第三話
「──白藤」
 雹は、雪姫子を「白藤」と名字で呼ぶ。霧幻が死んだあの日から、彼は雪姫子をずっとそう呼んできた。その前には、──どうだったか。彼はそもそもあの頃、滅多に雪姫子の名前を呼ぶことはなかった。だが一度だけ──不思議な名前で呼ばれたことがある。
 あれは、何だったのだろう。
 しかし自分から雹に話かけることを小さな頃からずっと禁じられている雪姫子がそのことを聞けるわけもなく、そのことは、あの日頭を撫でてもらったこと以上に雪姫子だけの秘密だった。
「はい」
「来い」
 雹は紙を机の中にしまってそう言うと、立ち上がって雪姫子に背を向けた。もともと身長が百八十センチを超えているのに、SAクラスの厳めしい軍服を着込んでブーツを履き、長い髪を高く結い上げた雹はひどく大きく見える。雪姫子とて百六十センチ以上身長があるが、立ち上がった雹と話をするには、離れるか見上げるかしないと目線があわない。
 雪姫子は、部屋を出る雹の斜め後ろについて彼に着いていった。三歩下がって、という表現そのもののこの位置は雪姫子の定位置であり、また忌野家下忍としての立場をよく現した位置でもあった。
 廊下を歩くと、他の生徒とすれ違う。学年が意味を為さず、また軍隊的なやり方を大いに取り入れたジャスティス学園では、クラスの高さイコール上下関係、である。だからジャスティス学園の頂点に立つ雹は、一年生でありながら全ての者が道を開ける存在だ。SAの制服を着て堂々と廊下を歩く雹の姿はまさに支配者そのもので、また後ろに着いて歩く雪姫子の存在が、それに拍車をかけていた。
 入学早々生徒会長になったその実績と有無を言わさぬカリスマを兼ね備えた雹であるが、常にその彼の三歩後ろに控える雪姫子もまた、彼に次ぐ二位か三位の成績なこともあり、誰もが知っている存在だった。
 ジャスティス学園と言えど、一応十代の高校生がすし詰めにされている場所である。常に一緒に居ることからもしや恋人同士かと思われた時期もあった雹と雪姫子だったが、この斜め後ろ三歩を決して越えない距離感がはっきりとそれを否定しており、彼らのやり取りもまた上司と部下、いや主人と従者そのもののそれだったため、怪しまれつつもその噂は消えた。
 そして雹の傍らでほぼ無表情で淡々と仕事や勉強をこなす雪姫子は、その名前からとって、「雪女」と揶揄されている。別に悪口でそう呼ばれているわけではないのだが、傍目から見て、派手な顔ではないがまさに和風美人という容姿の雪姫子には、誰もがぴったりだと口を揃えるあだ名だった。

「入れ」
 そこは科学棟の角部屋で、同じくSAクラスの生徒のひとりの部屋でもあった。生徒会長である雹が生徒会室と続き部屋の部屋を資質として貰っているのと同じく、科学分野に置いて突出した才能と成績を持つ彼もまた、大きな研究室を兼ねた部屋を貰っている。
「奥和田。いるか」
「入ってきてから聞くかな、普通。というか今、白藤さんに“入れ”って言ったよね」
「今更だろう」
 イワン=奥和田、というのが、この部屋の持ち主である彼の名前である。
 母親がロシア人であるらしいが、容姿的にはその特徴はあまり、というより、逆に珍しいほど全く見受けられない。髪も目も黒く、身長はやっと百七十センチに届こうかという程度で、義務である最低限の体育の授業で得られる以上の体格はしていない。身なりに気を使わない彼はSAクラスの厳めしい征服が好みではないらしく、色々な飾りを全て取り払った上にボタンすらきちんと止めていない略装の上から白衣を羽織ってそれを誤摩化している、というのが常の姿だった。
 科学に没頭するあまり他の一般教科がおろそかになる彼は、総合判定となるとどうしても雹に劣る。しかし学年関係無しの成績順で決まるジャスティス学園生徒会で副会長を勤めている、と言えば彼の優秀さは分かるだろう。もっとも彼は前述した通りの科学に生きる男なので、副会長と言っても名ばかりなのであるが。
 そして二年生で年齢的に雹たちよりひとつ年上な奥和田は、雹たちが来るまでジャスティス学園主席で、生徒会長でもあった。
 しかし科学以外は全てカテゴリ“その他”の性格の彼は一年間その役目を頑に拒否していて、雹が入学してきて主席を取って生徒会長になった時は、悔しがるどころかむしろ喜んでいた。そして、雹と言えど奥和田に科学という学問で適うことはまずない。
 ちなみに雪姫子は彼から大きく離されて、いつも三位か四位の成績を収めている。
「こんにちは、奥和田さん」
「こんにちは白藤さん。装置はもう出来てるよ、早速見てくれ」
「──えっ」
 雪姫子が驚いた声を上げると、奥和田はぽかんと口を開けた。
「何、聞いてないの? 相変わらずだね忌野は、白藤さんに対してはいつもこんな風だ。それとも何か、言わなくともわかるという所謂以心伝心もしくはテレパシーと呼ばれる非科学的要素を信じての行為かい。それとも亭主関白主義がなせる技か。気をつけないと君いつかフェミニスト団体から起訴されるよ。あるところにはテロを行なうほどの過激なフェミニスト団体も存在するんだからね、知ってたかい? 僕はこの前初めて知ったよ怖いねえ」
「いちいちうるさい」
 まくしたてる奥和田を無視して、雹は腰に下げる日本刀と同じく切れ味の良い、まさに一刀両断という言葉に相応しい声で言った。
「僕のアイデンティティだよ生徒会長。褒め言葉にしかならないね」
 しかし奥和田もまた、へこたれないどころか平然とそう返し、奥の部屋の扉を開けた。こういう風にあまり物怖じしない性格の彼は、ひとつ年上ということも多少あってか、雹にもあまり気圧される様子のない態度をとる数少ない人物でもある。
「さあ見てくれ。今の所僕の人生での最高傑作だ」
 ごちゃごちゃとケーブルが這うその装置は大きく、四つの椅子にそれらが全て繋がっていた。椅子には拘束具が付けられ、見た感じでは電気椅子に似ている気がする。
「これは」
 雪姫子は血の気が引いた。ついに完成してしまっていたのか、と。
 にぃ、と奥和田が、いたずらっ子の少年のように笑う。
 忌野家は、忍術を秘術とする特殊な家系である。その歴史は戦国時代以前からと古い。そして江戸時代に入って衰退し、表の世界へ武術の流派や学術分野の一派として溶け込んでいった他家と違い、忌野家は頑に裏社会で存在し続けてきた『忍者』の家系である。
 忌野家は人里離れた場所──ここジャスティス学園が建設されているこの場所も、本来は忌野家の敷地である──で、代々秘伝の体術と学術、平たく言えば洗練された暗殺術を教育し、人材を育て続けてきた。だが忌野家第三十五代頭領である雷蔵は、開明的な思想をもって、忌野家が培ってきた英才教育を近代社会に生かせる場所をと考えて、一族をなんとか説得し、このジャスティス学園を設立した。
 そして、そんな歴史を持つ忌野家の最も闇の部分にあるのが暗殺術であり、また当主にのみ一子相伝で受け継がれる忍術が、“洗脳術”であった。
 しかし忌野家を表社会に少しずつでも溶け込ませようとする雷蔵はその技を得ることを厭い、しかし秘伝の技を途絶えさせてはならぬと考えた一族は、雷蔵の兄である霧幻に、密かにその技を伝授させた。
 そして雹もまた、既に霧幻からその術を継承されている。
「私一人でやるには、時間がかかりすぎて効率が悪い」
 雹はそう言って、奥和田に自分の術を解析させ、機械によって同じ効果の得られる装置を開発させていた。既に何度かの人体実験を行なっているのは雪姫子も知っていたが、まだまだ完成には遠いと思っていた。
「洗脳装置だよ。マッド・サイエンティストの肩書きにはこの上なく相応しい作品だ」
 そう言って笑う奥和田の目は、僅かに赤い光が宿っている。洗脳術を受けた者特有の光であることを、雪姫子は知っていた。
「まず島津教諭、次に水無月教諭だ」
 それは、その二人をこの装置にまずかけるという意味、そして自分にそれをしろという意味だということを、雪姫子は察知した。奥和田はああ言ったが、主人の言うことを言われなくても理解するのもまた下忍の勤めなのである。
 しかし、雪姫子は密かにぎゅっと拳を握り、表情に何も出ないように努力した。
「それとも白藤、お前を先にするか?」
「え……」
 そう言われ、雪姫子はハっと顔を上げた。雹が、自分を見ている。
「お前は全てを知っている。最終試験がてら、お前を装置にかけようか」
「そんな」
 雪姫子は首を横に振った。雪姫子は忌野家あっての自分の命であると思っているし、雹あっての自分だと堅く思っている。そんな自分が、彼に逆らうことなどあるわけもない。
「私は」
「冗談だ」
 表情を固まらせて狼狽える雪姫子に、クッ、と雹は笑った。
「お前は裏切ったりしない」
 その言葉に、雪姫子は心から安堵した。洗脳などされていなくても、それが雹の意思ならば、雪姫子はどんなことでもやる。それが雪姫子の──奥和田の言葉を借りれば、唯一、そして最大のアイデンティティだった。
 雹は時々、こうして雪姫子を試すようなことをする。それはいきなり刀を突きつけられて動かないかどうかであったり、跪けと言って直ぐさまそうするかであったり、あるいは自分のために死ねるかと言ってはいと返すかであったりした。しかしその全ては雪姫子にとって当たり前のことであったので、ひやひやしつつも雪姫子はそれをクリアしてきた。
「そうだ、お前は既に──」
「……会長?」
「そうでなくば、ここに居るはずがない」
 独り言である。こういう時、雪姫子は口を挟んではいけないと教えられてきたので、そのまま口を噤んだ。下忍は主人の命じることだけを、望むことだけを忠実にしていれば良い。それが下忍の存在意義であり、またここに居るための条件でもあるのだから。
「兎も角も、時は満ちた」
 雹は、僅かに笑んだ。霧幻そっくりの、雪姫子の嫌いなあの笑みで。
「私は養父を。奴は装置ではやや心許ないからな」
 あとはお前達に任せる、と言い、雹は白いマントを翻して部屋を出た。
 ああ、身体に気をつけろと伝えるのを忘れた、と雪姫子は思い、表情を凍らせるために拳を再度握り締めた。
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BY 餡子郎
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