第十七話
それから、さらに一週間後。
雹と雪姫子は、雷蔵に呼び出され、表の学長室にやって来ていた。
「本当にもう大丈夫なのかね? 雪姫子君」
「はい、お陰様で。激しい運動はまだ出来ませんが、少々走るくらいなら平気です」
中に包帯を巻いているためか、少し緩めにボタンを開けて、しかしそれでもきちんと制服を着ている雪姫子を、雷蔵は気遣う。
ちなみに、あの日に伐が帰るなり「仕事しろ!」と雷蔵を蹴り出したので彼は泣く泣くジャスティス学園に帰還し学長職に復帰したが、後日もう少しジャスティス学園に近い場所に改めて家を借り、そこで家族三人で暮らそうとも言っているらしい。
「そうか。くれぐれも無理はせぬようにな」
「はい、ご心配おかけいたしました」
既に、雪姫子の表情に「雪女」と呼ばれるような冷たさや硬さはない。新雪がふわりと溶けるようにして微笑む雪姫子に、雷蔵も満足げに笑んだ。
「それで、雹」
「はい」
雪姫子の隣に座る雹は、かつてのように髪をきつく結ってはいなかった。下ろしていたり緩く結んでいたりが最近のスタイルだったが、それは見た目にも彼の柔らかくなった内面が現れているようだった。
そしてそれは他の者たちも感じているのか、他の生徒と廊下で擦れ違ったりするときも、以前のようにやたらに遠巻きにされたりすることがなくなったような気がする、と雪姫子は思っている。
「全校生徒の洗脳の後遺症のことだが──」
「………………」
「安心せい。儂も含め全員異常無し、極めて健康体だ」
雷蔵が笑って言ったその言葉に、雹と雪姫子は本当にホっとした。
現代に入って、己らの忍術を医学や科学的見地からも分析することに力を入れている忌野には、その専門の団体が存在する。今回の騒動で派遣されて来たのもその集団で、事件が明るみに出ないことも兼ねて重宝された。そして先日、この集団が一般の医療スタッフに化け、定例の健康診断を装い、洗脳装置にかけられた後遺症が残っていないかどうか調べたのである。
「ただ、一つだけな」
「……何です」
「実は……。彼ら全員とも、洗脳をかけられる数日前からの記憶が曖昧になっているのだ」
「は」
雹は目を丸くした。雷蔵は例の頭を掻く癖をしながら、更に続けた。
「儂や奥和田君は雹、お前から直接術を受けたのでそういったことはないのだが、奥和田君が術を解析して作った洗脳装置……あれにかけられて洗脳を受けた者は皆同じ症状が出ておる。日数に個人差はあるが、やはり忍術を機械にやらせると色々変わってくるのかもしれんな」
「……ということは……」
彼らは全員、自分たちが装置にかけられたことを覚えていないのか。
雹が訝しみながらそう聞くと、雷蔵は頷いた。
「そういうことになるな。原因は今の所調査中、ということにしてあるが……」
「……そうですか」
雹は頷きつつ、そして納得した。彼はまだ一応停学中なのでやたらに校内をうろつくことは避けては居るが、稀に廊下で他の生徒と擦れ違ったとき、罵られるなり逃げられるなりするだろうと覚悟をしていたのに、皆いつも通り──いや、むしろ以前より親しみ深いような様子で挨拶をしてくるので、もしや記憶がないのかと怪しんでいたのだが、やはりその通りであったようだ。
「洗脳にかけられていたときの記憶はあるのだがな。しかし実際の所、その数ヶ月の間も、ただ洗脳するだけで、特に何をやらせると言ったことはしていなかったのだろう?」
「はい。いざという時命令すれば動く状態にしただけで、後は全く普段通りです」
雪姫子が答えた。学校の外に出て、雹が有能と判断した人材を拉致して洗脳装置にかけた実行犯は雪姫子である。
「そうか。……それで、まあ、とにかくそういうわけで、彼らはそれぞれ一週間前後の記憶がないだけの状態なわけだ」
「だけ、ということはないだろう」
険しい顔で、雹が言う。
「外部から拉致して来た人間は、装置にかけたあとジャスティス学園内の特別施設で訓練をさせ、さらに彼らと全校生徒は、伐たちと大乱闘をした。この事を覚えているなら、」
「ああ、それもな。よくわかっていない所にいきなり生徒会長が犯人でどうこうと説明してもパニックを起こすだけだろう?」
「……まあ、それは……そうでしょう」
眉を顰めたまま、雹は頷いた。
「だからとりあえず……外部から連れて来られた者たちには、“突出した才能を伸ばすエリート教育をモットーとする我が学園が招待し、特別合宿を行なった”、そして大乱闘の件については“外部の生徒が乗り込んで来て、集団ヒステリーを呼び起こしてしまい争いになった”と説明したのだが」
我ながら上手い言い訳だと思う、と雷蔵は言った。“乗り込んで来た外部の生徒”に外道高校の者が数名いたために、彼らは驚くほどあっさりと納得したという。
「……それで、どうしようかと思って呼んだわけだが」
「どうする……とは」
「決まっとる。このままにしておくか、それとも真実を皆に話すか」
雪姫子と雹は、深刻な表情のまま黙った。雷蔵はそんな二人を見てひとつため息をつき、手を組んで身を乗り出すと、言い含めるように言った。
「儂は、このままにしておくのが一番いいと思う」
「しかし、」
「先程も言ったが、真実を話したとて混乱を招くだけだ。それに今回のことを明るみに出すということは、忌野の裏の歴史も世間に晒すことになる」
「──……」
「儂は忌野を表の世界に溶け込ませ、人々のため、ひいては日本、世界のために役立てるのを目標としておる。そしてそのためには、皮肉な話だが忌野の裏の顔を晒されては困るのだ」
雷蔵はきっぱりと言い、雹と雪姫子は困ったような顔をした。
「……しかし、」
「それに、社会的立場を貶め断罪するという罰は、再発を防止するために行なうものだ。今の君らにそうした所で意味はない」
「ですが学長、私たちは」
「反省という意味での罰は、君らは充分受けておると思うしな」
そう言われ、二人は黙り込んだ。
「本当に……それでいいのでしょうか」
雪姫子が言った。
「私は、多くの人を傷つけました」
「だが君にはそれをやった理由がある。“話せばわかる”理由がな。それは雹も同じだろう。違うか?」
「違いはしませんが、しかし」
「では聞くが」
雷蔵は、ふと口調を軽くして、二人を見た。
「雪姫子君、君は雹が、社会的にも自省の意味でも、まだ罰が足りないと思うかね?」
「え……」
「雹もだ。雪姫子君は断罪されて呵るべきと思うかね」
「…………………………」
二人は答えなかったが、顔を見合わせて双方が困ったような顔をしたことで、同じ答えを持っていることは明らかだった。
「そういうことだ。君らそれぞれを一番……いや唯一責めておるのは、君ら自身だ」
雷蔵はそう言って、笑った。
「皆、君らを罰そうとは思っておらん。言わせてもらうが、ここで君らが「自分が悪いのだ、罰してくれ」とゴネたところで、迷惑甚だしいだけだ。ここは我慢してくれんかね」
「我慢って……」
雪姫子が呆気にとられてそう呟き、そしてふとしてから、雹が苦笑を浮かべた。
「……わかりました」
「雹様」
「真実を抱えてなお普段通りに振る舞うことも、また罰と言える」
重みのある言葉だった。
「……仰る通りに。この忌野雹、現当主・雷蔵殿の忌野家運営の方針に全面的に従うと同時に、ジャスティス学園生徒会長としてこれからも誠意努力いたします」
「うむ、頼りにしておるぞ」
開いた膝に手をついて頭を下げる雹を前に、雷蔵は満足そうに頷いた。そして、雹の隣にいる雪姫子を見る。
「雪姫子君はどうかね? まだ異論があるかな」
「……いえ」
雪姫子は表情を引き締めると、タイトスカートに包まれた足を揃え直し、膝の上に三つ指をついた。
「忌野家下忍・白藤雪姫子、現当主雷蔵様および次期当主雹様のご意思に従います」
「うむ」
椅子に座ってなお美しく頭を下げる雪姫子の所作を眺めつつ、雷蔵はふと顎の髭を撫でた。
「……下忍、か」
「はい、左様でございます」
「雹」
「は」
雷蔵は、堂々と座る雹に向かって言った。ここにはこの三人しかいないが、ここがアンティーク家具で埋め尽くされた洋室ではなく畳の和室で、そして誰かが見れば、ここは時代劇の劇中かと思ったことだろう。
「下忍ではなく、婚約者、というのはどうだ?」
「──ご、御前様!?」
雪姫子が顔を赤くし、目を白黒させて叫んだ。だがそんな彼女とは裏腹に、雹の方は涼しい顔で「はあ」と落ち着いた返事を返している。
「雪姫子は今でも私の下忍ですが、同時に白藤の姫でもあります」
「うむ。一緒になってもらうに、本家としても何の支障もない。あとは本人の意思だけだ」
雷蔵が重々しく頷くと、雹は言った。
「そうですね。私は良いのですが」
「良い!?」
「良い」
狼狽える雪姫子に淡々と返す雹がおかしかったのか、雷蔵は吹き出すのを堪えた。
「わ、私は下忍ですよ?!」
「……とまあ、こちらはこんな調子でして」
「ふむ……」
腕を組んで背もたれに体重を預けた雷蔵に、雹は更に言う。
「しかし、そのうちに。願わくば、それまで暫しお待ち頂きたく存じます」
「ふーむ、そうか、わかった。お主の手腕に期待するとしよう」
「お任せを」
「雹様!?」
勝手に進められる会話の横で、雪姫子だけがひとり狼狽え果てていた。そして話は終わったと雹が立ち上がり、どうしていいものかと未だおろおろしている雪姫子の腕を引く。実に自然なその仕草に、二人が出て行く後ろ姿を見送りつつ、雷蔵は笑んだ。
「嫁……ふふ、娘、か……」
お養父様と呼ばれるのが今から楽しみだ、と、雷蔵は浮かれた気分で席を立った。
「雪姫子」
「は、はい!」
学長室を出、生徒会室に向かうために廊下を歩いていた二人だったが、前を歩いていた雹が振り向いた。
「今日からお前の教育を始めようと思う」
「は……?」
「お前は自分の立場をどうもわかっていない。それをわからせる」
雪姫子の身体が震えたのは、既に条件反射である。「立場をわかっていない」「身の程を弁えろ」。これは雪姫子が霧幻から常に言われて来た言葉であり、またその度に雪姫子は怯え、背筋を縮こませて来た。
そして雹はそんな姿を目に止めて一瞬視線を沈ませながらも、何事もないように振る舞う。
「わかったか?基本からいくぞ」
「は……。しかし、立場と申しますと……」
本気でわからない雪姫子は、手を前で組んで、とりあえず背筋を伸ばした。
「まず、これは何だ」
「は?」
「これだ」
雹はそう言って腕を伸ばし、雪姫子と自分の間にある、ちょうど三歩分の距離を示した。
「お前は必ずこの距離を保つ」
「は……そう教えられてきましたので」
霧幻から徹底して教え込まれた、忌野の人間に対しての距離。自分から話しかけてはならず、横を歩くことは許されない。
「三歩下がってというやつか。しかしこれはあまり良くない文化だと思わんか?」
「さ……左様でございますか?」
「そうだ」
雹は重々しく頷いた。
「いいか」
「きゃ……!?」
突然、雹はきちんと組んでいる雪姫子の腕を掴んだ。そして、自分の横に立たせる。雪姫子は雹の制服の肩の飾りが自分の顔のすぐ横にある事に気付き、そしてそのまま見上げた。
「お前の立場は、ここだ」
頭一つ分高い位置から雪姫子を見下ろし、雹は雪姫子が今立っている位置、自分の立ち位置から並行してすぐ隣のそこを指差した。雪姫子は指差されるまま思わず自分の足下を見る。自分が履いている朱色の鼻緒の漆下駄と、磨き抜かれた雹のブーツが同じ視界の中にある。
「ここがお前の場所だ。覚えろ。忘れるな」
「……雹様」
「忘れたら仕置きだからな」
「は!?」
驚いて顔を上げる雪姫子を見て、雹は面白そうに笑う。からかわれたことに気付き、雪姫子が赤くなった。あの日から、雹は時々こうして雪姫子をからかうのだ。
「からかうなど心外だ。私は本気だぞ」
そして決まってこう言う。しかも本当だから始末に負えなかった。そう言うときの雹は酷く楽しげで、あの深い笑みを始終浮かべている。洗脳が解けて随分人間味が増し印象が柔らかくなった雹であるが、この性格はもともとだったらしい、と雪姫子は既に確信している。
そして雹は歩き出した。雪姫子もそれに続く。視界から二人分の靴が消えないように歩くのは、なんだか楽しい遊びのように思えた。
「……む、そうか、歩幅が随分違うのだな」
小走りになる雪姫子に気付き、雹が言った。
「本当ですね」
「発見だな。私も努力せねばなるまい」
「いえ」
雪姫子は、笑った。凍った所などどこにもない、明るい笑顔で。
「ついていきますから、平気です」
ですからお好きに歩いて下さい、と言った雪姫子に、雹は少しだけ目を見開いた。そして彼もまた笑う。誰に強制されたのでもない、自分の感情で。
「そうか。頼もしいな」
「あなたの下忍でございますから」
「遅れたら抱えて行ってやるから安心しろ。私の姫だからな」
「遅れませんから。絶対遅れませんから」
そう言って早足になる雪姫子を、雹は笑う。
隣同士を歩きながら、笑いあう。そんな二人を見て、擦れ違う者たちはやはりあの二人は、とひそひそと言いあった。
「……む、遅れたら仕置きと言ったのに、先程の発言は矛盾していたな?」
「はあ」
「ではこうしよう、抱えて行って仕置き」
雪姫子はダッシュで駆け抜けようとしたが、雹はあっさりとそれを止めた。
「下忍のくせに主より前を行くとは何事だ。これは仕置きだな」
「どっちですか! ひぃっ」
「そんな恐れ戦くような声を上げずとも良いだろう。私とて傷つく」
「この上なく楽しそうですが!?」
この日、真っ赤になった雪姫子を抱えて廊下を歩いた雹の姿はかなり多くの生徒に目撃され、翌日から、生徒会長と書記はジャスティス学園の名物カップルとして公認の存在となった。
そしてジャスティス学園の数少ない娯楽である校内新聞にそのことが報じられ、雷蔵が格好を崩し、さらに保健室で盗撮した例のビデオを奥和田が裏で流して小遣いをせしめ、それに仁王の如く怒った雹がガス室を作る陳情書を提出したとか何とか、
──平和とはこういうことを言うのだ、という光景がそこにあった。