第一話
そっくりな二人の少年が遊んでいるのを、少女は遠くから眺めていた。
気安く声をかける事は、彼らの父から禁じられていた。少女は彼らの為に生き、彼らの為に学び、彼らの為に存在を許されていたからだ。つまり上下関係ということなら、それは完全に少女のほうが下だった。
少女は飼われていて、生かされている。それを、少女は彼らの父から──忌野霧幻から、この家に来たときからずっと、最も重要な事として言われ続けていた。そして少女も、それが己の存在に関する常識なのだと当然に認識していた。
そして、少女はそれを特に嫌とも思っていない。
むしろ、彼らの為にどうにか少しでも役に立ちたい、と本心から強く思っていた。彼らは少女に優しかったし、時々遊びに誘ってくれる事さえあった。霧幻も、多分そこまで重箱の隅を突くような性格ではなかったのだろう、少女が息子たちに声をかける事には厳しく目を光らせたが、息子たちから少女に声をかける事については何も言わなかった。
ただし、そのあとの少女の態度には厳しかったが、彼女は所謂“身を弁える”ということについてはとても優秀であったので、少女は彼ら兄弟の前で霧幻から叱られた事は一度もなかった。
「ゆきちゃん」
弟の恭介は、少女の事をこう呼んだ。
兄弟は双子だったが、恭介のほうがよく笑い、照れる事があまりない性格だったので、女の子をちゃん付けで呼ぶ事にも特に抵抗がないようだった。
だが兄のほうは、あまり少女と目を合わせる事はなかった。活発でリーダーシップのある、頼れる気質を保つ兄だったが、なまじ頭がいいだけに、自分と同い年の女の子とどう接していいのか考えてしまうのだろう。彼は滅多に少女の名前を呼ばなかったし、遊びに誘ってくれるのはいつも弟の恭介のほうだった。
少女はとても辛抱強くて聞き分けが良かったが、彼女の受けていた稽古は十にも満たない子供には本当に、──死ぬほど厳しかった。だから少女は、ときどき裏庭でひとりで泣いた。
泣くのは許されていない事の一つだったが、ここには誰にも見つかるまいと、彼女は時々そこで、声を殺して泣いた。
しかし一度、それを兄弟に見られたことがあった。
痣だらけで踞る少女が慌てて振り向くと、恭介が目を丸くして驚いていて、だんだんおろおろし始めた。
少女はそれを見て余計に泣きたくなり、だが泣くのは言いつけに反する事なのでどうしたものかと半ばパニックに陥った。
そしてその時、少女の頭に手が乗せられた。
「──……」
「……っ?」
彼は不思議な呼び名で少女を呼び、その頭を一度撫でると、そのまま踵を返して去った。恭介がそれを追う。少女は、驚きのあまり涙が引っ込み、呆然とそれを見送った。
親が居らず、後見の霧幻はあんな風なので、少女の頭を撫でる人間など存在しない。だから彼女が頭を撫でられたことがあるのは、後にも先にもそれが一度きりの事だった。
彼は滅多に少女と目を合わさず、名前を呼ばず、遊びに誘ってくれるのはいつも弟の恭介のほうだった。だが彼女が泣いているのを見た時、微塵も狼狽えず、黙って頭を撫でてくれた。
それを彼女は、十年経った今でも、とてもよく覚えているのだった。
和服の女が、真夏の河川敷にすっと立っている。
萩柄の夏着物に紬か麻の帯。木綿の着物はどちらかと言えば地味でとくに上等でもなさそうだが、紺と白の渦巻きの和傘とあわせて、とても涼しげだった。
日よけの為の和傘を肩にさして佇むその姿は、まるで日舞かなにかの立ち方なのだろうかと思うほど隙がなかった。真夏の日差しが作る影は濃く、女の顔をはっきりと確認する事は出来ないが、黒く塗られた細い竹の傘の柄を持つ指は白かった。
そして、そんな女と対峙しているのは、この真夏日だというのに真っ白な学ランを着た、背の高い高校生だった。髪は明るい茶色だが、染めているわけではないらしい。神経質そうな鋭い印象を与える、シルバーフレームの眼鏡をかけていた。
川を渡る線路の上を電車が通っていく豪快な音にかき消されそうになりながら、彼は女に何事か話し、きちんと折り畳んだ紙を渡した。
「詳細はこれに」
「……畏まりました」
どちらも、どこか機械的な声だった。
紙を受け取った女は、かさかさとそれを開いて目を通すと、元通りにたたんで、襟の合わせ目に深く挟んだ。
「厄介なものだな。このご時世に、わざわざ会ってしかも手紙だなんて」
「…ジャスティス学園のパソコンは、全て監視がついておりますから」
生徒全てに発信器が取り付けられ、生活の全てを監視されているあの学校では、備え付けのパソコンでどんなウェブサイトを見たか、キーボードで何を入力したかが全てログデータとして残っている。外部との自由な連絡が禁じられているため、事前に報告してその目的も確かにしたメールアドレスとのやりとりしかできない。
“拘束がきつい学校”どころではない、軍隊よりも厳しい、まるで刑務所のような規則が、あそこでは当たり前に存在している。
だから誰にも知られずに外部のものと情報をやり取りするには、あの刑務所並のガードをやすやすと抜け出せる技術を持つ女が外に出て、こうして直接会うのが一番なのだ。
「……兄さんは」
「お元気でいらっしゃいます」
「何も変わりはない?」
「はい。恭介様もお元気そうで何よりです」
「お元気、ね」
恭介は、眼鏡の奥の目を細め、口を歪ませて皮肉げに笑った。こんな焼け付くような真夏日に、誰にも見られはしないかと神経を尖らせていなければならない者のどこが元気なのかと皮肉を言いそうになるのを堪えたのである。
女もそれを分かっているのだろう、それに言い返すような事はしなかった。
「変わった事なんかない、か。僕は何もかもが変わってしまったような気がする」
「恭介様」
「君もだよ、“ゆきちゃん”」
真夏日にそぐわない涼しげな名前を、恭介は呼んだ。
確かに女の白い手は本当に雪のようで、少しも汗ばんではいない。恭介は、父が死んでからというもの、雪姫子が汗ばんでいる所など一度も見た事がなかった。小さい頃は汗はもちろん、泥だらけだったり痣だらけだったりしていたというのに。
泣いていた事もあったな、と恭介はふと思い出したが、目の前にいる雪姫子とあの小さな“ゆきちゃん”が同一人物だなんて、この真夏の陽炎が見せる白昼夢かなにかなんじゃないか、と恭介は半ば本気で思った。
「私は何も変わってなどおりません、恭介様」
「そうかな。あの頃はそんな風に呼んだりしなかったじゃないか」
昔、雪姫子は恭介の事を恭ちゃん、と呼んでいた。彼らの父親にばれれば叱られるどころではすまないことだったが、こっそりそう呼んでいて、呼ぶ度に、呼ぶほうも呼ばれるほうも、ひひひ、とはにかんだ。
「もう子供ではないというだけです」
「……そうだな」
その通りだ、と恭介は無表情になって言った。確かに、自分たちはもう子供ではない。あれから十年が経った。あの頃は彼女と同じ位だった恭介の背も随分伸びて、もう彼女より頭一つ分高い。
「私は何も変わってなどおりません」
雪姫子は、微動だにしないままもう一度言った。傘が作る濃い影の中で、みずみずしい唇が動くのだけが辛うじて見える。暑苦しい、焼け付くような真夏の日曜日。彼女の声はいつだって氷のようだったが、自分は変わらないのだというその声は、火傷をしそうなほど突き抜けて冷たく、がんとしていた。
「私はずっと、忌野家の忠実な下忍でございます」
ジャスティス学園は、忌隠村という住所に所在している。
そこは山奥という言葉がぴったりと当てはまる僻地で、監視と厳しい規律の元で教育を行なうジャスティス学園に相応しい立地だった。
鋼鉄製の高い塀は、要塞意外のなにものでもない。塀の数百メートルごとにコンピュータ制御のためのコントロール・タワーがあり、ジャスティス学園のマークが取り付けられている。そして、中央の学園校舎の時計台、その丁度真後ろにある棟の頂上には、──何の冗談なのかと雪姫子はいつも思うのだが──校長である忌野雷蔵の巨大な像がそびえ立っている。とにかく威圧的なその風貌は、学校というよりは軍事要塞か厳重な刑務所にしか見えなかった。
普通ならば専用のバスでしか行き来が出来ないジャスティス学園であるが、雪姫子は徒歩で、恭介と会った川から戻ってきていた。忍びの者として徹底した訓練を受けたその足は、花魁のような重い底高の駒下駄を履いているにも関わらず、山中の小枝や枯れ葉を踏む音をさせる事もなく、そして微塵もだれる事を見せず、鋼鉄の要塞の近くまで辿り着いた。
警備員などの見張りはいない。
何故かと言うと、最新技術を駆使して作られ、また頻繁にその設備を新しい技術で更新し続けるこの要塞には、アナログ的な警備員など必要ない、そう思われているからだった。
雪姫子は、懐から懐中時計を出して時刻を確認し、袂から白い手袋を出して素早く嵌め、畳んだ傘の先端を引いた。和傘の先端は鉤形の鉄製の金具になっていて、ワイヤーが取り付けてある。
深呼吸をして集中力を高め、カチ、カチ、という規則正しい秒針の音に耳をすませた。呼吸と血の巡りを整え、時計の音に自分の心臓の音を合わせながら、雪姫子は一番近いコントロール・タワーの監視カメラのライトが青白く光るのを見た。監視カメラは至る所に取り付けられているが、一日のうち、四秒だけ死角が出来る。それが後十秒後からの四秒間だ。
キュン!と風を切る音がして、ワイヤーが塀の向こうに一直線に伸びた。
傘の先端からまっすぐに伸びたワイヤーをピンと弾くと、中に仕込まれた超強力小型モーターがもの凄い力と速度でワイヤーを巻き上げる。雪姫子はその力に逆らわずに飛ぶようにして地面を駆け、強力な助走とすると、そのまま鋼鉄の堀を一気に駆け上がった。
──コンッ。
漆塗りの小さな女物の下駄が、塀の頂上を軽く蹴る。しかしその音に気付いた者は、誰もいない。
棒高跳びの要領で、ワイヤーを棒代わりにして高く飛び上がった雪姫子は、着地に向けて体勢を整える為、萩柄の夏着物の袖をひらりと翻して宙返りをした。その間に、雪姫子が塀の内側まで来た為に外れた金具が傘の先端に戻り、ガチンと音をたてる。
ふわり、と、あの高さから着地したにしては気味が悪いほど音なく、漆塗りの丸っこい箱下駄が地面に降りる。その時、胸元に入れた懐中時計が四秒時を刻み、その奥の心臓が四度鳴ったのはぴったり同時。雪姫子は慣れた小さな満足感を味わいながら、傘を開いて肩を支点にくるりと回した。
一週間前に見つけた穴だから、システムのアップデートが行なわれるまでこの方法で行き来が出来るはずだ、と雪姫子は考えながら、自分の部屋がある寮まで向かう。
ジャスティス学園は全寮制で、卒業するまで里帰りを許されず、夏休みが始まったばかりの今でさえそれは例外ではない。全ての生徒は、夏休みが始まる前とほとんど同じ生活を送っている。違うのは、授業に教師がいないということだけだ。全ての生徒は、常に自主的に勉強とスポーツという名の身体訓練に励んでいるのである。
そんな生徒たちは、時間を無駄にする事を何よりも恐れている。つまり集中している。だから、塀の外から誰かが蝶のように音もなく侵入したとしても、気付く者など滅多にいない。本末転倒にも思えるが、ここは未熟な者たちを育てる教育の場なのだから、生活全体のガードをシステムに依存しているのはごく当然のことだ。ただ、校則を破っている雪姫子の能力が高いというだけで。
寮の壁に立つと、雪姫子はまた傘の先端を外し、自分の部屋の窓の鉄格子にかけた。ワイヤーだけのエレベーターは素早く彼女を窓まで送り届け、雪姫子は慣れた動作で鉄格子を外すと、するりと中に入り込む。再び懐中時計を見た。時刻は午後一時半。
《──昼休ミ終了ノ点呼ヲ行ナイマス》
館内スピーカーから聞こえるコンピュータの音声を聞きながら、雪姫子は流れるような手際で鉄格子を元通りにし、窓を閉め、ハンガーにかけられた制服のジャケットの襟を掴んだ。襟についているのは、発信器が取り付けられた校章バッジ。
「SAクラス、白藤雪姫子」
《点呼ヲ確認シマシタ》
ピッ、という音とともにバッジが一瞬光る。
雪姫子はさっさと帯を解き、一分もかからず制服に着替えた。