「やあ兄さん、久しぶり」
「ああ」
待ち合わせたカフェで、久々に逢った双子の兄の酷く自然な微笑みに、恭介は笑み返した。未だ薬は手放せない──もしかしたら一生の付き合いになるかもしれないとは聞いていたが、それでもこうして本来の姿の兄であるならば、それでも、と恭介は思う。
──あれから、八年。
全員がそれぞれの高校を卒業し、ある者はプロの世界へ羽ばたき、ある者は大学に進学し、そして今では全員が立派な社会人として世に出て、それぞれの分野でおおいに活躍している。
「警視昇進おめでとう」
「ありがとう」
「お前なら当然だろうがな」
「馬鹿言わないでくれ。僕は兄さんと違って基本的に凡人なんだ」
恭介は大学の法学部に進んだあと、国家公務員採用試験のI種に合格し、現在は所謂キャリアとして仕事をしている。伐も同じく警察官になったがこちらはキャリア組ではなく、また機動隊に属して現場でバリバリ働いている。
「……兄さんは、最近どう」
相変わらずだ、と雹は少し苦笑した。
雷蔵が本格的に引退するというので、留学していた雹は昨年雪姫子とともに帰国し、忌野の当主を継いだのだった。
「まあ、……七年前の霧嶋の件があったからな。皮肉な話だが、そのおかげで随分と楽だ」
「……そうか」
「なにせ八百年分の澱みだ。仕方が無い」
はは、と笑う雹だが、恭介は笑みながらも眉を寄せた。
雹は高校卒業後、国内最高峰の大学に入学したのちに留学した。当然のように雪姫子を半ば引っぱるようにして連れて行ったのには恭介は最早笑ったが、政治関係の分野では既に学ぶ側ではなく、教える側に匹敵するほどになっている、というのは雷蔵から聞いていた。そしてそんな実力を持って居ながらにして、彼は希望しているだろう政界の道に入ってはいない。それは忌野という、未だ頑に世界の闇、裏側にあろうとするあまりに既に澱みと化している一族を闇側から引き剥がし、表の世界に引きずり出さねばという使命を雹が感じているからだ。
そして恭介は、それが残念でならない。忌野が兄の脚を引っ張り、未だ動きを捕え、人生を奪っている気がしてならないからだ。
「……髪、切ったんだ?」
「いや逆だ、伸ばしている」
雹の真っ白な髪は、一番長い所で肩につくかつかないかくらいの長さである。相変わらず前髪を上げているが、顔立ちがあれから更に大人びたせいもあるだろう、高校生のときとは随分印象が違う。
「向こうに居たときは短くしていたのだが……忌野当主は髪が長いのがしきたりだとか何だかで」
「相変わらずうるさいね」
「まあな。……そんな顔をするな、恭介」
十年経ってますます貫禄がついた雹は、表情を沈ませた恭介に、静かに言った。
「私はやるべきことをやっているだけだ」
「でも」
「なに、心配するな。私とて忌野に振り回されているばかりではない」
「え?」
恭介が顔を上げると、雹は機嫌良さそうに笑っていた。
「私は忌野の当主として、あの闇の中に埋もれた一族を表の世界に引き出すことを使命と思っている。だが、自分の人生をそれに全て捧げようと思っているわけでもない」
「どういう……意味?」
恭介が尋ねた言葉に、雹は好戦的に笑ってみせた。
「忌野は八百年もの間、日本の裏側から高官たちと癒着して様々な闇の部分を握って来た一族だ。そして私はその一族の長なのだぞ? 正々堂々出馬しても楽勝で当選できるわ。利用せぬ手はあるまい」
「な……」
かなり黒いことを鼻で笑いながら言ってのける兄に、恭介は絶句した。雹の言う通り、忌野は今でも政府高官と大いなる癒着がある。だからこそ霧幻はその弱みを握って日本を牛耳ろうとしたわけであるが、それには洗脳という手段が大前提にあった。しかし忌野の歴史を単に最強のコネとして使う分には、ぎりぎりではあるが正当な手段の範囲内だろう。
そして今彼はそのコネを既に使い、忌野の中でも表の世界に出ることに賛成している僅かな者たちのために会社組織を立ち上げて仕事を割り振っているのだという。そんな事をしていたのか、と恭介は驚いたが、
「コネは充分、金もある。素質は言うまでもない」
「自分で言うかな……事実だけど」
「ここ何年かで、私もしたたかになったものだ」
「奥和田さんの性格が移ったんじゃないの」
「冗談でもやめてくれ」
途端に苦虫を噛み潰したような顔をする雹に、恭介は少し笑った。奥和田は結局どこの大学からもいい顔をされなかったため、アメリカでさっさと博士号を数個取ると、ジャスティス学園の教師として学園に残り、そこから世界へ論文を発表している。奥和田の存在もあり、今では全国、いや世界から若くして素晴らしい頭脳を持つ若者たちが集まるようになったジャスティス学園は、以前よりも更に偏差値が高騰し、世界屈指の若年養成高校、教育の最先端を行く場所と言われている。
そして研究者としての奥和田の後援者こそが、紛れもなくこの雹だった。彼曰く、「私が面倒を見ねばどこかの独裁国家と手を組んで大量殺戮兵器でも作りかねん」だそうだ。……事実でもある。相変わらず顔を合わせれば毒を吐きあう間柄だが、それは既に腐れ縁とも言うべき繋がりとして受け入れているようでもある。恭介など、あのマッドサイエンティストの手綱を取れるのはこの兄しか居ないだろう、とも思っているぐらいだ。
「まあ、とにかくそういうわけだ。私は忌野に捕われるつもりは──今度こそ、毛頭ない。むしろ今まで捕われて来たぶんよりもっと、最大限利用するつもりだ」
「……そう、か」
力強い兄の言葉に、恭介はホっと息を吐き、そして微笑んだ。雹もそれに笑い返すが、その笑みは穏やかで居て自信に溢れていて、恭介は頼もしい気持ちになる。
「そう、それで、今日呼んだ本題なのだが」
「何、とうとうゆきと結婚するの」
雹は湯気の立つコーヒーを飲んでから、言った。既に大きな肩の荷が降りたような気持ちになっている恭介は、カウンターに肘をつき、力の抜けた気軽な声を返した。
「そう」
「……え?!」
ホントに? と聞き返す恭介に、雹は笑みを深くした。相変わらずも仲は良いようで結構だ、と恭介は呆れ半分、嬉しさ半分で「おめでとう」と言った。
「そうか、とうとうか。というか僕ら皆、なんで結婚しないんだってずっと言ってたんだよ」
大学に入った時には、婚約までは済ませていた。留学するときも、雹は当然のように雪姫子を連れて行った。時々見かける度に雪姫子の振る舞いには卑屈な所が抜けて行っていたし、だから留学から帰ってくればすぐ結婚するのだろうと当然思っていたのだが、雹が忌野当主となっても、彼らが夫婦になることはなかった。
「きっかけは何なのさ」
「私が、高校時代から株取引やら何やらで金を貯めていたのを知っているか?」
恭介は目を丸くした。奥和田から聞いたそれを、恭介はしばらくの間ずっと気にしていた。そして意を決して聞いた時、彼は苦笑しながら「秘密だ」と言ったのだった。その表情にはまるで陰がなかったので、恭介も安心し、それきり忘れていたのであるが。
「知ってるけど」
「……白藤の家の土地は、父上が全て売り払って忌野の懐に入れていた」
「白藤、の……?」
雪姫子の実家である白藤の家は、全て田舎の野山ではあるが、かなりの土地を持っている地主だった。しかしその当主である雪姫子の両親が殺され、その全ての財産はまんまと後見人になった霧幻の物となり、そして売り払われてしまったのである。
半分からは大いに支持されていた霧幻だが、もう半分からは自分の息子を跡取りにとねじ込んでくる不埒者として見られている所も大きかった。そして白藤の土地の多くは、そういった者たちへの賄賂として大方が使われた、ということを、雹は後に知ったのだ。
「まさか……兄さん」
「先々月にやっと全て取り戻すことが出来た」
そう言った雹の表情は、とても晴れ晴れとしていた。最後の土地はホテルを建設するとかで全部潰されそうになっていたのだが、元の値の数倍出した挙げ句にあらゆる手段を使って買ったらしい。
「……だから結婚するの?」
「そうだ。借金を背負ったまま求婚も出来んだろう?」
借金、と雹は軽く言ったが、それはどれだけのものだっただろうか。億単位、とりあえず途方もない金額であることは確かだ。もとの値よりも倍、いやそれ以上の金額になることは明らかなのだから。
「春になると、山一面に白い藤が咲く美しい土地だ。それに合わせて白藤の屋敷を直して、そこで神前式にすることにした」
「…………………………」
「あの屋敷にも見事な藤棚がある。十数年の間に野生化していたのがむしろかなりの見応えになっているからな、楽しみにしていろ」
いつになく饒舌な兄を、恭介は驚いた顔のまま見つめた。雹はカフェのガラス越しに外を見た。天気予報通りに、雪がちらちらと降り始めていたからだ。
「初めは、ただ罪滅ぼしのつもりで少しずつ買い戻していたのだ」
ぼそりと呟いた声は、重々しいようで居て弾んでいた。
「有力者の手に流れ、高校生の私にはどうしようもなくなってしまっていた土地もあった。やはり取り返しがつかぬものかと嘆き、またこれが私に課された罰なのだと、そう思いながら私はその行為を続けた。……しかし、あのことがあってから、私は白藤の財産を取り戻すというこの行為を、罰ではなく目標にすることにしたのだ」
「目標?」
「夢とも言う」
美しかった白藤の土地、それを全て取り戻して元通りにすること。そしてその上で、幼いあの日に自分の姫と思った女を、本当の意味で手に入れること。
「……私の、夢だった。それが叶ったのだよ、恭介」
「……兄さん」
「なんだ」
「ちょっと格好良すぎない?」
「私も少しそう思う」
にやり、と雹が笑ったので、恭介は声を上げて笑った。似た顔立ちの美しい二人の男が喋っている様は最初からちらちらと注目を集めていたが、笑う恭介に店内の視線が一斉に集まる。しかし恭介はそんな事にも構わず、しばらく笑い続けた。
「おめでとう、兄さん」
「ああ、ありがとう」
「おめでとう、……本当に」
おめでとう、と、恭介は笑いからかそうでないのかわからない涙を目尻に滲ませながらもう一度言った。
「ゆきは? 元気?」
「ああ。日舞の師範の仕事も細々としているが、相変わらずよく私を助けてくれる。それに今では本家の大年増や御局連中のイジメなど歯牙にもかけていない女主人ぶりだ。惚れ直すぞ」
「……ご馳走さま。兄さんたちばっかりは、マリッジブルーとは無縁だな」
「当たり前だ。二十年だからな」
一途な人だなあ、と恭介は改めて実感した。この兄も、そして雪姫子も。
二十年間離れず居たように、彼らはこれからもずっと寄り添って行くのだろう。
「あれは、一生私を支えてくれることだろう」
目を細めて雪を見遣る表情は、満たされていた。
──そして、白藤の花が一面に溢れ咲いた春の日。
白い小さな花が雪のように舞う青空の下。
ある男の下忍であり姫であった娘は、彼の妻となった。
〜終〜