第十五話
 保健室に入るや否や、響子がにやりと笑みを浮かべるのを見て、雹はため息をついた。
「何かしら、そのリアクション」
「全部バレているんだな、と思っただけだ、水無月教諭」
「まあね。気に入らない?」
「別に。……特に隠すつもりもないからな」
「あら男らしい。見直したわ忌野君」
 響子は少し驚いた表情をしてからコロコロと笑い、「どうぞ」と病室へのドアを示した。
 一応ノックをして入ったが、響子が「さっき薬を飲んだ」という言葉通り、当の雪姫子は寝入っていた。そのことにおおいにホっとし、そして少し残念な気分を味わいながら、雹は静かに椅子をベッドの脇、……雪姫子の顔がよく見える位置に置くと、そこに腰掛けた。
 病的に白い顔が痛々しい。十日も寝たきりだからだろう、少し窶れたような気がした。以前初めて触れた頬は滑らかで柔らかく、触れてはならないと思いながらも心地よかった。──今も、そうだろうか。
「…………………………」
 頬にかかった黒髪を払ってやろうかと手を伸ばし、雹は結局空で手を止め、そのまま迷わせた。触れてもいいものかと、迷った。あの時も。
「……うン、」
 やはり忍びたるもの気配に敏感なのだろう、寝入っていた雪姫子が目を覚ました。
「……起きたか?」
「…………あ……?」
 ぼんやりとしている。薬で寝入っていたのでひとしおなのだろう、雪姫子は覚醒し切っていない目で雹をじっと見て、それから数秒して、みるみるうちに顔を強ばらせた。
「───! 雹さ、たッ!」
「……馬鹿者!安静にしていろ!」
 ほぼ条件反射で起き上がろうとして顔を歪めた雪姫子の肩を押さえて、雹はぎくりとした。あの時、雪姫子が雹を庇って伐の攻撃を受けた時。あの時抱いた肩も、ぞっとするほど細かった。
「雹様、……どうしてここに、」
「……私がお前の見舞いに来てはいかんのか」
「い、いえ、あの、」
 雪姫子は小さく首を振り、さっと目を逸らした。怯えたようなその仕草に、雹は僅かに眉をひそめる。
「も……申し訳ございません……私めなどのためにご足労頂くなど……」
「やめろ」
「は?」
 雪姫子は思わず顔を上げた。すると、何か苦痛に耐えるような表情をした雹が、じっと雪姫子を見つめている。
「やめろ。そういう口の利き方をするな」
「……もっ……申し訳……!」
「やめろと言っているだろう!」
 大きな声に、雪姫子はビクッと身体を震わせ、白い顔がいっそ青いほどになった。そしてその様を見て、雹もまた苦悶の表情を深くする。
「……悪かった。大声を出すつもりはなかった」
「…………いえ……」
「……身体の方はどうだ?」
 少し柔らかくなった声に、あとは時間をかけて直すだけだと言われた、と、雪姫子も少しホっとして答える。雹は「そうか」と穏やかに返し、いつの間にか拳に込めていた力を抜いた。
「……今まで来れなくて、すまない」
 しばらく沈黙が続いた後、小さく息をついてから、意を決したように話し出したのは雹だった。
「……私のせいで死にかけたというのに」
「そんな……! とんでもないことです、私は……」
「……何を言っていいのか」
「え……?」
「お前に詫びねばと思っても、……罪が多すぎて、何から詫びれば良いのかわからなかった」
「は」
 雪姫子は目を丸くした。しかし言葉を発せずにいると、雹が口を開く。
「……だから、……真実を告白しておこうと思う」
「…………?」
「お前の両親のことについてだ」
 言った途端、雪姫子の表情が僅かに疼痛に耐えるように切ないものになる。雹はそれを見遣りながら、訥々と語り始めた。
「……お前の両親を殺したのは、……私の父だ」
「…………はい。思い出しました」
「すまない。謝って済むことではないが……」
「何を仰るのです!?」
 雪姫子は、ぱっと顔を上げた。
「確かに私の両親を屠ったのは貴方のお父上です。ですが貴方は何も、」
「いや」
「貴方は何も悪くありません!」
「違う!」
 雪姫子は正直今、霧幻に対して憎しみも抱いている。しかし彼が死んでいることもあり、憎しみというよりも強い空虚感を抱いている、ということの方が大きかった。そしてこの事に関し、雹に対しては何も思う所はない。
 だからこそ、ぐっと強く目を閉じた雹を見て、雪姫子は戸惑いを色濃く見せた。
「……違うのだ。お前の両親を父が屠ったことに、私は無関係ではない」
「え……?」
 戸惑った顔で見上げてくる雪姫子に、雹は言った。
「……私と初めて会ったときのことを覚えているか?」
「初めて、ですか?」
 予想していなかった質問に雪姫子はきょとんとしつつも、はい、と答えた。
「七つの頃、忌野に引き取られてそちらのお宅に──」
「違う」
 雪姫子の答えに、雹は首を振った。
「お前と初めて会ったのは、それより前だ」
 そう言って、雹はあの頃忌野が跡目争いで揉めていたこと、そして雷蔵、雫、伐とともに白藤の家に行ったことを話した。雪姫子自身は全くそれを覚えていなかったが、雫から聞いていたのはそれか、と思い当たってそう答える。雹は「そうだ」と頷いて、椅子に座り直した。
「その時が、私とお前の初対面だ」
「そうだったのですか……。全く覚えておりません」
「小さかったからな、無理もない」
「でも、雹様は覚えていらっしゃいます」
 自分だけ覚えていないことが少し悔しく、雪姫子は少し小さな声で言った。
「……そうだ。私はよく覚えている」
 雹は、何度も脳裏に思い浮かべた光景を、再度思い出した。
 忌野と同じく古いのに、何故かどこか温かな空気が漂う、白藤の家。のどかな田舎にあるそこは穏やかで、道行く人が挨拶をして来たのを覚えている。白い髪を気味悪がられることも多かったが、のんびりした農家の老人たちは、特にそれを気にすることもないようだった。
「よく、覚えている。冬だった。玄関には武家らしく椿が飾ってあった」
 冬に咲き首から堕ちる椿は、潔い侍の花として武家に好まれた。白い一輪挿しに、赤い椿がすっと挿してあるのを、雹は今でも覚えている。
「……椿は、母の好きな花でした」
 おっとりとした父とは対照的に、雪姫子の母は舞や琴と同じく薙刀と合気道を嗜む、まさに女傑とも言うべき気の強い女だった。嫁の方が武家らしい、と父が笑うのを、雪姫子はよく覚えている。
「大人たちが話をしている間、遊んで来いと言われて白藤の家を歩き回っていると、お前がいた」
「え……」
「小さな手で舞扇を持って、日舞の稽古をしていた」
「ああ……。ちょうど習い初めで、扇を持つのが嬉しくて……」
 雪姫子は、懐かしそうに目を細めた。舞う母の美しさに憧れ、そして初めて自分の扇を貰ったことが嬉しくてならなかった。
「そのあと、きちんとお前に引き合わされた。これがお前の守る、白藤の姫だと」
「ひ、姫、って」
「お前は愛らしくてな。子供だったが、私も生意気に男だったのだろう、嬉しかった」
「な……!」
 雪姫子は、真っ赤になった。しかし雹は構わず、どこか遠くを見るような目で、微笑みさえ浮かべて続ける。
「これも覚えていないか?忌野当主になる方が、お前を娶るという話が出た」
「めとっ……!?」
 ブンブンと雪姫子は首を振り、手で引き上げたシーツに顔を埋めた。
「……私はその頃、周りから次期当主だなんだと言われてもピンときていなかったのだが」
「あ……?ああ、そう、だったのですか……。お、お小さかったなら、それも」
「だがその時、当主になればお前が貰えるのだな、と思った」
「!?」
 雪姫子は半ばパニックに陥り、再度シーツに顔を埋めた。
「……父に、そう、言った」
「え?」
 少し震えたような声に、雪姫子はハっとする。見ると雹は視線を落とし、真っ暗な穴を見つめるように無為な目をしていた。
「当主になれば、あの子と結婚するのかと、……そう聞いた」

 ──父上、当主になれば、あの子が私のものになりますか。

「……父がお前の両親を殺したのは、それから何日も経たない頃だ」
「……雹様?」
「私がお前を欲しいと言ったから、お前の両親は」
「雹様!?」
 雪姫子は、必死で否定した。
「そんな──そんなはずはありません! いくらなんでも、」
「私のせいだ、雪姫子」
「雹様!」
「……父は、言ったのだ。病院にいるお前を迎えに行って戻って来た、その日に」
 不謹慎だとわかっていても、雪姫子が自分の家に来るのが嬉しくて、雹は雪姫子が来るのを楽しみにしていた。でもその気持ちは、父が気味の悪い笑顔で言った言葉によって粉々になった。

 ──ははは。欲しかったのだろう? 父が手に入れてやったぞ
 ──喜べ、雹。これは今日からお前の所有物モノ


「……その時、私は知った。お前の両親を殺したのがこの父だと」
 雹は拳を握り締めた。
「久々に会うお前は、まるで人形のようだった。私や恭介に自分から話かけることもなく、目を合わさず、……そして父に、お前の両親を殺した父に、奴隷のように扱われて」
「……………………」
「……おまえは、泣くことも笑うことも、なく」
 自分の軽率な発言を、雹は心から後悔した。あの時自分があんなことを言わなければ、この子はこんな目にあわなくても良かったのに、と。そして、この子は本当は、自分が守るお姫さまのはずなのに、と。
 だから雹は、雪姫子にどう接していいのかわからなかった。あまり目を合わせる事もなく、名前を呼ばなかった。どんな顔をして良いのかわからなかった。
「……気軽にお前に話しかける恭介が羨ましかった」
 そして、疎ましくもあった。、と。
「これは、覚えているか?ある日、お前が裏庭で泣いていた」
「──!」
 雪姫子は、目を見開いた。覚えている。
「覚えて……おります」
 それは最も良く覚えている、そして唯一よい思い出と言えるそれだった。
「……泣くことは、禁じられていて。でもどうしても泣きたい時は、あそこで、泣いていて。でも振り返るとお二人がいらっしゃって、……どうしようかと」
「ああ」
 そうだ、と雹は呟いた。お前は痣だらけで、踞って声を殺して泣いていた、と。
「私は嬉しかった」
「え?」
 思っても見なかった言葉に、雪姫子は彼を見つめた。雹は泣きそうにすら見える顔で、じっと床を見遣っている。
「泣きもしない、笑いもしない。父に両親を奪われ、記憶をすり替えられ、人形のように無表情になってしまったお前が泣いているのが、私はどうしようもなく嬉しかった。……嬉しくて……。……そして、申し訳なかった。私が泣かしたのだ、と」

 ──お前が今こんな目にあって泣いているのは、全て私のせいなのだ。

「そんな」
「しかし、謝ることは出来なかった。お前の両親を殺すことになって悪かった、と、私は怖くて言えなかったのだ。……この時だけではない、今の今まで、ずっと」
「雹様、そんな」
「だから、私は」
 手を、伸ばした。
「あの時、初めてお前に触れた。泣かないでくれと、そしてすまなかったと言う代わりに」
「──頭を、撫でて、下さいました」
 雪姫子の声も、震えていた。
「嬉しくて、」
「……雪姫子」
「──私はそれが、とても、嬉しくて」

 だから、あなたのために。

「私は……、貴方のお父上に生かされていると思っていました。でも私は、その時」
「…………………………」
「……その時、死ぬときこそは、貴方のために、と」

 忌野の、ためではなく。

「そう、決めて……なのに、私は」
 あなたのために生きているつもりで、一つもあなたの為になったことなどしていなかった、と、雪姫子は絞り出すように言った。
「……私は貴方の側に居て、何も出来なかった無能者です」
「何を言う……!」
「貴方が、……!」
 この人があんな風に笑うはずなどなかったのに、何故それに気付かなかったのか。
 雪姫子に取って、術をかけられていたのだから仕方が無い、という言い訳など忌々しいだけのものだった。
「私は貴方の下忍であるのに、貴方を守ることが出来なかった──……!」
 歯を食いしばり、嗚咽を上げて、雪姫子は泣いた。一番側に居たのに、雹がどういう人間なのか一番よく知っていたのに、自分は何も出来なかった。言う通りにしていると思い込んで、実際はもっとも雹を追い込んで苦しめていたのは自分だと、雪姫子は泣き叫んだ。
「──違う」
 咽び泣く雪姫子を前に、雹は目を見開き眉を顰めて呟いた。彼の声もまた、震えている。
「違う、雪姫子」
「雹さ、ま、」
「……お前は何度も私を止めてくれたではないか!」
 頭の中の父が囁く度に起こる破壊衝動、そのせいで他人を殺めかけたことも数度ある。その度に雪姫子は雹の前に立ち塞がり、雹を止めた。時には殺されそうになったものの身代わりになってまで。
「私は何度お前を傷つけた?! 何度、私は、」
 雪姫子を叩き、殴り、時には斬りつけたことも一度や二度の話ではない。
 忌野当主の中でも最強かと謳われる雹の猛攻撃を受けるのは、よほどのことだ。元々殺す気で攻撃している雹を止めるのだから、下手をすれば死ぬ。だから雪姫子はそれに耐えられるようにと必死に自分を鍛え、強くなった。いつでも側に居てその無為な刃を止められるようにと、死ぬほど勉強を頑張ってSAクラスに入った。
「お前はいつでも、私のために身を呈してくれただろう……!」
 雹もまた絞り出すように悲痛な声を上げ、顔を片手で覆った。
「……雹、さま」
 少ししてから、泣いているのだろうか、と、雪姫子自身もまだ泣きながら、反射的に布団の中から手を出した。どうするとも思っていなかったその手は、泣いてはいないものの目尻を赤くした雹に掴まれた。
「雪姫子」
 泣いている雪姫子に、雹はもう片方の手を伸ばした。あの日のように。
「……すまない、雪姫子」
「雹、さ、」
「すまない。……ずっと謝りたかった」
 雹の何も纏っていない無骨な手が、少し痩せているけれどやはり滑らかな頬を撫でる。白かったそこは、泣いたことで血色に染まって美しい、と雹は思った。
「本当は、……ずっと」
 雹は、さらに手を伸ばした。
「頭を撫でるのではなく」
 怖かった。自分が泣かせたのに、守れなかったのに、触れてもいいものだろうかと怖くてできなかった。だからせめて、と頭を撫でるので精一杯だったけれど。
「……泣かないでくれ」
 でも本当は、こうして抱きしめてそう言いたかったのだと、腕の中で泣く雪姫子に雹は言った。人形にはない涙、それを拭ってやりたかった。謝って、泣かないでと抱きしめたかった。
「──姫」
 あの日一度きりだけ呼んだ呼び名で、雹は呼んだ。

「──私の姫。守れなくて、すまない」

 泣かないでくれと、抱きしめる腕に力を込めた。
 /  目次へ / 
BY 餡子郎
トップに戻る

各メッセージツールの用途と使い方
拍手 Ofuse Kampa!