第八話
その後雷蔵も起き上がり、彼のコネを使って忌野経由の医療スタッフが呼ばれ、学園の生徒と伐たちもまた、その場で治療を受けた。一気に野戦病院と化したジャスティス学園は、普段からするとあり得ない賑やかさをもっている。
「あいっ、だだだだだ」
「こら、起きるんじゃない。酷いんだから」
寝るのに早々に飽きてベッドから起き上がろうとする伐を、右腕を三角に吊った恭介が諌める。ジャスティス学園は山奥にあり、大怪我を負った身ではむしろ降りる方が難儀だった。それならいっそここで治せと、余っている寮の部屋を借り、彼らはここで療養して既に二日。
「うるっせ、痛えだけでもう起きれる!」
「仕方が無いな……。いやまあ、近々そうしてもらおうと思っていたところだったんだが」
「あ?」
「雹君が起きたのよ」
息子の怪我を見るのと雷蔵と和解したこともあり、ここに残っている雫が言った。
「最初はちょっと朦朧としてたけど、今はもう意識もハッキリしてるわよ」
「マジかよ、お袋」
丈夫だなァあいつ、と、伐が呆れたような声を出す。
一度全力で闘った相手に余計なわだかまりを持たないこの友人の性格を、恭介は好ましく、そして雹の弟として有り難く思った。血縁上では雹と恭介の兄弟と伐は従兄弟同士の関係だが、雷蔵の養子に雹が入っているので、戸籍で言えば雹と伐は兄弟なのである。出来るなら、余り仲は悪くならないで欲しい、というのが恭介の胸の内だった。
「それと……雪姫子ちゃんだけど、さっき容態が完全に安定したって。良かったわねえ」
「──本当ですか!?」
恭介が大声を出し、雫が優しく微笑んだ。
「ええ、峠は越えたから後は目覚めるのを待つだけだって、水無月先生が。あの方、もとはかなり有名な外科医さんだったんですってね。傷もできるだけ綺麗に治してくれるそうよ。うちの人も、忌野の医療技術を全て使って治してみせる、って息巻いてたし」
「そう、ですか……良かった……」
「女の子ですものね。傷は残してあげたくないわ」
神妙に言った雫に、恭介も深く頷く。どこか居心地の悪そうな伐が、ぽりぽりと頭を掻いた。その癖が雷蔵そっくりであることに気付き、雫がぷっと吹き出す。
「?何だよ」
「いいえ、何も」
「……でもよ、あいつホントに洗脳解けたのか? ……ほら、その、よ……。庇ったし」
「ああ……」
それにもまた、雫が頷く。生来働き者気質な彼女は、ここに居る間も給食室で働いたり、やはり伐と同じくこちらに残っている五輪やパシフィック、外道高校の者たちの面倒まで見ていたりと、あちらこちらを右往左往し、すっかり事情通になっていた。それを見て、オバちゃんってこうやって世間話のネタを集めんだな、と伐はしみじみ思ったりもした。
「聞いたんだけど、ああいう、身体……とくに脳に干渉する忍術は、検査するとちゃんとわかるんですって。今回の場合は脳波とか、そういう……。それで、雪姫子ちゃんは全然それがないそうよ。つまり、洗脳にはかかってない」
「……本当か?」
信じられない、というような声を出す伐に、恭介もまた同じような表情を浮かべる。
「まあ、ああなってから洗脳が完全に解けたということもあり得るが……」
「その可能性が一番高いんじゃねえのか? あんな死ぬようなケガすれば、洗脳解けるどころか頭の中身全部吹っ飛んでても不思議じゃねえよ」
「コラ! 不吉なことを言うんじゃありません! 言うと本当になることもあるんだからね!」
「あだだだだ! 耳引っぱんなって、耳! 痛!」
小さな子供のように雫に叱られている伐を恭介が笑いながら見ていると、内線が鳴り、恭介はそれを取る。相手は雷蔵だった。
「……はい。はい。わかりました。伺います」
「なんだ、どした?」
カチャン、と静かに受話器を戻す恭介の後ろ姿に、伐が耳を押さえながら言葉を投げる。
「……兄さんが皆に話があるそうだから、生徒会室に来てくれって」
図書室もそうだったが、生徒会室のやたらな豪奢さに皆は気圧されつつも、それぞれがアンティークの応接セットの椅子に腰掛けて、一部の者たちは居心地悪そうに、そしてロイやティファニーなどは調度品の質の良さを褒め、座り心地の良さに満足しつつ、雹が出てくるのを待った。
「揃ってる?」
しかし白衣を着てまず颯爽と現れたのは、響子だった。
「忌野君なんだけど、ベッドの上にしときなさいって言ったのに、聞きやしないのよ。まだ痛み止めがあんまり効いてないから、それまでに私がちょっと説明するわね」
「説明?」
「忌野君のかかっていた洗脳について」
その台詞に、全員が表情を引き締めて顔を上げる。
「医学的な見地による精密検査と、忌野学長から得た忌野家忍術の情報、更に本人の申告と簡単なカウンセリングおよび質疑応答。これら全てから判断して、彼は幼少期から、父親の忌野霧幻氏から、洗脳術を施されていることが確かになったわ」
雷蔵と恭介が、痛々しい表情でもってため息をついた。
「洗脳の内容は、忌野による政治テロおよび洗脳による制圧。今回の騒動は、そのことが全ての原因よ」
「……でも、もうその洗脳は解けたんだろう!?」
恭介がいきり立つ。しかし響子は、ゆっくりと首を横に振った。
「解けては居ないわ。自我を保っているだけ」
「どーゆーこと?」
ひなたが不安そうな表情で尋ねる。響子は診断結果を告げる医者として、誠実な無表情のまま言った。
「……今回私や島津先生、忌野学長がされたように、一度で一気に洗脳するのであれば、その分解くのも簡単なの。でも彼は、物心つく前から少しずつ、深く根強い術をかけられた。これを完全に解くことというのは難しいわ。今はこうして自我を保っているけれど、いつどうなるかはわからない」
「そんな……!」
全員の表情が歪む。しかしその時、雷蔵が口を挟んだ。
「兄が雹にかけた術は根強い。洗脳術を押さえ込み自我を保つのには、かなりの精神力が必要になる。儂もだが、かけられたものならわかる感覚だと思う」
雷蔵がちらりと響子と英雄を見ると、二人は疲れたような表情でもってそれを肯定した。
「一度の洗脳のみの儂らでさえこうなのだ。幼い頃から術をかけられ続けた雹が、こうして自我を保っていることさえ奇跡に近い」
「それって、どういうことだ」
将馬が、困惑げに質問する。
「……子供というものは、身体の成長に従って心も成長していくものだ。三つ子の魂、と言うだろう。その時期に洗脳術をかけられれば」
「元々ある人格を洗脳するのではなく、最初から洗脳人格しかない人間が出来上がる……ってトコか?」
ロイが言うと、雷蔵は頷いた。
「その通り。そしてそれこそが兄の狙いだった。まっさらな赤子の中に、洗脳術によって自分の思い通りの人格を作り上げる。おそらくそれは、兄のクローン、コピーを作るようなつもりだったのだろうな」
「……よりにもよって、自分の息子を使ってか!? ──狂ってる!」
「そうだ。狂気の沙汰だ」
理解できない、と叫んだロベルトに対し、重々しく言った雷蔵の言葉は、ぞっとするほど暗い。
「雹は今回こうなるまで、彼の中にある、兄・霧幻が作り上げた洗脳人格……雹が言うにはこれは兄そのものに近いらしいのだが、それと自我との融合を拒み、しかし命令を聞かねばならないという二つの命令と意思の間でずっと闘っていた」
そしてそれは、気を失うほどの酷い頭痛や精神不安、情緒不安定などの様々な症状を引き起こすのだという。そして雹はこの十年以上、ずっとそれと闘ってきたのだ、ということを聞かされ、全員が驚愕する。
「……すげえな。アタマおかしくなってねえのが不思議な位だ」
「その通りだ」
エッジが言ったそれに返された雷蔵の声は、重々しい苦悶が滲んでいる。そしてその言葉の意味を捉えかね、数人が目を点にする。
「あ?」
「彼がずっと闘ってきたのは、まさにそれだ。父親が作った人格と自分の人格、精神、心……。どちらが本当の自分なのか、言うことを聞いて何も考えずにいれば楽になれるのではないか、それとも自分は既に狂っているのか、果ては自分はもう死んでいて、これは夢なのではないか。寝ても覚めても、毎日悪夢に魘され頭痛で意識を失いながら、そんな事ばかり考えている、雹はそう言っていた」
凄まじいそれに、健全な青少年たちは顔を歪めて絶句する。そして雷蔵も、そんな彼らの反応に、皮肉げに顔を歪めた。
「……こういう状態で、彼がこうして自我を保っているのは凄いことよ。精神分裂も起こしてないし、ドラッグに堕ちるような人間とは真逆に位置する性格ね。物凄い意思の強さと精神力」
響子が言う。そして響子は、しかしこの雹の強い精神力こそが霧幻の計算外だったのだろう、と言う。幼い子供が既に自我を持ち、自分の洗脳を拒み闘うことなど考えもしていなかったのだろう、と。しかし雹の自我は霧幻の洗脳と闘い傷つけられながらも、辛うじて自己を確立してきたのだ。それはまさに想像を絶する精神力と言っていいだろう。
そしてしばらくすると、雷蔵に支えられながら、雹が出てきた。生徒会長である雹の自室は生徒会室と扉で繋がっている。白いゆったりしたシャツは四つほどボタンが外され、白い包帯が痛々しく覗いている。いつもきつく結っている白く長い髪も下ろしたままで、まるで別人めいて見える。
雹は一人掛けの椅子に大仰そうに座ると、大きく息をついた。
そんな彼を見て、現在彼の主治医でもある響子が、顔を顰めてため息をつく。痛み止めを打っているとはいえ、あれだけの怪我を負い、恭介の電撃を食らって今さっききちんと覚醒したばかりの彼の身体に走る激痛はかなりのものだろう。それなのに歩いて座るなどという動きをして、表情が変わらないだけ大したものだ。
「あのコといい、忌野の忍者ってどんな訓練してるのかしら」
「……今からそれを話そう」
雹の声は重い。
「──まず今回の件、首謀者である私は然るべき処罰を受ける気で居る」
「兄さん!」
恭介が立ち上がるが、雹は彼を見さえしなかった。しかしそれでも雹から漂う威圧感に恭介はそれ以上何も言うことなく、渋々再度席に着いた。
「……だがそれはまた後で話す。まずは──」
はあ、と、雹は息をついた。しかし、声に弱々しいものを滲ませる気配は全くない。その甘えのない自分への徹底した厳しさに、数人が息を飲む。
「私の……私と恭介の父である忌野霧幻は、私に少しずつ──物心つく前のことだが、洗脳術を施した。何年も何年も、父が死ぬまで。忌野が日本を支配するのだと、その為にこそ全てを制圧せよと」
「兄は」
雷蔵が、悲しげに言った。
「霧幻は儂の兄でもあるが──……そういった考えに、誰よりも取り憑かれた男だった。そのせいで結局儂とは絶縁状態になってしまったが、忌野家が裏社会にあることに賛成する輩たちから支持を受け、その資金や物資で暗躍していた」
「そして私もその一部だということだ」
雹の声は、自嘲を含んでいる。
「私は父にとって最大の“作品”、手塩にかけた傀儡だ。父が死んでも父の意思に忠実に動く、洗脳術によって作り上げた傀儡」
シン、と部屋が静まり返った。
「だが……。気分だけ言えば、私は今、目が覚めたような清々しい気分を味わっている」
雹は、眩しいかのように目を細める。
「……夢から覚めたような。しかし、いつまでこれが続くだろうかという不安も強い。今は恭介の電気ショックの荒療治で洗脳人格は気絶し、さらに忌野家の投薬で更に眠らせているような状態だ。洗脳人格、私はずっと父と呼んでいたが……これがこれほど静かなのは初めてだ」
その表情は、本当にすっきりしていた。しかし直ぐさま彼は顔を曇らせる。
「しかし、いつ醒めるかわからん」
「確かに雹はこれから先長い間、兄の作り上げた人格と闘っていくことになるだろう」
ふう、とため息をつき、雷蔵が言う。
「しかし、忌野が作った洗脳信号を和らげる薬の投薬を数年がかりで続ければ、あるいは」
「本当ですか」
恭介が、訝しげな、しかし希望を願う表情で問う。雹が答えた。
「今現在、薬の効果は確かにある……が、薬が必要なくなるほど完全に治る、という保障もないそうだ。そして人格が起きようとすれば、酷い頭痛と破壊衝動の発作が起こる。今までは常にその状態で、それが酷くなるかならないかだった。酷くなると凄まじい頭痛が起こり、何でもいいから壊したく……いや、殺したくなる。殺せば頭痛は治まり楽になれる」
「……殺したのか?」
伐が、険しい表情で尋ねた。雹はフっと皮肉げに笑む。
「いいや、出来るだけ人と会わず、物を壊すことや鍛錬で誤摩化すことで何とかやっていた。白状すると訓練時に手合わせの相手を半殺しにしたことは数度あるが、殺してはいない」
「……そうか」
雹の言葉に、伐だけでなく、全員がホっと安堵の息を吐く。
「……どうしても自制が効かないときは、雪姫子が止めてくれた」
ぼそりと言った雹の声は、とても苦しげだった。
そして誰が何を言うべきかわからず長い沈黙が続いた後、雹が長く重い息を吐き、そして背筋をもう一度正した。
「雪姫子のことも……話しておこう。私しか知らぬこともある」