性に近寄っていく。服をめくられて露出した背中は、青くないところのほうが少ない重度の内出血と、擦り傷だらけだった。
「内臓は大丈夫だが、背骨がやられているかもしれんね。検査をしないとわからんがヒビ以上の骨折じゃねえから、アンジェラちゃんにまるごと治して貰うのがいちばんいい。このままやっちゃって」
壮年の、ベテランの様相の老医者が言う。
ホワイトアンジェラは患者である男性にひとこと挨拶し、短い会話を交わした。そしてワイルドタイガーとバーナビーが後ろでじっと自分のすることを見ているのを感じながら、男性の背中に手をかざす。
「……お、おおおおおおお〜!! す、すっげえ!! え、すっげえな、これ!?」
「これは……すばらしい」
すうー……と、青白い光のなかで、みるみる内出血が消えていく。その光景を見たヒーローふたりは驚き、ワイルドタイガーなどかなり興奮して大声をあげていた。その周りで、医療スタッフたちが誇らしげな顔をしている。何人かのポケットから、ホワイトアンジェラのストラップがぶら下がっているのが見えた。その中には、先程患者である男性に診断を下した老医者もいる。
「お? おお〜! 痛くない!」
痛みが引いた男性が、おそるおそる身体を起こす。そしてゆっくりと自分の体の動きをチェックするようにひねったりのばしたりして、目を見開いた。
「んん!? こりゃ、あ! 腰痛もなくなっとるぞ!? 肩こりも!」
「あ、申し訳ありません。どこを怪我しているのか詳細にわからないので、背中全体に能力を使いました。同じ場所にある別の怪我を分けて治せないので……」
「いやいや! ず〜っとつらかったんだよ、いや〜有り難い!」
得したなあ! と笑顔で言う男性は、先程までぐったりしていたとは思えない元気な大声を上げて、ホワイトアンジェラに何度も礼を言った。そしてやはり治療という行為を行ったからか、彼女が出した書類に、何らかのサインをする。
「おっ、タイガー!」
ペンを返し、ふと目線をずらした男性は、ワイルドタイガーの姿に気付く。
「今日も派手に壊しやがったなあ!」
「うぐっ……」
人の避難後ではあるが、巡回バスを1台だめにした“正義の壊し屋”ワイルドタイガーは、ばつが悪そうに唸った。ものを壊すどころか人を治している、自分よりかなり若いだろう女性の働きを見た直後ともなれば、ばつの悪さもひとしおである。
「まあおかげであの怪我だけで済んだがな! お嬢ちゃんに腰痛まで治してもらったし、終わりよければ全てよしってな、ガハハハハ!」
元々豪快な質らしく、男はげらげらと笑って、ワイルドタイガーのパワードスーツの肩部分をバシンと叩いた。ワイルドタイガーのファンは、こういうタイプが多い。中高年男性や、いかにもな労働者層。また実直な熱血漢タイプや、子供を持つ父親といったタイプの市民からの支持が厚いのだ。
そんな光景を目の端に視認しつつも、バーナビーはホワイトアンジェラを見た。顔の中で唯一見える口元が、微笑んでいる。
ホワイトアンジェラのことをなんだかぼんやりした印象のひとだと思っていたバーナビーだったが、その僅かな表情から、彼は彼女のヒーローらしさを感じた。
「……素晴らしいですね。ここまで凄いと思いませんでした。壊し屋のおじさんとは大違いです」
「おぉい!」
ワイルドタイガーが思わず突っ込むが、バーナビーは真顔のままである。ホワイトアンジェラが、少し首を傾げた。エナメル生地の頭巾のベールが揺れる。
「はあ。しかし、ものを壊しても人を助けられるなら、良いことなのではないですか?」
「……おお! いいこと言った! 今キミ、ものっ……すごくいいこと言ったぞ!」
「自分を正当化しないでください、おじさん」
「んだとぉ!?」
ギーギー喚く相棒をやはり無視して、バーナビーは怪我があったはずの男性の背中を見た。本当に、綺麗さっぱり治っている。
「他に、怪我をした方はいませんか?」
「あとはあっちかな。今日はヒーローたちのおかげで、とても少ないよ」
近くにいた医療スタッフが、にこにこと言った。
ホワイトアンジェラは怪我人を見て回り、結果、このまま救急車で運ばれることになったのは、頭を打った可能性がある、要検査の患者だけになる。それ以外は皆元気で、怪我らしい怪我をしている者は誰もいなくなった。
余った担架を空の救急車に積み込んだ医療スタッフは、皆笑顔でホワイトアンジェラに礼を言い、それぞれの病院に戻っていった。
「あの」
少し太めの中年の女性が、おずおずと尋ねた。
「悪いところを治せるの? 私、膝が悪いのよ。治せるかしら」
皆気になっていたのか、周囲の人々の目が、耳が、この女性とホワイトアンジェラの会話に向いた。もちろん、ワイルドタイガーとバーナビーもその様子を見守っている。
ホワイトアンジェラは、こくりと頷いた。
「怪我や疲労によるものであれば、治せます」
「本当!?」
「ただ、ウイルスや菌によるものだと、いけません」
「……どういうこと?」
「逆にだめです」
「逆に……?」
「ええと」
疑問符を浮かべる中年女性に、ホワイトアンジェラは仕切り直すように小さく咳払いをして、ゆっくりと言った。
「私の能力は、同じ場所にある違う怪我を分けて治せません」
つい今しがた、怪我と一緒に腰痛と肩こりが治った男性が、うむと頷いた。
「ですので、患部の近くにいるウイルスや菌がいるとそちらも回復させてしまう……つまり、急激に病気を悪化させてしまうのです。例えば、風邪を引いている方の怪我を治そうとすると、怪我は治っても風邪がひどくなります」
「まあ、そうなの」
「風邪ならまだいいですが、癌などがあれば最悪の事になってしまいます」
何やら台本を読んでいるような口調だが、よくまとまったわかりやすい説明だ、とバーナビーは思った。中年女性も、そして周りの人々も、なるほどと頷いている。
「ですので、基本的に、私が能力を使うのはは一刻を争う緊急時か、ご本人の了承をいただきこの正式な書類にサインを頂けた時」
ホワイトアンジェラは、先ほど怪我を治した人々に書いてもらったサインのある書類の束を、高く掲げた。
「また、出動時以外での個別での能力使用のご依頼は、現在承っておりません。申し訳ありませんが、ご理解ください」
「俺、サインするぞ。頼む、若い時の怪我で肘が悪いんだ。治してくれ」
「わ、私も」
「私もお願い。もうずっとつらいのよ」
要するにチャンスは今だけだと理解した人々は、わっとホワイトアンジェラに集まった。
慣れているのだろう、ホワイトアンジェラは頷き、ひとりずつ列をつくるように言う。そしてひとりひとりの怪我の経緯を聞き、会話の録音と書類へのサインをきちんとしてから、彼女は青白い光を放った。
「……お疲れ様です。飲み物をどうぞ」
「ああ、ありがとうございます」
バーナビーが差し出したスポーツドリンクを、ホワイトアンジェラはひと息に飲み干した。ぷはあ、という声とともに、彼女がしゃがみ込む。無理もない。
やっと列を捌ききった今、日はほとんど暮れかけていた。ちなみに、事件自体が解決したのは昼過ぎである。
虎徹とバーナビーは悪いと思いつつ自分たちのトランスポーターに引き返し、着替えてからまた戻ってきたのだが、その間も彼女は休みなく、ずっと人々の怪我を治し続けていた。そして人がいなくなった今、バーナビーは彼女の足元に置いてあるビニール袋に入った、山のようなカロリーバーの包装を見た。
「あの、あなたの能力は……」
「私の能力ですか? 摂取したカロリーで、他の人の細胞を活性化させて、自己治癒力を高めます。その結果、怪我が治ったり、疲労が回復したりします」
ホワイトアンジェラは、特に秘密にしているわけではないという感じで、あっさりと言った。
同じ場所の怪我を分けて治せない、菌やウイルスも回復させてしまう、ということから、バーナビーは彼女の能力が厳密には細胞活性化であろうとは予想していたが、そのもととなるのが彼女の摂取カロリーであるのは想定外だった。
「……なるほど。だからカロリーバーをたくさん」
「必需品です」
そう言いつつ、ホワイトアンジェラは早速また次のカロリーバーを口に放り込み、破った包装をビニール袋に突っ込む。
「では、先日倒れていたのは……」
「能力の検査で、色々と試されました。仕事ではないと思って、あまりカロリーを摂取していなかったのです。油断しました」
「ああ」
なるほど、とバーナビーは頷く。そのとき、「おーい」と声がしたので振り返ると、虎徹がこちらに近づきながら手を振っていた。ドーナツのイラストが描かれた、横長の箱を持っている。
「おう、おつかれさん。ほい、差し入れ」
「ありがとうございます。おふたりもいかがですか」
「いっこずつもらおうかね。バニーどれにする? ほい、コーヒー」
「どうも。フレンチクルーラーかオールドファッションあります?」
「え? なに? 全部ドーナツだけど」
ちょうどセールをやっていたので沢山買ってきた、と虎徹が言う通り、箱の中にはいろいろなドーナツがぎっしりと詰まっていた。
誰もいなくなったビルの裏手で、3人でもそもそとドーナツを食べた。温かいコーヒーが身にしみる。
ホワイトアンジェラは、横でドーナツを食べているふたりを見た。いつもテレビで見ている、本物のワイルドタイガーとバーナビー・ブルックスJr.。
──私はいま、T&Bとドーナツを食べている。
まるで現実感のない事実に、ホワイトアンジェラはカロリー不足のせいだけでなくぼんやりした。
ホワイトアンジェラもヒーローではあるが、一部と二部には天と地ほどの差がある。しかしふたりは以前会った3人の女性ヒーローたちと同じく、やけに気さくだった。虎徹はホワイトアンジェラの能力の仕組みを聞いて、「カロリーかー。世の中の女が羨ましがりそうな能力だな」と言った。
それは確かに、ホワイトアンジェラも何度も言われたことがある。しかし彼女が毎日吐きそうになりながら砂糖の塊を飲み込んだり、脂身ばかり延々食べたり、カロリー摂取のためにジャンクフード漬けの毎日を送っていることを知ると、羨ましいと言う者はいなくなる── というのは、言わないでおいた。
「いやー、今日はいいもん見た。あんたみたいなのもいるんだなあ」
虎徹は、しみじみと言った。彼の食べているダブルチョコレートドーナツは、すでに半分以上なくなっている。
「いいもの? なにがですか?」
「いいものですよ、立派に」
首を傾げるホワイトアンジェラに、バーナビーが言った。ただコーヒーを飲んでドーナツを食べているだけなのに、その姿はまるでおしゃれなファッション誌のピンナップのようだ。
「一般の方々の避難を誘導してくれる二部リーグや警察関係者、レスキューや医療スタッフの存在は知っていますし、いつも感謝しています。しかし、あなたのような活動をしている方がいるのは知らなかった」
「そうそう、それだよ。いやあ、俺は感動したぜ」
うんうんと頷きながら、虎徹が続けた。
「だってあんたのやってるのは、ものすごく、なんていうか、人助けだ。すげえ人助けだ。なかなかできることじゃねえ」
相変わらずボキャブラリーが最悪ですね、とバーナビーが辛辣なことを言ったが、虎徹の率直な言葉は、同じくボキャブラリーが貧困な彼女の胸に響いた。
──困っている人を助けなさい。
それはとても良いことで、何よりも尊いこと。人助けこそ正義であるのだと言い聞かされて育った彼女にとって、虎徹の言葉は、何よりの賛辞であり、そして赦しであり、肯定だった。
「……ありがとう、ございます」
「礼を言われるこたあ、してねえさ。大丈夫か? ひとりで帰れるか?」
「はい、大丈夫です」
身体はだるいが、気持ちは軽かった。
いちど会社に戻って、着替えてから帰らなければならない。先程から会社への連絡の返事がないが、何か取り込み中で返事が遅れることはざらにある。鍵は持っているので問題ない。彼女は虎徹からもらったドーナツをもうひとつぺろりと食べてしまうと、立ち上がった。
「おふたりとも、手が汚れたでしょう。ウェットティッシュをどうぞ」
「除菌タイプ……気の利いたノベルティですね」
「おっ、サンキュー」
虎徹が、ウェットティッシュを開ける。力加減を失敗したせいで袋がいびつに破れ、プリントされたマッチョ君の犬頭とマッチョボディがまっぷたつに別れた。
「では、今日もお世話になりました」
「おう! またな!」
「今日はありがとうございました。また」
挨拶を返してくれたふたりに再度頭を下げてから、ホワイトアンジェラはドーナツの箱を荷物入れに丁寧にしまい、バイクにまたがると、夕日が沈みかけた街を走りだす。
「……はっ。サイン……」
そして信号待ちの時、彼女はまたもチャンスを逃したことに気付いたのだった。