何故、気付かなかったのか。
雪姫子の頭の中は、今、それでいっぱいだった。
確かにあの人は過激な考えを持つこともあるけれど、こうして無理矢理言うことを聞かせようとする人ではない。やる気のある者だけを奨励し、引き上げ、そして能力を認めた者に敬意を払うからこそ彼はカリスマとして尊敬されてきたのだ。
──……君は、小さい頃からずっと彼の側にいるからな
──一番彼を理解しているのは君だと、私は思っている
雷蔵の言葉を思い出し、雪姫子は再び涙を流した。
そう、ずっと側で見てきた。誰よりも近くで、努力は見苦しいと言いながらも持って生まれた才能に甘えず、絶えず無言のままに鍛錬を繰り返してきた雹の姿を、雪姫子は誰よりも近くで見てきたというのに!
(……ああ、)
なんという愚か者か、と、雪姫子は泣いた。自分は何も見えては居なかった。たとえ霧幻の術にかかっていたとしても、それを言い訳になど出来ない、いや、したくない。
(──私は、)
あの人のために生きているつもりで、一つもあの人の為になったことなどしていなかった。
ロベルトの背中の上から見る視界は、涙が滲んでぼやけている。ひたすらに涙は熱く、既に全てのものが溶解して流れ出していた。十年間封印してきた感情が、雪解けの雪崩のように凄まじい激しさで駆け巡る。
(ああ、ああ、ああ、)
名前を呼ぶのもおこがましい。
それは雪姫子が下忍だからでも、生かされている身だからでもない。
──側に居ても何も出来なかった、無能者だからだ。
──バァン!
勢い良く明けた重厚なドアの向こうでは、気絶している雷蔵、そして傷つき座り込んでいるひなた、満身創痍の伐と雹が、お互いに荒い息をつきながら対峙しあっていた。
「……幻影空間も、既に維持できぬか」
重くそう呟いた雹の笑みは、雪姫子が嫌いなあの笑みだった。そしてその目には、赤いものが宿っている。雪姫子はまた泣いた。そうだ、雹があんな顔をするはずだってないのに、どうして今まで何一つ気付かなかったのか、と。
「──あ、」
手を伸ばして身じろぎした雪姫子を、ロベルトがそっと背中から下ろす。
「雹、様」
「──雪姫子?」
その時、雹の目から、赤いものがフっと消えた。そしてそれと同時に、追ってきていた恭介たち全員も図書室に辿り着いた。
「兄さん!」
「……恭介か。はは、見ろ恭介。とんだ結末だ」
雹は、刃こぼれした挙げ句に折れた刀を放り捨てた。
「……実に、馬鹿馬鹿しい。狂気の沙汰だ。私は父の傀儡に過ぎぬ」
「兄さん?」
「無意味だ、何もかも。すべては今終わるのだ」
フウ、と雹は息を吐き、身体の力を抜いた。豪奢な制服は既にボロボロに破れ、高く結った髪はばらけて一部が千切れてすらいる。
「泣いているな、雪姫子」
「雹、さ」
「……は。その様子だと、洗脳が解けたか。はは、ならば私は正真正銘孤立無援というわけだ」
ははははは、と、雹は嘲笑うかのような、乾いた笑いを響かせた。
「雹様」
「私が憎かろう、雪姫子。だが悪いな、お前に殺されてやるほど暇ではない」
「雹様!私は、」
その時、雪姫子はハっとした。雹が視線を向ける先に居るのは、伐。既に意識が朦朧としているのだろう、しかし雹を倒すという目的のみが残っている彼は、虚ろな目で、それでも気を奮い立たせて最後の力を振り絞っていた。
「──全開ッ……!」
「あ、」
雪姫子は、見た。闇夜に降る氷のようにシンと深い目で、伐の手元で眩く光る気弾を見遣る雹の目を。それはいっそ安らかでさえあり、雪姫子は心の底からぞっとした。
「
……気合弾──ッ!」
「兄さ……!」
「雹様!」
──ドゴォン!!
伐の気合弾が雹にまっすぐ向かったと思った瞬間、物凄い音がして、辺りがシンと静まり返る。もうもうと煙が漂い、そしてそれが晴れた時、伐が気力を使い果たしてドサリと倒れた。慌ててひなたが近寄る。
「──……雪姫子?」
呟いたのは、雹だった。
胸の中にある身体の感触は、ぎょっとするほど細く、軽い。抜けかかっていた最後の簪が、ポトリと抜けて赤い絨毯の上に落ちた。黒く艶やかな髪は既に散々乱れていて、白い頬を隠している。表情が、見えない。
「……ゆ、き」
ずるり、と滑り落ちる身体を、雹は咄嗟に支えた。抱きしめるようになった姿勢で、雪姫子の背中がずたずたに焼き爛れぐずぐずに血が滲んでいるのを見て、一気に血の気が引く。
「──雪姫子!」
背中に触らぬようにと抱え直し、仰向けにして顔を見遣るが、既に雪姫子の表情は虚ろだった。半開きになった唇に血の気はなく、ただひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返している。
「な、んで……!? 洗脳、解けてなかったの!?」
「そんな、」
夏の呟きに、恭介が呆然とする。あの身体で信じられないほどのスピードで駆け出した雪姫子は、伐の最後の力を振り絞った気弾の前に飛び出し、雹を庇ったのだ。
しかし一番困惑した顔をしているのは、雹その人だった。
「──何故だ」
「…………ひょ、う、さ」
「何故だ! 何故私を庇った!? 親の仇の私を!」
「……親の、仇……?」
恭介が、ほぼ無意識に鸚鵡返しをする。雹は唇を噛んだ。
「……雪姫子の両親を殺したのは、強盗ではない」
「は……?」
「私の父、忌野霧幻だ」
全員が、驚愕に目を見開く。
「──洗脳が解けたなら、そのことを思い出したはずだろう! 何故私を庇った!?」
「……さいご、」
「雪姫子、答えろ。何故私を、」
「さいご、ですから」
雪姫子の目は虚ろで、既に見えているのかどうかさえ定かではない。しかし彼女は雹の腕に支えられ、安らかにも見える表情で、彼をじっと見つめていた。
「さいご」
「最後などと、言うな……!」
雹は拳を握り締めようとしたが、そうすると雪姫子の肩を握りつぶしてしまうことに気付き、必死で力を緩める。肩は驚くほど薄く丸く、そこから伸びる腕はだらりと力ない。
「兄さん、」
必死の形相で雪姫子を見つめる兄の姿に、恭介は呆然とした。兄は、紛れもなく正気だ。
「アイツ、どうしたんだ? あの子、洗脳して操ってたんじゃないのか」
「でも、ものスゴク必死ね、あのヒト」
ロイが訝しみ、ティファニーが眉を八の字にして、小さく呟いた。
「わたし、は、洗脳、など……」
「……雪姫子?」
「わたしは」
ふうっと綿毛のように空を漂った雪姫子の手を、雹が捕まえた。手袋がもどかしく外したいが、雪姫子の手を離すことも出来ないジレンマに陥る。
「わたしは、わたしの、意思で」
「何を、」
「さいご、ですから」
許して、と、雪姫子は言った。そして本当に僅かな力で、初めて雹の手を握り返した。
「雹、さま」
「………………」
「──お、」
ぽろ、と、目尻から涙がこぼれ落ちた直後、雪姫子の身体がガクガクと身体が痙攣し始めたのに、雹だけでなく全員がぎょっとする。
「お、し、」
「雪姫子!」
「──お……い、申し上、お、りま、」
ごろん、と、雪姫子の首が転がるように力なく横を向いた。目は開いているが、既に光はない。ただガクガクと痙攣するだけの細い身体。
「──雪姫子!」
「どきなさい!」
響子が駆け寄り、雪姫子の容態を確認する。途端に激しく顔を顰めると、「担架!」と彼女が叫ぶ。しかしそれより先に既に英雄は非常用の扉からそれを用意しており、素早く横につけた。そして背中の傷に降れぬように横向きに雪姫子を担架に寝かすと、響子は再び叫ぶ。
「保健室で手術! まだ体力あって迅速且つ揺らさずに担架を運べる自信のある子!」
「無茶な……。ッく、じゃあ俺だ! ボーマン!」
「ええ、任せて下さい」
ロイとボーマン、体格のいい二人が安定のいい身体でがっしりと担架を持つと、迅速且つ揺らさずに、なかなか指示通りに走り出した。後ろ側を持つボーマンは、雪姫子の傷の酷さに顔を顰めた。背中一面が焼けただれて血が溢れ、更に恭介との戦いでの強い電気ショックで、爪や皮膚がところどころ弾けるように裂けている。生きている方が不思議な位だ、と、ボーマンはぞっとした。
「…………──がっ!?」
運ばれていく雪姫子を呆然として見ていた雹が、突如声を上げた。目の奥に、再び赤黒い光が宿る。
「…………っそ……! 父上……ッ!」
全員が飛び退き、緊張感が走る。雹はだらだらと汗を流して耐えているが、長く持ちそうにないのは明らかだった。
全員が慌てる中、夏が叫んだ。
「ちょっと、そこのメガネ!」
「……鑑」
「何でもいいわ! さっきあの子にやった電気ショック!」
恭介は、目を丸くした。思わず雹を見ると、彼もまた恭介を見ていた。
「恭、介……ッ! ……やれ!」
「兄さん」
「早くしろッ……構わん、殺す気でやれ……!」
恭介はやや怯んだが、ごくりと唾を飲み込むと、兄の額に手のひらを当て、思い切り電気を叩き込んだ。雹は見ている方が気絶しそうなほど大きく身体を跳ねさせると、そのままバッタリと倒れて意識を失った。