第四話
それから先は、あっという間だった。
奥和田の装置によって教師陣と全校生徒が洗脳され、夏休みが終わる前には既にジャスティス学園は雹の私設軍隊と化した。そしてそれは各地から優秀な人間を拉致して洗脳するという行為にも発展し、──それは、雪姫子が主に行なった。
そして夏休みが明け、各地で学問・運動などで優秀な成績を収めている者たちが次々に姿を消している、ということが事件になる頃、雪姫子は再びあの河川敷で、恭介と会っていた。
「……いつになったら終わるんだ!」
恭介の声は悲痛で、震えてさえいた。
「終わる?何がです、恭介様」
「白々しい……! こんなことは犯罪だ!」
「今さらそれを仰いますか。お声が大きゅうございますよ」
雪姫子はすっかり凍り果てた表情で、片手で自分の顔を覆って呻く恭介を見遣る。
誘拐、暴行、洗脳。雹のための全ての行為には、こうして己の全てを凍らせてしまうことが一番楽な道だった。しかし恭介はそうは出来ないらしい。
「うんざりだ、僕はもう」
「おやめになると? ……あの方を裏切るおつもりなら、私にも考えがございますよ」
「裏切る、など……!」
ぎり、と、恭介は歯を鳴らして雪姫子を睨んだ。しかしその表情は泣きそうで、さっぱり迫力はない。
「君は、平気なのか。こんなことをして」
「……私は、忌野家の忠実な下忍でございます。だからこそ私は」
雪姫子は、夏が終わった空を見た。あとは凍えてゆくだけの世界。
「……私は、忌野家に生かされているのです」
「まだそんな事を言っているのか!?」
恭介も、雪姫子の両親が強盗に殺されたこと、またその後の雪姫子を自分の父親が引き取って育てたことを知っている。それだけなら恭介も彼女が忌野に深い恩を感じるのも理解できるが、幼い自分から見ても、霧幻の雪姫子に対する対応は異常だった。幼い少女に虐待とも言える訓練を課して忍術の全てを習得させ、泣くことを許さず、同い年の自分たちに頭を下げさせ、徹底した上下関係を叩き込んだ。それは霧幻を恨みこそすれ、こうして彼が亡くなっても恩義を返し続ける理由にはならないはずだ。
──ということは、と、恭介は唇を噛んだ。
「……もういい。君に何を言っても無駄のようだ」
操られている者に、何を言おうと無駄なこと。
恭介は、既に何人もの人間が洗脳され、信じられないほど人格が豹変するのをいやというほど目にしてきた。雪姫子がいつから兄に洗脳されているのかはわからないが、こんなものがあの「ゆきちゃん」なはずはない、と、恭介は顔を顰めた。
「私がなんと思われようと結構です。全てはあの方のため」
「……滑稽だ。馬鹿馬鹿しい、狂気の沙汰だ」
「なんとでも。次はこの方です」
着物の合わせ目から取り出された紙を受け取り、そして開いたとき、恭介は目を見開いた。
「──これは!」
「指定の場所に。傷つけるなとのお達しです」
「なぜ……!」
一文字雫、面識は殆ど無いが自分の叔母に当たるその女性の情報が書かれたその紙を、恭介は握りつぶした。
「念のため、だそうです」
「何がだ!? この人は忌野とは何も、」
「下忍の私ごときに、あの方の心の内など存じ上げる術もございません」
「……く……!」
恭介は思わず拳を振りかざしたが、和服姿の雪姫子は相変わらず傘を持ったまま微動だにしない。まっすぐに自分を見る真っ黒な目にぞっとしつつ、恭介は拳を下ろして俯いた。
一文字雫という女性は、雷蔵の奥方である。二人の間には伐という息子が居るが、彼が幼い頃、ジャスティス学園の創立で家庭を顧みなくなった雷蔵に愛想を尽かしたのかなんなのか、雫は伐を連れて別居の体勢をとった。以来会っていないらしいので、伐は父親と会ったことは無いだろう。
しかし雷蔵は、二人を誰よりも大切にしている。だからこそ、雹直々に洗脳をかけたにもかかわらず、常に監視していなければいけない雷蔵へのいざという時の脅しとして、雹は雫の身柄を確保して来いと命じた。そしてそれは、雫が勤務している太陽学園、そこに通う恭介にやらせるのが一番効率が良い、ということだった。そう効率、ただその一点が理由である。
「貴方がやらなければ私がやるだけです、恭介様。少々効率は落ちますが」
「……………………」
恭介は俯くと、踵を返して去っていった。
既にシステムは書き換えられており、以前のように忍び込んで帰る必要はなかった。和服姿に傘をさした雪姫子を、ジャスティス学園の大きな正門は堂々と迎え入れた。
一人として正気な者など居ない建物の中を、雪姫子は歩く。
全ての人間は装置あるいは雹の手によって洗脳されている。そうでないのは、雹自身と雪姫子だけだ。……しかし雪姫子は、自分が既に正気ではないことを自覚している。狂気の沙汰、恭介の言うその通りだ。洗脳されていないのにこんな風な自分がもっともそうだとも思う。しかし自分は、そうするしか道がない。雪姫子はそう思っていた。
「会長。只今帰りました」
「入れ」
尊大で冷たく、威圧的な、そして滑らかなその声が、雪姫子を骨まで凍らせる。しかし同時に安心もした。雹が居るからこそ自分はここに存在するのだ。
「恭介様に渡して参りました。……少々ごねておいででしたが」
「そうか」
雹は、どこかぼんやりした風だった。最近、雹はこういう風にしていることが多い。しかし考え事をしている時、雹はこんな風になる。こんな大きなことをやっているのだから会話の途中で考え事にも耽るだろうと、雪姫子は彼の意識が戻ってくるのを黙って待った。
「あれは、私を恨んでいるだろうか」
「まさか」
雪姫子は答えた。
「恭介様は、貴方様の双子の弟君でいらっしゃるのですよ」
「そうだ、弟だ」
雹が座る椅子が、僅かに軋んだ音を立てた。
「──弟、だからこそ、……私を」
雹は俯いた。それは双子だけあってか、恭介の表情と酷くよく似ていた。
「白藤」
「はい」
「お前は私を裏切るか?」
「とんでもないことです。あり得ません」
「本当に?」
雹は、雪姫子を見た。自嘲気味に笑うその表情を雪姫子は理解できず、そして理解しようと努力した瞬間、雪姫子の喉元に白刃が光った。
「本当に、私のために死ねるか」
「死ねます」
今までのどの時よりも、雪姫子は微動だにしなかった。凍り果てた身体は、微塵も動くことはない。解けることなく、それは既に砕ける他はないほどに凍っている。
「はははは」
雹は、白刃を喉元に突きつけられても微動だにせず自分を見ている雪姫子を見て、笑った。
「私のために死ねると。……滑稽だ、狂気の沙汰だ」
「そんな、」
──ダン!
思い切り胸ぐらを掴まれたと思いきや、雪姫子は生徒会長室の大きな机に背中を押し付けられた。制服を掴まれた拍子に、紋章の入った金ボタンが二つほど弾け飛ぶ。腰に机の角が当たって痛かったが、雪姫子はそれを顔に出さずにただ耐える。……そう、雹は時々こうして自分を試すのだ。だから耐えなくてはならない、と。
「では死ぬか、今」
雹は、雪姫子の白く滑らかの頬の横に、日本刀の刃を沿わせた。
「……貴方が、そう望むのであれば」
雪姫子は、雹の目を見返した。夜闇を透かした氷のような目の色は、吸い込まれそうなほど深い。ああこれなら割と苦もなく死ねそうだ、と雪姫子はそのとき本気で思った。彫刻の施された綺麗なアンティークの机の上で、雹に殺される。悪くないのではなかろうか、と。
「私が望めば? お前は私が望めば何でもするのか」
「はい」
「ふ」
至近距離で、雹は嘲るように笑った。今死ぬのも悪くないと本気で思っている雪姫子にとっては、雹がこんなに息がかかるほど間近で笑うことが幸せ意外の何者でもなかった。タイトスカートから伸びる網のストッキングを履いた雪姫子の脚に、磨き上げられた雹のブーツが触れた。それに胸を高鳴らせる自分のはしたなさに軽蔑の唾を吐きながら、死んでもいい、と雪姫子はもう一度思う。
「雪姫子」
久しく呼ばれていなかったその呼び名に、雪姫子は初めて心臓を大きく跳ねさせた。
しかしそれを知ってか知らずか、雹は日本刀を持っていない方の手で、雪姫子の頬をゆっくりと撫でる。片頬には冷たい白刃、片や反対には白い手袋を嵌めた手が、生まれて初めて雪姫子の頬を撫でている。
冗談かと思うほどの状況に、雪姫子は泣きたくなった。何故泣きたくなったのかはわからない。しかし、雪姫子はただ、雹の望み通りにすべく凍ったままで居ることに勤めた。
「雪姫子、外せ」
そう言って、雹は白い手袋を嵌めた指先を、雪姫子の口元に持って行った。
雪姫子はぼんやりとしながら、ゆっくりと口を開け、ほんの僅かに余った指先の布地を噛んで引っ張る。そして中にある雹の指を間違っても噛まないように注意を払いながら、布地を唇で挟んで引く。雹の手にぴったりに作られた手袋は脱げにくかったが、それでもなんとか雪姫子は言われた通りに彼の手袋を脱がせた。命じられた通りに出来た、と、場違いな達成感と歓びが、雪姫子の中に広がる。
「雪姫子」
呼ばれながら、素手で頬を撫でられた。氷が砕けそうになるほどの衝撃が、雪姫子の中を走る。まるでヒビが入ったように。
忌野流体術のすべてにおいて免許皆伝を持ち、特に剣術では達人の域に入る雹の手は、優雅な白い手袋とは裏腹に、鍛錬によって出来たマメが潰れては堅くなりを繰り返した挙げ句の無骨な姿をしていた。指は長いが関節はしっかりと太く、拳を握り続けてきた手のひらは厚い。
しかし雪姫子は、その手こそが彼が持って生まれた才能に甘えず、毎日血の滲むような稽古を続けたことの証であることをずっと側で見て知っていた。初めて触れたその手がいとおしくてならず、雪姫子は再び泣きそうになった。
──ああ、そうか。
泣きそうなのは、いとおしいからか、と、雪姫子は気付き、そしてまた、それこそを一番凍り付かせておかなくては、と再度努力した。
幼い頃からずっと変わらない想いは、最初は淡いものだった。しかし時が経つに連れてどんどん熱くなるそれは、凍り付かせるにも一苦労で、雪姫子は表情を封印した。おかげで「雪女」とも呼ばれるが、雪姫子にとってはそれは安心出来る呼び名でもあった。
……きちんと、できている。身の程知らずな思いは凍り付いて、誰にも知られることはない。あってはならない。
「雪姫子。お前は泣かなくなったな」
そう言って、雹はあの日のように雪姫子の頭を撫でた。覚えているのだろうか、という衝撃が雪姫子に走る。このままだと砕けてしまいそう、とも思う。だがそれでもいい。このまま死のうと壊れようと、雪姫子は幸せで居られる気がした。雪の中で死ぬように、眠るのと同じくらい安らかに、今なら死ねる。
「お前が泣くのを、もう一度見たい」
そう言って、雹は雪姫子に更にのしかかった。さすがに雪姫子も驚いたが、顔に出してはならない、とひたすら努力する。
「ずっと思っていた。お前がどうすればまた泣くだろうかと」
「……私は」
「だがお前は打とうと斬りつけようと、眉ひとつ動かさない」
クッ、と雹は笑い、雪姫子の、ボタンが飛んで開いた派手な色のジャケットの中のネクタイに、何も纏っていない指を差し込んだ。カッターシャツと同色のダークカラーのネクタイが解け、また一番上のボタンが外れる。襟元を引っぱられて反り、僅かに露になった白い首に、雹は顔を埋めた。
「お前はどうすれば泣くのだろうか」
泣けるものなら思い切り泣きたい、と雪姫子は思った。ボタンがひとつ外された隙間から入り込んで来る雹の息は熱く、雪姫子の氷を溶かしてしまいそうだ。しかし、溶けては──泣いてはいけない。
「私は」
首に当たる温かな感触と、ストッキングを吊った細いベルトを指が徒に引っぱるのを感じながら、雪姫子は華麗な模様の天井を見上げて、言った。
「私は貴方に生かされています」
泣いてはならない。全てが溶けてしまうから。
「だから、貴方のために死ねるのです」
「──は!」
大きな声で、雹は笑った。同時に雪姫子の首元から顔を上げると、何かを軽蔑するような、しかしどこか苦しげな笑いを浮かべた雹が居た。
「お前は狂っている。狂気の沙汰だ、──馬鹿馬鹿しい!」
雹はそう言って、あっという間に雪姫子から離れた。雹が居た場所にすうと入り込む空気の冷たさに、雪姫子は彼がいかに暖かかったかを知った。
「出て行け」
「……あ、」
「出て行け。呼ぶまで姿を見せるな」
大きな背中は遠く、そして手を伸ばすことは雪姫子には許されていなかった。
「──出て行け!」
激流のような怒鳴り声に、雪姫子は開けた胸元をぎゅっと握り締めると、逃げるように部屋を出た。重厚な扉が、音を立てて閉まる。
ボタンがはずれた襟はきちんと首を覆わず、滑り込んでくる空気が冷たく感じられた。雹の吐息がいかに熱かったか、雪姫子は鮮烈に思い出す。その途端、涙が溢れた。
寒い、と思った。凍えそうに寒い。
しかし、涙は止まらなかった。己の涙の熱さが恨めしく、このまま死にたいと願う。死んでしまえと自分を罵る。
凍える身体と裏腹に、涙は全てが溶けてしまったかのように熱かった。