第十二話
 雪姫子が居るのは、保健室横の特別病室だった。
 忌野の訓練法を取り入れた過酷なメニューを行なうこともあるジャスティス学園なので、恐ろしいことに、普通学校の保健室で行なわれるような簡単な手当だけでなく、病院並みの治療が必要なこともある。そのため元引く手数多の有能外科医で、いざという時は難度の高い手術も出来るという、本業の医者に引けを取らないどころか同等以上のスキルを持っている響子が保険医をやっているのである。
 病室には保健室を通らないと入れない。恭介に案内されてきた伐たちは、扉だけは保健室か病院らしい白い引き戸をノックしてから静かに開けた。
「アラ、来たわね」
 相変わらず白衣を着た、何やらカルテを書いていたらしい響子が言った。十日前に散々彼女に世話になった一同は、それぞれ頭を下げたり挨拶したりをし、彼女はそれににこりと笑う。
「ゆき、起きてます?」
「起きてるわよ。まだ退院許可は出せないけど、あとはほんとに時間の問題ね」
「よかった……」
 あきらが、ほっとしたように言う。しかし響子はそんな彼らを見回して微笑んでから、気を入れ直すようにして表情を引き締めると、ため息をついてから言った。
「……会う前に言っておくわね。……カウンセリングの結果、彼女が受けていた術による洗脳は、まずご両親を殺害した犯人に関する記憶のすり替え、そして忌野の下忍として忠実であること、……この二つよ」
 響子は一拍置いて、再度口を開く。
「起きてからもう一度徹底的に検査をしたけど、もう洗脳の効果は一切残ってなかったわ。鑑君の電撃がたまたまいい具合にはたらいたのね。……でも」
 やや表情を曇らせた響子を、皆が訝しむ。
「……でも、今でも彼女は忌野の下忍っていう意識が……とても強くあるわ」
「な……どういうこと?」
 夏が眉をひそめる。響子もまた表情を沈ませ、再度ため息をついた。
「まあこれも洗脳といえば洗脳なんだけど……。彼女はずっと、忌野霧幻氏に使用人として扱われてきたわ。雹君も半ばこれに当てはまるけど、強制的に脳に働きかける術による洗脳より、こういう地道な洗脳の方がずっと解けにくいの。……そのせいだと思う」
「そんな……」
「治らねえのか?」
 顔を顰めて聞いた伐に、響子はフっと微笑んで、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、長い時間はかかるけど、周りの人の協力があれば必ず改善できるわ」
 だからあなたたちに話したのよ、と響子は言った。そして彼らは微笑んで互いに顔を見合わせ、ある者は神妙な顔つきで頷く。そんな少年少女たちを満足げに響子は見遣るとやがて立ち上がり、病室に続く扉をノックした。
「白藤さん、開けるわよ」
 はい、と静かな返事が聞こえた。やはり引き戸な扉を響子が開けると、ちゃんと病室らしい白い部屋がある。中央に置かれたベッドには、背中の怪我に触れないためだろう、横向きのままベッドの背上げを起こしている雪姫子が居た。ベッドの枕元には何やら仰々しい機械がいくつか置いてあるが、どれも電源は切られてシンとしている。雪姫子に繋がれているのは、ただの点滴だけだ。
「やあ、ゆき。具合は?」
 恭介が尋ねると、雪姫子は力なく笑んだ。髪を下ろして横たわる雪姫子は酷く華奢で頼りなく、アキラたちを一人で次々と倒した猛者にはとても見えない。エッジや岩、雪姫子と直接闘った者たちは、目の前の彼女の姿に驚き、やや目を丸くしていた。
「……わざわざお越し下さったのに、こんな格好で申し訳ございません」
「思ったより元気でよかったよ」
「三浦様が背負って下さいましたから。あそこで自力で歩いていたら、辿り着く前に死んでいたかも知れません。ありがとうございます」
「あ、いや、……どういたしまして」
 やたらに丁寧な礼に、ロベルトはポリポリとサンバイザーのベルトの下を掻いた。
「外道高校の皆様は、お加減如何ですか」
「あ、大丈夫です。私はムチウチだけで、この間完全に治りました。エッジは細かい打ち身と切り傷ばっかりだし、岩も耳に異常ないって。兄さんも後遺症とかなくて元気だし」
「そうですか、良かった。…………本当に、申し訳ございません」
 弱々しい声に、答えたあきらのほうがおろおろしてしまっている。吹けば飛んで消えそうな儚さを醸し出す雪姫子に、皆困ったように顔を見合わせた。
「……本当に……今回のことは……どうお詫びしていいのか見当も……」
「んもー、もういいって! 済んだことなんだし、操られてたんだからしょうがないよ! もう誰も怒ってないし、気にしても──」
「いえ」
 ひなたの明るい声を、雪姫子は静かに遮った。
「……私は、洗脳されていたからああしたのではないのです」
「へ?」
 ひなただけでなく、全員がぽかんとして雪姫子を見る。
「洗脳されていようがいまいが、私は忌野の下忍として動きました。情状酌量には値しないときちんと自覚しております」
 事前に響子から聞いていたとはいえ、無表情でもって頑として発されたそれに、皆が驚き、そして息を飲む。皆が言葉を失う中、響子が言った。
「……白藤さん。何度も言ったけど──」
「ええ、何度も聞きました。そして確かに私は洗脳術をかけられておりましたが、それ以前に、私は私の意思で忌野の下忍であろうと決めていたのです」
「えっと……それって、どういうこと?」
 あきらが尋ねると、雪姫子は余り動かせない身体を僅かに身じろぎさせて彼女に視線を遣り、話し出した。
「……例えば貴女が林檎を食べたいと思っていたとして」
 淡々とした口調で話す声を、全員が静かに聞いている。
「そしてそんな貴女に“林檎が食べたくなる”という洗脳がかけられたとしたら、……いま林檎を食べたいと思っている意思は、自分のものなのか、洗脳によるものなのか、どちらだと思いますか」
「…………………………」
「……そういうことです。洗脳されていようといまいと、私の行動は変わらなかった」
 雪姫子は、頑として言った。儚げに横たわる彼女の姿とは裏腹に、その言葉は氷結したかのように強固で、そして痛いほど冷たい。
「ですから──……伐様、恭介様に刃を向けたことについては、本当に申し訳なく……」
「……ゆき?!」
 恭介が、とうとう怒った顔で声を上げた。
「いい加減にしてくれ! 恭介様だなんて、……昔みたいに普通に呼、」
「私は忌野の下忍です。身の程を弁えております故、お許しを」

 ──“身の程を弁えろ”というのが、父の、雪姫子に対する口癖で、常套句だった


「……ッ!」
 雹の言ったことを思い出し、恭介は唇を噛み締めた。最早ここまで来ると呪縛に近い、……いや、洗脳とはまさにこういうものなのか。教育とは時に人間の心に凄まじいものを植え付ける、その実例を今目の前に見た面々は、絶句して雪姫子を見た。
「それは違いますよ」
 本物の牧師さながらの独特の声で言ったのは、ボーマンだった。
「人は皆平等です。信頼関係の上に成り立つ上下関係ならともあれ、支配したりされたりという関係は人として正しくないものです。貴女は自由であり、またそうあるべきです」
「ああ、その通りだ。自分の意思を自由に大きく持つことこそ大事なことだ。小さなところに縛り付けられているなんて、馬鹿馬鹿しい」
「……そうですね」
 ボーマンと、そして彼に同意して大きく腕を広げたロイを見遣り、雪姫子は言った。
「それが正しいと私も思います」
「だろう? なら、」
「しかし、それを踏まえた上で尚、私はこうしたいのです。自由に選べる立場でもって、私はこうなることを選びました。忌野の忠実な下忍であること、そしてその為に生き、その為に死ぬこと」
 取りつく島もない──とはこういうことか。きっぱりと言ってのけた雪姫子に、さすがに二人も反論できずに黙り込んだ。
「……では何故謝る」
「兄さん?」
 重く、腹に響く声。一番後ろに腕を組んで立っていた醍醐が言い、あきらが振り返る。彼の前にいた者たちが、自然と立ち退き、雪姫子と醍醐の間には誰もいなくなった。
「白藤と言ったな。おまえはさっきから、俺にもこいつらにも、卑屈なほどに謝り倒している。自分の意思で決めたと覚悟をしてやったことなら、何故今になって謝る」
「それ……は……」
「謝るということは、後悔しているということだ。違うか」
 雪姫子の表情が、初めて歪んだ。
「後悔など──!」
「ならば何故謝る! 己が決めて信じた正義なら、絶対に謝るな!」
「……ッ」
 醍醐の言葉に、雪姫子は目を伏せて唇を噛む。苦しみに満ちたその表情は、何かに耐える様に似ていた。
「……ン〜、Excuse me? チョットいいでスか?」
 困ったような顔で唇を尖らせ、ずっと黙っていたティファニーが言った。雪姫子が、はっとしたように顔を上げる。
「……なんでしょう……? ええと……ローズ様」
「ンン、ティファニーでいいヨ。えと、雪姫子はイマワノ・ファミリーのニンジャ、OK?」
「はい、そうです」
 雪姫子は頷いた。
「でも雪姫子、伐や恭介とマジバトルしたネ。さっきゴメンナサイしてたケド、二人ともイマワノ・ファミリーよ。どうしてあの時二人とバトルすることに決めたのネ? Please teach the reason ?」
「え……」
 あっけらかんとした調子のティファニーの質問に、雪姫子はフっと過るようにして、ぎくりとした表情を見せる。そして響子は、その一瞬の感情の揺れを見逃さなかった。
「……そういえばそうね。忌野にそんなに深い忠誠を誓っているんだったら、この二人と闘うのはおかしいわ。それにあなたは、現当主である忌野学長でさえ洗脳することに協力した。これって、それこそ謝って済むようなことじゃないでしょう。何故そうしようと決めたの?」
「……………………」
 今まで、質問してきた人間の目をまっすぐ見て答え続けていた雪姫子が、その時初めて目を逸らした。そして、先程から雪姫子の様子をじっと見ていた恭介が、ふと呟く。
「──兄さんか?」
 ストンと憑き物が落ちたような声色の恭介のそれに、全員が振り返る。彼は軽く目を見開いて、顎に当てていた指先を浮かし、雪姫子を見ていた。
「……雷蔵叔父さんを洗脳するのに協力したのも、僕や伐と闘ったのも──、……いや、今回の件全ては、洗脳されていたとはいえ兄さんが命じたことだ」
 恭介は、すらすらと言い連ねる。雪姫子は彼を見ない。
「……君が忠誠を誓っているのは忌野じゃない」
「……え……? ……えーと……それはつまり……?」
 あきらが中途半端な笑みを浮かべつつ、ややおろおろするような仕草で、恭介と雪姫子を見比べる。恭介はさっきからじっと雪姫子を見つめているが、彼女は既に誰とも目を合わそうとしなかった。
「あ」
 雪姫子が、物凄く小さな声で一音発した。
「あの方は…………次期忌野家、当主で」
「苦しい言い訳だよ、ゆき」
 恭介が、少し笑った。驚きから立ち直るようにして。
「ゆき、君は、兄さんが命じたから・・・・・・・・・、現忌野家当主でさえ手にかけた。そうだろう?」
「…………………………」
「は?」
「え、ソレって」
 さわさわと、皆が小声で言いあい始める。そして先程進み出て雪姫子のすぐ側まで来ていたティファニーが、ぱああと顔を輝かせた。その青い目には、既に星まで散っている。

「雪姫子も雹にラブでスか──!?」

かなり響く大声だった。そして、固定された身体を既に限界まで逸らして顔を明後日の方向に向けている雪姫子が、ビクッと身体を跳ねさせる。
「え、ウソ」
「マジで? え?」
「ほんとに?」
 小さな呟きたちとともに、全員の視線が雪姫子に集まった。雪姫子は限界まで顔を逸らすものの、物凄い視線が自分に一斉に刺さっているのに耐えられなかったのか、顔を逸らしたまま言った。
「申し訳ございませんが、何のことだか理解しかねます」
「ユ〜キコ〜、耳が真っ赤ダヨ〜」
 にや〜、と笑って、ティファニーが雪姫子の肩を指先でつつく。
「赤くありません」
「いや自分で見えねえだろ」
「赤くありません」
 エッジがもっともなツッコミを入れるが、雪姫子からは堅い口調の返事が返ってくるのみだ。
「つまり、だ。ゆきがかけられた洗脳は“忌野の下忍として忠実であること”だけど、ゆきにはもともと“兄さんの下忍として忠実であること”っていう意思があったからああいう例えに」
「ああ、なるほど」
 恭介の補足に、ほぼ全員が納得して頷いた。
 そして彼や響子が更に考察するには、雪姫子本来の意思としては、雹が実際には望んでいない忌野霧幻の洗脳による命令には従いたくはない、が、雪姫子は“忌野に忠実な下忍であること”という洗脳を受けているから、嫌々ながらもそれをきくしかなかった、という状態であったのではないだろうか、という結論が出た。
「なるほどね……。……白藤さん、あなた、忌野君から“霧幻氏的な命令”が下される度に頭痛がしてたんじゃなくて?」
 響子が言う。あの洗脳術は、本来望んでいないことややりたくないことを洗脳の力が押さえつける瞬間、その反発のせいで酷い頭痛を呼び起こす。常に頭の中で響く霧幻の声と闘ってきた雹はそれが顕著だったが、雪姫子もそういった状態であったなら、“雹から忌野的命令が出て、それを聞かなくてはならない”という場合に頭痛がしていたはずだ。
「……………………」
「無言は肯定と見なすわよ?」
「…………………………はい」
 小さな声で、返事があった。
「……仰る、通りです。……あの方がそんな非道な命令などするはずはないと、……どこかできちんとわかっていて、それを正さねばならないとも思っていました」
「でも、できなかった。霧幻氏の洗脳の内容が、“忌野の下忍として忠実であること”……つまり、霧幻氏の遺志を継いで行動するということだったから」
「……そうです。霧幻おじさまの声が、その考えは無視しろ、私の声を聞けと叫ぶのです」
 お前は、私に生かされているのだ、と。
 雪姫子は、布団の中で拳を握った。
「そして私は、あの方がそんな事を言うはずがない、これはあの方の声ではないと思う度に、自分でそれを無視し続けて、考えなかったことにしていました。……恭ちゃんの電撃で洗脳が解けたときは、どうしてそんな事をしていたのかと、全ての視界がクリアになったような……霧が晴れたような」
「……わかるわ。私も洗脳を受けて、それが解けた時、そんな感じだった」
 響子が深く頷いて言った。ずっと会話を聞いている醍醐も、頷きはしないものの、じっと彼女らを見ている。
「うん、よくわかったわ。洗脳術に関する疑問も解けたし、あとは怪我を治すだけね」
「あ………………はい……」
 枕元からカルテを取り上げ、ニコニコと笑いながら書き付ける主治医を、ずっと頑に目を逸らしていた雪姫子は思わず見た。だが響子は、その隙を見逃さない。
「……で?」
「は?」
「いつから忌野君が好きなのかな?」
 途端、音がしたんじゃないかと思うほどの勢いで、一気に雪姫子が赤くなった。肌が白いだけにその色は顕著で、雪姫子は慌ててシーツを引き上げようとする。しかし響子はすかさずそれを阻止した。
「こらこら、主治医の問診にはきちんと答えましょうねー」
「も、問診じゃ、な……!」
 雪姫子は懸命にシーツを引っぱったが、大怪我をしてまともに動けない彼女が、既に全快以上の響子の力に適うはずもなかった。無慈悲にもシーツを取り上げられて胸下できちんと畳まれ、雪姫子は真っ赤になりつつ、既に泣きそうな顔をしている。
「ええ〜、白藤さんカワイイ〜」
 ひなたが女子特有の鼻声で言うが、思春期まっただ中の高校生男子陣もまた、真っ赤になって涙目の病み上がり和風美人に思わず顔を赤らめるものも少なくない。
「……というわけで、問診するので男子は退場ね」
「えー?!」
「ガールズトークよ〜、Get out !!」
「ほら、出てった出てった。男子禁制だよ」
 少々のブーイングが飛び出すが、真っ赤になっている雪姫子と女性陣の圧力に負け、男性陣は仕方なくぞろぞろと退室していった。そしてピシャリとドアが閉まるのを確認すると、ティファニーがにこにこしながら雪姫子のベッドの端に腰掛けた。
「ホーラ雪姫子、Boysは出てったヨ。トークするね、トーク! コイバナ!」
「あらローズさん、難しい日本語知ってるじゃない」
 ホホホ、と響子が笑う。しかし未だ泣きそうな顔をしている雪姫子を、あきらが心配そうに覗き込んだ。
「だ……大丈夫? 白藤さん……」
「……まさか」
 雪姫子は、両手で顔を覆った。
「まさか今になってバレるなんて……」
「そーヨバレちゃったヨ〜、もうこうなったら全部言っちゃうネ! ミーたちが聞くヨ!」
「……無理にとは言わないけどさ、アンタ抱え込んでること多そうだし……。吐き出してみるのもいいと思うよ? 言って楽になるならいくらでも聞くからさ」
 そう言った夏に、ひなたは「さすが夏」と感心した。こういう時に頼りになるからこそ、彼女は下級生の女の子たちに絶大な人気と信頼を向けられているのである。そして夏の言葉はやはり効果があったのか、困り果てたような顔の雪姫子が、その顔から両手を外した。
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BY 餡子郎
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