第二話
「む、白藤君ではないか。こんにちは」
「こんにちは、学園長。出張のお出迎えに参れず申し訳ございません」
「いやいや、学長が生徒の勉学の時間を削るなど本末転倒」
 気にするな、と、雷蔵はその異形ともいえる巨躯に似合わぬ朗らかな笑みで言った。
 雷蔵は三日前に、教育委員会が主催する定例会議に出掛けていた。今、日本全体で最も学力向上の成果を上げているジャスティス学園の創立者である彼は、今委員会で最も発言力のある人物でもある。
「生徒会室に行くのかね?」
「はい、今月の各クラスの成績報告を、忌野生徒会長に」
「そうか。ああ、白藤君……、いや、雪姫子君」
「なんでしょう」
 呼び名を言い換えたことで、私的な用事だと判断した雪姫子は、ほんの僅かだけ首を傾げた。
「雹は元気かな」
 雹は、雷蔵の養子である。忌野霧幻、つまり雷蔵の兄が亡くなってから、雹は雷蔵に引き取られる形で、彼の養子に入った。恭介は母方に引き取られたために“鑑”の姓を名乗っていて、そして彼らが再会したのも実はごく最近である。
「お元気でいらっしゃいますよ。体調は万全、成績は全科目満点もしくは九十五点以上をキープしていらっしゃいます。先日は行政学のレポートを◯◯大学の教授にお送りになりました」
「うん、まあ、それは知っているんだが」
 雷蔵は、ポリポリと頭を掻く。あの鋭い爪で頭など掻いて肌が切れないのだろうか、と雪姫子はどうでもいいことを少しだけ疑問に思った。
「いや、彼を養子にしたはいいが、どうにも何を話していいのかわからんでな。雹が私の兄にとてもよく似ているせいもあると思うのだが……」
 情けないが、と言って、雷蔵は雪姫子を見下ろした。
「……君は、小さい頃からずっと彼の側にいるからな。一番彼を理解しているのは君だと、私は思っている」
「……そんな」
 雪姫子は、少し表情を歪めた。
「確かに私は物心つく前から、あの方の……いえ忌野家に仕えさせて頂いておりますが」
「雪姫子君」
「私などが、あの方のお心の内を知ることなど……」
「雪姫子君、そんな寂しいことを言うものではない」
 少し大きな声で雷蔵は言い、雪姫子は彼を見上げた。雷蔵は、やや悲しそうな顔で雪姫子を見遣っている。
「仕えるなどと……時代錯誤も甚だしいことだ。君と雹、いや私たちは常に対等だ」
「とんでもございません」
 雪姫子は、雪の日のような、肌を刺す張りつめた空気を纏った。
「私は、忌野家に仕える忠実な下忍」
「そんなことはない。君は」
「いいえ」
 永久凍土のように頑とした声だった。
「忌野家あっての私でございます。私は霧幻様に引き取られ、こうして生かして頂きました」
 雪姫子には、両親が居ない。
 白藤家は地方の古い旧家だがとくに名家というわけでもなく、ただ先祖代々の広い土地を持っているので細々と暮らしていくには困らない、という普通の家だった。父親は歴史学者であり、母はだだっ広い家屋を無駄にするのもなんだし、と日舞の師匠をやっていた。雪姫子も母から日舞を習い、それは両親が亡くなった後もずっと続けていることのひとつである。
 雪姫子の両親は、殺された。
 闇夜に突然侵入して来た強盗は、大きな家なので金目のものがあると思ったのだろう。しかし財産は田舎の土地だけという白藤家に豪華な金品があるはずもなく、激昂した強盗は雪姫子の父と母を殺して去った。雪姫子だけが助かったのだ。
 
 ──生かしておいてやる

 今でも、雪姫子は毎晩のように夢に見る。涙でぐちゃぐちゃになった雪姫子の顔に大きな手を伸ばし、あの男はそう言った。生かしておいてやる、殺さないでおいてやる、と。
 そしてその後、縁のあった忌野家の霧幻に引き取られ、雪姫子は忌野家に仕える下忍として育てられた。
「そのように下忍という立場以上の恩を受けておりますこの身、忌野家に対しての忠誠に繋げたく存じております」
「────下忍、下忍というが」
 困ったような声で、雷蔵は呟いた。
「仕えるというなら、……白藤家は」
「……?」
「いや、いい。これこそ時代錯誤も甚だしいことだ。こうして黴臭い因習にばかり捕われているからいかんのだ、忌野は」
 ふう、と雷蔵はため息をついた。
「まあ、とにかくあまり話は出来ていないが、雹は兄の忘れ形見で、私の大事な息子だ。彼の出来が著しく良いとはいえ、無理をしては身体も壊そう。身体に気をつけるように、……まあ言っても聞かんだろうから、注意して見てやってくれ」
「……はい」
 忌野家の下忍、その自覚が何よりも強い雪姫子は、常に雹の側に生徒会書記という立場も持った上で黙って仕えており、その凛として厳しい立ち姿は学園の中で「雪女」とも異名を持つようになっている。
 しかし、雷蔵は知っている。こうして雹を気遣うような言葉を言うと、彼女の表情が少しだけ和らぐのを。それはまさに、春に雪が溶けるような暖かさを含んでいた。
「引き止めて申し訳なかった。雹は時間に煩かろう、行きなさい」
「はい。学園長もご自愛なさいますよう」
「ありがとう」
 さすが日舞の舞い手だけあって、雪姫子のお辞儀はとても美しい。見事に頭を下げてから去る雪姫子の柳のような後ろ姿を見送ってから、雷蔵はもう一度ため息をついた。
 最初、雷蔵は雪姫子も自分が引き取ろう、としたのである。しかし彼女の家、白藤家の由来を理由に本家から凄まじい反発があり、また本人もあの下忍がどうこうという理由で頑に拒否したため、それは結局叶わずにある。
 雪姫子はジャスティス学園を受験し、そしてこの学園そのものが行っている奨学金の試験に合格したばかりか、入学試験も主席である雹の次、つまり次席の成績で見事合格した。
 ジャスティス学園は、高等学校でありながら、学年というものがあまり意味を為していない。ジャスティス学園に置ける学年というものは、ただ卒業まであと何年か、というだけだ。卒業は一般と同じ三年目である。
 というのも、この学園は成績順にAからJまでのクラスに月ごとに分けられ、上にいくほど生徒数が少ないピラミッド型となるという制度を取っているが、それに学年は関係しない。だから入学してすぐの雹が入学時の主席成績で過去の全てのトップ成績を更新して生徒会長に納まることも、制度的には何ら不思議なことではない。
 そして雹と雪姫子はAからJまでのピラミッドの中には収まらない場合に配属される、SAクラスという特別クラスということになっている。SAクラスは数個の分野に置いては既に教師よりも造詣が深い実力を持つとされる者が入れられるクラスで、SAクラスの生徒は既にそれぞれの分野の論文を発表したり、研究を進めたりしている。
 ちなみに雹の専門は統治系、法学に始まり政治学、政策学や行政学、果ては軍事学である。経営学もかじっているらしい。彼の書いたレポートは既にこの学校の教師では手に負えないため、国内もしくは海外の大学教授に添削を依頼しているほどである。大学からは既に編入の誘いがかなり来ているが、彼はジャスティス学園を出る気はないようだった。留学資金くらい雷蔵はいくらでも出すつもりだったが、彼は何故か首を縦に振ることはない。
 そしてそういったことは、雪姫子にも言えた。
 彼女は突出したなにかが出来るというよりは、すべてにおいてある一定ラインを越える博識ということを評価されてSAクラスに配属されたのだが、語学に優れている他、日舞の才能においては名取りクラスの実力を持っている。
 だが、彼女は名取りどころかきまった師匠にすらついていない。ジャスティス学園に入る前は知り合いの日舞の師匠のもとに通っていたようだが、寮生になってしまった今はそれもない。
 聞けば確かに名取りまでの資格を取るには最低でも百万円近い資金がいるそうだが、子供の才能を伸ばすことを生き甲斐としている雷蔵にとって、縁もある雪姫子にそれくらいの出資をするのはどうともないことなのだったが、雪姫子はやはり下忍がどうこうという理由でそれを拒み、準師範、師範、名取りの試験を受けないまま今に至っている。
(じつに勿体ないことだ)
 雷蔵はため息をつきつつも、だがしかし、ひとつ企んでいることがある。
 見る限り、彼女は忌野、というよりも雹に仕えているというところが大きい。彼は次期忌野家当主でもあるのだから霧幻にずっとそう教え込まれていたこともあるのだろうが、あれはきっとそれだけではないだろう、と、雷蔵は密かに邪推を働かせているのだ。
 あのぶんだと対等な仲になるのは時間がかかりそうだが、学長である自分が言うのも何だがこの閉鎖された寮生活、しかも最も数の少ないSAクラス同士、さらに同じく生徒会役員ともなれば何かが発展するのは間違いなかろう、と彼は踏んでいた。
(そうなれば儂の娘ともなるわけだ)
 にやり、と雷蔵は笑った。
 いまは不本意にも離れて暮らしている息子然り雹然り、彼に居るのは息子ばかりだ。そもそも忌野家はかなりの男系で、一族が集まる場に置いても彼らの妻以外は殆どが男。そういうこともあり、雷蔵は娘というものにやや憧れている部分がある。
 それに養女にならないかと誘いをかけるために尋ねた時の雪姫子のもてなし方や、彼女が拵えたという料理の腕はかなりのものだった。まさに大和撫子、と雷蔵は大いに感心し、結局は断られてしまったのだが、余計に彼女を養女にしたいと思ったものである。
 不純異性交遊は頂けないが、健全なそれなら好ましいという考え方を持つ学園長は、極めて将来有望な養子のそういった方面での動きにも期待しつつ、校長室に向かって歩き出した。
 





「忌野生徒会長。白藤です」
 控えめに、しかししっかりとノックをしてからそう言うと、「入れ」と返事があった。
 滑らかな声だなあ、と思う。尊大で冷たく、威圧的ですらあるのに、それでも彼の声はとても滑らかだ。山の上流の清水のように美しく強く流れ、だが手を入れれば余りの冷たさに骨が凍るかのような痛みを受ける、彼の声、いや彼自身がそんな風だと雪姫子は常々思っている。
「失礼いたします。忌野学園長と廊下でご挨拶をさせて頂きました」
「先程帰っておいでだ」
「左様でございますか」
 赤い絨毯が敷き詰められた生徒会室は、マホガニーの調度品で構成された、なんともアンティークかつ重厚な空間である。ずっと和室で過ごして来た雪姫子はこの部屋に未だ慣れないが、軍服に近いデザインの派手な制服を着こなし、人が一人横たわれる位の広さのある会長席で大きな椅子に腰掛けて何かの資料を読んでいる雹は、この空間にこれ以上ないほど似合っていた。高く結った真っ白な長い髪が、椅子の肘掛けに沿って流れている。
 ちなみに生徒会長である生徒は、生徒会室に隣接した部屋を与えられて生活することになっている。だからこの部屋は、半分彼の私室でもあった。
「会長、今月の各クラスの成績報告です」
「君がやっておけ」
「しかし」
「構わん。君にはそれだけの能力がある」
 目を合わさぬままの言葉でも、嬉しい。
「光栄です。畏まりました」
 雪姫子が頭を下げると、雹が紙束から顔を上げた。色素が薄く髪も白い彼だが、目の色は黒っぽい灰色のような色をしていた。夜に降る、闇を透かした氷のような色。
「寄れ」
 その声に、雪姫子は逆らったことなど一度もない。
「こちらです」
 雪姫子は、畳んだ紙を机に置いた。恭介から受け取ったそれを、雹は白い手袋を嵌めた手で拾い上げる。そしてそれを読み上げると、僅かに笑んだ。その表情は、父親の霧幻とぞっとする程よく似ている。
 雪姫子は、この表情が嫌いだった。言ったことはないし、この感情そのものがけしからぬことだと自覚はしているが、それでも嫌いだった。
 そこにいるのが雹ではなく、霧幻であるような気がしてならないからだ。
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BY 餡子郎
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