第五話
恭介は、命令通りに雫婦人を拉致し、ジャスティス学園まで連れてきた。
雪姫子は彼から彼女を受け取ると、迷った挙げ句──雪姫子の部屋に案内した。雫は縛られては居るがそれ以上におとなしく、抵抗するような素振りは特に見せなかった。室内に入って鍵を閉め、窓の鉄格子のボルトが元通り溶接されているのを確かめると、雪姫子は雫の拘束を解いた。
「汚いところで申し訳ありませんが、こちらでしばらくお過ごしください、奥方様」
「奥方様ね。ということは、私はあの人の関係で連れて来られたの?」
「あの人とは、どちらで」
「決まってるでしょう。雷蔵よ。責任者のくせに何をしてるの! あの人はどこ?!」
雫という女性は、年相応ながらも可憐さを失っていないような印象で、女から見ても素敵な女性に見えた。拉致されてきながらも凛とした態度を崩さない雫に、雪姫子は内心舌を巻く。
「今このジャスティス学園の頂点に立っているのは、あの方ではありません」
「──え?」
思っても見なかった答えだったのか、雫は目を丸くした。
「では失礼いたします。ご用があれば、そこのインターホンでお申し付けください」
「待って!」
くるりと踵を返した雪姫子を、雫が呼び止めた。雪姫子が振り返る。
「なんでしょう」
「あなた、……名前は?」
「私は、白藤雪姫子と申します。奥方様」
「しらふじ……」
雫は顔を歪め、訝しむような表情をした。
「……白藤家の、雪姫子ちゃん?」
「──……」
「雪姫子ちゃんでしょう! 小さい頃、お家に伺ったことがあるわ、覚えてないかしら!?」
「申し訳ありませんが……」
本当に覚えていなかった。元々忌野家と白藤家は繋がりがあるので、白藤の家に忌野家の当主一家が来ていても特に不思議ではないが、それでも雪姫子に雫と会った記憶はなかった。
「そうね、あなたとってもちっちゃかったもの。でもそれでもお母さまに日舞を教わっていて、一生懸命お稽古してた。かわいくって、女の子も欲しいなあと思ったものよ。……綺麗になったわねえ、お母さまそっくりになって」
「──あの」
思っても見なかった展開に、雪姫子は困惑した。どう返せばいいのかわからない。
「あのとき、お姫さまみたいねえって伐に言って、あの子真っ赤になっちゃって」
「あの」
「でも今の方が、すっかり……なんていうのかしら、お淑やかで、武家のお姫さまそのものね」
「とんでもないことです」
雪姫子は、首を振った。
「私は忌野家の下忍です。お姫さまなどと、冗談でも畏れ多いことです」
「──は?」
雫は、再度目を丸くした。
「今、なんて言ったの?」
「私は、忌野家に仕える下忍です。そのように育てられました」
「……まさか!」
少しひっくり返ったような声は、彼女が心底驚いていることをよく表している。
「あなた、何言ってるの? 逆でしょう」
「……逆?」
「そうよ」
雫は、無表情ながらも困惑する雪姫子をまっすぐに見つめて、言った。
「忌野家は、戦国時代から続く忍者の家系よ」
「……存じております」
「そして白藤家は、忌野家がその頃から仕えてた武家。今は普通の地主さんだけど……」
「……は……?」
言われた意味が分からず、雪姫子は初めて眉を寄せた。
「──何を仰っているのか、」
「本当に知らないの? お父さまとお母さまは、何も?」
「……両親は、亡くなりました」
なんだろう、ぼんやりする、と雪姫子は思いながら答えた。
「私が──六つくらいの時に──強盗、に」
「まあ……!」
「私だけが、生き残っ、て、」
「ごめんなさい、知らなかったわ。いいのよ、言わなくて。……なんてこと」
雫は口元を手で覆い、神妙に言う。しかし雪姫子は突如襲ってきた目眩のようなぼんやりした感覚に支配されていて、彼女の様子にまで気が回らなくなっていた。
「それで、あなたその後どうして……?」
「……霧幻様、が」
──生かしておいてやる
「──ッ!?」
ギィン、と突如激しい頭痛が襲い、雪姫子は顔を顰めてよろけた。いつも夢に出てくるその声は、ぞっとするほど重い。顔に近づけられた大きな手の向こうから聞こえるその声。
「……あなた、術を受けてるわね?」
「え……?」
「術を受けているんでしょう! 忌野の洗脳術を、」
「──違います!」
雪姫子は叫んだ。
「違います……! 私は、自分の意思で雹様に」
「雹君?」
「あ、」
主の名前を呼んでしまった無礼に青ざめつつ、雪姫子は動揺を収めようと努力した。凍らせなくては、全て凍らせてしまわなければ、早く、と。
「……私は、洗脳など受けておりません」
「──でも!」
「私は、私の意思であの方に仕えているのです。それが私の、」
「それなら尚更よ!」
雫が、座っていたベッドから立ち上がった。自分より小柄な雫に、雪姫子は何故か気圧されて一歩後ずさる。
「こんなことをして、とんでもないことよ! 正気で側にいるのなら、殴ってでも雹君を正してあげなさい!」
「…………そんな、こと」
出来るはずもない、と雪姫子は頭痛を抑えながら心の中で反論する。
「……私は、あの方の望みのままに動く、その為だけに、」
──生かしておいてやる
「生かされて、いるのです」
だから、あのひとのために死なねばならない。
「……雪姫子ちゃん、あなた」
「違います」
違います、と雪姫子はもう一度言い、体勢を整えた。全ては凍り付き、もう何も揺らぎはしない。砕けるならいいが、溶けることは許されない。色んなものを閉じ込めたこの氷が溶けてしまったら、とんでもないことになる。
「学園長……御前様は」
静かな声で、雪姫子は言った。
「いつも、貴女と伐様を案じておいででした。私の身寄りがなくなった時も、面倒を見ようと仰ってくれた優しい方です」
「……あの人が」
「優しい方です。……あの方を、どうか悪く仰らないで下さい、奥方様」
「……やめてちょうだい。頭を上げて」
深く頭を下げた雪姫子に、雫は困ったように言った。
「わかった。わかったわ、あの人は今回何もしてない、これでいい?」
「はい。忌野家の奥方様に向かって出過ぎたことを申し上げまして、申し訳ございません」
「またそんな……」
あくまで使用人として振る舞う雪姫子に、雫は困惑する。本来なら、こちらが使用人であちらがお姫さまなはずでさえあるのに、と。
「……私、やることがございますので失礼いたします。ここは私の部屋ですので、あるものはご自由にお使いください」
「──待って!」
「それでは」
雪姫子は部屋を出て、本来はオートロックのドアについている番号キーを操作し、中から明けられないように鍵を閉めた。
「……洗脳されてなど」
雪姫子は、ぎゅっと拳を握った。
確かに自分は生かされている。しかし、だからこそ。
「──あの人のために、死にたい」
その後、各地から、真相を確かめようと様々な人間が動き出した。その中には雫の息子である伐、恭介までもが混じっていた。
──恭介は、雹を裏切った。
雪姫子は、唇を噛み締める。ならば本当にあの人のために動いているのは、自分だけだと。
他にも拉致した人間の関係者である五輪高校、外道高校、さらにアメリカのブロムウェル家経由でパシフィックハイスクールが動いた。情報が交錯していたせいかいくらかの潰しあいが行なわれたのは雪姫子にとって好都合だったが、彼らは闘うことで真実に肉薄していく。
そしてついに、彼らはジャスティス学園に現れた。
洗脳した生徒、そしてさらには達人の域である島津と水無月をも倒し、彼らはどんどん中に分け入って来る。
雪姫子は、己の凍結を深くした。もっともっと、骨まで凍るようにと。堅く堅く凍らせておけば、砕ける時も一瞬に違いない。
奥和田の洗脳装置は優秀だったが、ごく強い衝撃を与え、一度気絶すると洗脳が緩むことがある。何度も攻撃を受けて倒れ臥す教師二人の目の赤い光が薄れかかっているのを確認した雪姫子は、大きく息を吸い込み、時計台のてっぺんから飛び降りた。
「──ヒュウ! Japanese geisha girl ?」
「ロイ〜?」
音もなく降り立った雪姫子に口笛を吹いたロイをティファニーが睨み、ボーマンが呆れたようにため息をつく。伐たちと闘ったあとジャスティス学園の生徒たちを主に倒した彼らは、既に疲れと負傷で地面にへばっている。大人数を彼らにやられたのは痛いが、そのおかげで既に戦力外と判断した雪姫子は、ロイたちから視線を外した。
「これはまた、さっきの保険医のお姉さんに続いてセクシーな……」
サッカーのユニフォームを着た、深く被ったサンバイザーのせいで目元があまり見えない青年が言う。
「夏とはえらい差だな」
「アンタもついでに畳んであげようか、将馬」
五輪高校の生徒だ。しかしこちらもジャスティス学園の生徒と、教諭二人との戦闘のせいで酷く疲弊している。
「──ゆきちゃん」
「え、ナニ恭介、あのヒト知り合い?」
雪姫子を見て呟いた恭介に、ひなたが振り返る。
「……幼なじみだよ」
「畏れ多くございますよ、恭介様」
雪姫子は、日舞の舞い初めのような構えをとった、緩やかに広げた腕、指の先から伸びるワイヤーに気付いているのは、何人ばかりだろうか。
「私は、忌野家に仕える忠実な下忍です」
「オイ、あいつも洗脳されてんのか」
額に傷のある、青い学ランの少年が苛々したように言う。雪姫子は彼を見た。
「一文字伐様でございますね」
「あァ!?」
「お母君は、丁重にお預かりしております。ご安心を」
「──てめェ!」
伐の顔色が変わった。しかし雪姫子は、どんどん下がる氷点下の気を膨らませた。もっともっと、凍り付くまで。ひたすらにそう思いながら。
「うちのお袋に何して、」
「何もしておりません。私が責任を持って自室でお預かりしておりますので、体調は良好かと思われます」
「伐、それは本当だと思う。ゆきがああ言ってるなら」
「マジかよ!? あいつ洗脳されてんだろ!?」
ビシッ、と、空気がさらに凍った。ロイたちと将馬たちが、ぶるっと身を震わせる。立地的には山奥と行っていいジャスティス学園で霧が出てくるのはいつものことだが、いま、それが余計に冷たい気がするのは気のせいか。
「私は洗脳などされておりません。私は私の意思でここに居るのです」
「……洗脳されてる奴は皆そう言うんだっつの」
カシャン、と小さな音がした。刃物の音、と雪姫子が思ったのと同時に、紫色のハデな人影が鋭い動きで突進してきた。
「──こっちだッ!」
「……お相手いたします」
ナイフを持って突っ込んできたエッジに、雪姫子は微動だにしない。
「なっ……んじゃこりゃあ!?」
張られたワイヤーに絡め取られたエッジは声を上げた。彼が持つナイフは、彼女が膝を曲げて振り上げた、大きめの編み目のタイツを纏った脚に当たって止まっている。
「刃物を通さない繊維で作ったものでして。なかなかいいナイフですが、当たらなければ意味がありませんよ」
「くそったれ……!」
「──エッジ!」
誰かが叫ぶが、もがくエッジはワイヤーから抜け出せない。ヒュウ、と冷気が舞い、雪姫子はそのまま脚でエッジが持つナイフを蹴り飛ばしてからふわりと腕を交差し、胸と顔を隠すようにした。
「……さあ……!」
「──っだあああああああッ!?」
──ドドドドドドド!
雪姫子が袖からするりと抜き出した無数の苦無のラッシュに、エッジが悲鳴を上げる。
しかし雪姫子の苦無は、外道高校名物の不良ファッションであるボンタンや短ランの余り部分を器用に狙い、エッジは校舎の高い壁に昆虫標本よろしく縫い付けられてしまった。
「スピードが鈍くなっておいでです。疲れてらっしゃるようですので、そこでゆっくりご見物ください、山田栄二様」
「こっ、こンのクソ女……!」
まんまとやられたのと本名を呼ばれたことで、エッジの形相は凄まじいものとなった。しかし長い戦いで疲れ切っているのも確かで、彼は身動きが取れないまま壁に貼付けられている。
「やるのう、……だがそんな細っこい身体で──!?」
「岩!」
大きな手で雪姫子を捕まえようとした岩だったが、フっと消えた彼女の姿に目を丸くする。そして次の瞬間、背後に感じた、冷気にも似た気配にぞっとした。
「──はッ!」
「ぐお!?」
背後から両耳を思い切り打たれ、岩の身体がぐらりと傾いだ。さすがの巨体も、鼓膜を破らんかという刺激で脳を揺らされてはたまらない。天狗倒しというこの技は、くのいちが男に襲われた時に実際に使っていた技でもある。
「濡れ刃振り袖……」
倒れる岩の後ろで、雪姫子がふわりと腕を交差し、胸と顔を隠すようにした。手元で濡れたように光ったのは、またも苦無。
「岩──ッ!」
「一差し、舞いまする」
瞬間、鋭い腕の振りとともに雪姫子が回転する。瞬間、両手の指の間に挟んだ三本ずつの苦無が、爪で咲いたようにして二撃に渡って岩の背中を斬りつけた。鼓膜と脳にかなりの衝撃が加えられた上背中に斬撃を受けた岩は、ぐるんと白目を剥いて盛大に倒れ臥す。
「お役目でございますから……ご勘弁を」
「……貴様ァ──ッ!」
物凄い踏み込みで襲ってきたのは、ライダースーツを着込み、スカルペイントのフルフェイスを被った小柄な人物だ。
「──風間醍醐様の妹、風間アキラ様でございますね」
「ッ!? 兄貴を、」
「一番手こずりました。さすがにあの方の妹だけあってお強いですね」
「うるさいッ! ……覚悟!」
アキラの蹴りが飛ぶ。雪姫子は完全に避けたが、鋭い蹴りは物理的な距離だけでなく、風圧を纏って雪姫子の簪の玉飾りを砕いた。思った以上のアキラの実力に、すう、とさらに雪姫子の周囲の温度が下がる。アキラがぞくりと身を震わせたその時、雪姫子は既にアキラの背後に回り込んでいた。
「首吊り太夫……」
「──がッ……!」
首にワイヤーをかけられたアキラは、校舎の一部を支点にして一瞬にして吊り上げられた。空中で暴れるアキラに背を向けてしゃがみ込む雪姫子は、手元からまっすぐに伸びる一本のワイヤーに、もう片方の指をゆっくりと這わす。
「……おし、まい」
「ア、キラ──ッ!」
ピィン、と雪姫子がワイヤーを弾いたのと、苦無に縫い付けられた腕を一本何とか抜き、エッジが投げたナイフがワイヤーを斬ったのは、ちょうど同じ瞬間であったと思われた。
首を吊り下げられた上中高くから落ちたアキラは、小さく呻いて地面に倒れている。命に別状はないだろうが、闘うのはもう無理だろう。
「ちょっ……! ゲド高三人を一人で相手して無傷って……!」
あまりの雪姫子の凄まじさに、ひなたが青くなる。
「かなりやるな、あの女」
「伐、ひなた」
ゆっくりと近付いてくる雪姫子にファイティングポーズをとる二人に、恭介が静かに言った。
「ここは僕が引き受ける。二人は先に行け」
まっすぐに雪姫子を見据えて言う恭介に、二人は目を丸くした。
「はー!? 大丈夫なの恭介、あの人ムチャクチャ強いよ!?」
「ちょっ、お前勝てんのかよ!?」
もしや秘策でもあるのかと詰め寄る二人に、恭介はフっと笑んだ。
「……子供の頃の稽古では、三十五戦八勝二十六敗一引き分け」
「いやそれ全然ダメじゃねーか!」
伐が思い切り突っ込むが、恭介は二人に微笑を向けた。
「確かに微妙なところだが……。大丈夫だ。信じてくれ」
「……わかった」
伐は神妙な顔で頷き、ひなたもそれに続く。
「通すとお思いですか」
そう言って立ちはだかる雪姫子に、三人が構える。雪姫子もまた再び舞のような構えを取り、静かに目蓋を半分伏せた。
「忌野家の方に刃を向けるのは気が引けますが……あの方の命ですので」
「あの方って、兄さんだろう」
恭介が言う。雪姫子は無言だった。
「名前も呼べないのかい、君は。どれだけ卑屈なんだ」
「私は下忍です」
「そう刷り込まれているだけだ」
「違います。私は自分の意思でここにいるのです。あの方のために動くことこそ」
「──それが間違っていてもか!」
悲痛な叫びだった。雪姫子は無表情に恭介を見返している。
「僕は間違っていた。兄さんを正すことこそが本当の兄弟のあり方だ。僕は兄さんを止める」
「ご勝手に。私はそれを阻むだけです、あの方の望み通りに」
霧が濃くなった。すう、と再び周囲の温度が下がり、霧が氷結して雪になり始める。ダイヤモンドダストのようなきらきらした氷の粒が舞い、美しくも冷たく凍える光景を造り出す。
「私はあの方のために生き、戦い」
ヒュウ、と雪が舞った。
「──そして、死ぬ」
「……伐! ひなた! 走れ──ッ!」
小さな錘のついたワイヤーが吹雪のように襲い掛かる中、恭介が叫ぶ。
「はァアアア──ッ!」
ワイヤー全てを引き受け、一気に空中に投げられた恭介の両脇からダッシュした二人は、雪姫子の脇をすり抜けて、校舎に走った。