飛行訓練(3)
 その後、箒の端から滑り落ちないように箒にまたがる方法を教わった生徒たちは、実際に箒に跨り、空へと浮上した。最初は2メートルくらいの浮遊だったが、どの生徒もきちんと正しく箒に乗り、浮上出来たのを確認したマダム・フーチは、満足そうな表情で、徐々に高度を上げた。
 最終的には、全員が10メートルの高さまで空へと上がることが出来たのだ。

「……どうしたのだ」
「弦ちゃん」

 授業が終わるまで、あと半時間といったところだろうか。広いグラウンドなので時計がないため、正確な時間はわかりかねるが、だいたいそのくらいだろう。
 「残りの時間は、各自自主練習をなさい。ただし、10メートル以上は高く飛ばないこと。私の目の届く範囲内で行うこと」と、フーチが指示を出したので、各々が授業で学んだことを復習していた。
 周りは、ぶつぶつと授業内容を反芻する者や、習うより慣れろ精神でひたすらに飛び回る者がいる。

 そんな中、箒を手に、ポツンと立ったまま考え込む紅梅の姿は、とても目立った。
 怪訝そうな真田の声に、ふにゃりと紅梅が微笑む。

「手塚はんからもろたアドバイスを実践しよう思うて」
「手塚から?」
 へえ、と嬉しそうな紅梅に、真田は上空を見上げる。
 スイスイと空を滑る手塚の姿は、さきほどの光景が嘘のようだ。箒を手にするのが一番遅かった人間とは思えないほど。熟練した乗り手を思わせる飛行術に、マダム・フーチも満足そうだ。

「横座りで、乗ろう思て」
「横座り?」
「跨るん、嫌やし」
「なるほど」
 聞こえた第三者の声は柳だ。箒に跨った彼は、スゥーと上空から優雅に降りてきて、危うげなく着地する。
 データテニスをするだけあって、彼は客観的に自身をデータとして見る事が出来る。そのため、収集したデータに基づき、改善していった結果、柳は完全に箒を乗りこなすことが出来たようだ。

「さすがだな、蓮二」
 感心したような真田に、柳は微笑を浮かべる。
「貞治などは、相変わらずだがな」
 そう言った柳の視線の向こうでは、まだ乾汁の破壊力が胃に残っているのか、やつれた表情の乾が。しかし、その手はひたすらにノートにペンを走らせ、ガリガリと何かを書き込む。
 「三角関数の定理から……それに、空気抵抗と摩擦、重力も計算に入れて……11歳の平均体重が……」ブツブツと呟き、物凄い早さでペンを走らせる姿は、周りのレイブンクロー生の目を引いていた。

「せやけど、普通に跨るんと違うて、なんやバランスが取れへんのや」

 通常、箒に跨るときは、安定した姿勢を保つために、前傾姿勢を取る。そうすることで、スピードのアップダウンは、両手で調節できるのである。
 しかし、紅梅が実践しようとしている横座りでは、利き手が前、反対の手は後ろというような、片手操作になる上に、どうしてもバランスを保つ事が難しくなる。
「さっきからどうしても落ちてしまうん」
 困ったような声に、柳はしばし考え込み、ふむ、と頷いた。

「では、逆の発想で行ってみよう」
「逆?」
 きょとん、とした表情の真田と紅梅に、柳は首肯する。
「前傾姿勢を箒にやらせればいい」
「どういうことだ?」
 さっぱり意味がわからない、と言いたげな表情の真田に、柳は続けた。

「箒の柄の部分を少し上げた斜めの状態で乗り、背を逸らした状態を保つ。そうすることで、水平にさせた状態と比べると遥かに両手で柄を握りやすくなる上に、バランスが取れるはずだ。」

 通常であれば、箒に跨るので、両足で左右のバランスを取ることが出来る。だが、紅梅のやろうとしている横座りでは、左右のバランスは完全に体重操作でバランスを取るしか方法はない。
 けれども、蓮二の案では、左右から前後へとバランス方向を絞ることで、安定して乗ることが出来るようになるのだ。

「理論は────俺よりも、貞治の方が確実に詳しく説明できるはずだ」
 なんせ、物理の分野になるからな、と柳が笑った。
 とにかく、言われた通りにやってみる他ないと、紅梅は早速にも試してみることにした。

 まずは、柄の部分を少しだけ上がった状態にして、箒の穂先を下げる。次に、長めに柄を両手で握り、穂先よりに座る。
 その状態で、ピンと腕を伸ばしておく。ハンドルを握るドライバーのような状態だ。

「その状態で浮上できるか? お、やってみてくれ」
「へぇ」

 空へと舞い上がるイメージで、トン、と地面を蹴る。
 ふわり。形容するならそんな浮遊感に包まれれば。

「……浮いたな」
「一応、成功はしている」

 50センチほど浮いた紅梅を前に、真田と柳の二人がぽつりと零した。
 飛んでいる、というよりも浮いている状態の紅梅は、目を丸くした後に、ふにゃふにゃと笑う。

「進むことはできるのか?」
「やってみるえ」
 そう言って、体重移動の直感的操作を行えば、ツイーと進んだ。ただし、とてもゆったりとしたスピードであり、箒本来の速さは皆無である。
 ツイー、ツ、ツイー、ツ、ツイーと、独特な速度は、いっそ走った方が速い。しかし、搭乗者の紅梅本人は、とても乗り心地がいいのか、それとも速度が気に入ったのか、満面の笑顔である。

「……なんか、セグウェイみたい」
「言われてみれば確かに。操作方法もセグウェイのそれだ」

 いつの間にか注目を集めていたらしく、他のメンバーもやってきた。
 興味深そうに紅梅を眺めている乾は、実証が済んだのかすっきりとした表情だ──が、まだまだ体調が万全とは言い難そうだ──。

 上空から降りていた手塚もまた、紅梅の搭乗方法に感心しきり、といった様子で頷く。速度はなく、高さもないが、一応「乗れている」のだ。これなら、紫乃も大丈夫だと、人知れず安堵する。
 自転車に初めて乗った子供は、バランスを取るためにスピードを出し過ぎて怪我をしやすいが、スピードも高さもない紅梅の乗り方であれば、きっと紫乃も安全に乗りこなせるだろう。


「なんだか優雅ね」
「スカートだと気になっていたのよね」
「でもあれならスカートも気にしなくてすみそう」

 そして、注目していたのは何も彼らだけではない。
 紅梅がこの“セグウェイ風飛行”に成功していた頃から、女子生徒たちは紅梅の乗り方に興味津津だった。授業の始めから紅梅が箒に「跨る」ことを躊躇っていたのを知っているだけに、紅梅がにこにこと箒に乗っていることに驚いたのだろう。
 しかも、乗り方が横座りであることを知った女子たちは、全員が「素敵な考えだ」と言わんばかりの表情である。ホグワーツの制服がスカートであるため、どうしても乗っている時のスカートの状態が気になってしまい、体重移動や箒の操作に意識を傾けられないでいたのだ。

コウメ、それはどうやるの?」
「ミスター・ヤナギ、私にも教えて欲しいわ」
「私も」
「あたしも」

 したがって、大勢の女子生徒たちから懇願され、特に断る理由もなかった紅梅たちは、女子たちからのお願いを快諾した。
 中でも強く頷いたのは真田だった。女子生徒ならではの悩みに「確かに通常の乗り方では、不埒な輩が覗き見をせんとは限らぬ」と大いに納得していたので、教科書通りではない乗り方に、異議を唱えるつもりは毛頭ない。女性が足を晒すことに良い顔はしないので、むしろ大賛成だった。

 女子たちに囲まれる柳に、「いいなー! いいなー! 俺もその乗り方しよっかなー! 女の子に混ざりたい!」と便乗したのは千石だ。千石に続き、「紫乃に教えられるように……」と手塚、更には「データを集めたいから」と乾も参加した。

 ────その結果。

「これは……一体……」

 生徒の中でも、上空へ上がる事の出来ない生徒──例えば高所恐怖症の生徒など──を相手に、根気強く指導していたマダム・フーチは、とても信じられない光景に直面した。
 ハッフルパフの生徒を中心に、女子生徒のほとんどが、なんだかとても優雅な乗り方で箒に乗っているのだ。しかも、とてもゆったりとした速度のそれ。
 全員が、ツイーと箒を滑らせる様は、マダム・フーチの知る中でも、欠伸が出るほどに遅かったが、しかし、ちゃんと「乗れて」いるので、特に注意する理由はない。
 近くに居た生徒から事情を聞けば、同じ女性であるマダム・フーチは、深く納得した。地上からスカートを覗かれるのではないか、という心配も、横座り状態であれば無用だからだ。今後の授業に採用してもいいかもしれない。

 とはいえ、なんだろう────とてもシュールな光景だった。


「たんぽぽの綿毛みたいな気持ちやわあ」

 蕩けた笑みで言った紅梅は、いつになく授業を楽しんだのだった。
飛行訓練(1)(2)(3)/終