飛行訓練(1)
「元柱固真、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神、害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る……」

 授業が始まり、慌ただしい毎日を送る中で、手塚は紫乃の毎朝の日課を見守っていた。
 呪文の意味はわからないが、彼女が言うには、陰陽師は毎朝これを唱えるのだとか。唱える言葉は、紫乃の柔らかな音が紡いでゆく。耳に心地よかった。
 朝日に向かって唱える言には、それぞれ意味があるのだと教わった。前半部は環境を正し、中盤は四柱の神の加護において周囲を聖別し、後半部において神々に願い奉るのだそうだ。

 大広間へと向かう途中の階段の途中。朝練が終わり、食堂へ向かう前に、必ず紫乃はここへ立ち寄る。それに付き添うのは手塚の役目だった。
 拓けたスペースにあるステンドグラスから、差し込む光に乞う彼女の姿を、手塚は黙って見つめるのが密かに好きだ。そして、周りの生徒達の好奇な視線に晒される彼女を背後に隠すのは、自身の役目のように感じている。

「ありがとう、みっちゃん」
「かまわない」

 すぅと息を吸い込み、朝日にも負けない輝きを放つ笑みに、手塚もそっと微笑み返した。
 「さあ、食堂に行こう」手を差し出せば、少し恥ずかしそうにもじもじしながら、それでも小さな手が、手塚の左手をしっかりと繋いだ。

 当初は、レイブンクローの新入生たちから冷やかされたものだが、「何がおかしい?」と冷静に聞き返せば、誰もがそれ以上に冷やかすことをやめた。同寮の乾がニヤニヤとしながらノートに何かを書き、柳が苦笑しつつ、「無自覚なところは弦一郎と似ているな」と一言述べたのが印象的だった。「なぜ真田の話になる?」と首を傾げた手塚に、幸村や白石たちから呆れたような視線を投げられた覚えがある。

 入学してからの1週間は、慣れないことだらけで周囲に視線を配る余裕もなかったが、いまこうして紫乃と手を繋いで歩きながら、周りの景色を眺められるだけの余裕も持てるようになった。

「おはようございます」
「やあ、おはよう。今日も王子様は小さなお姫様と一緒だね」
「あ、レイヴンズバーグ卿。おはようございます」
「ああ、おはよう。とても良き朝だよ」
「ごきげんよう、グラッドウィン男爵夫人」
「ごきげんよう、可愛い子たち。貴方達を見ていると、とっても懐かしい気持ちになるわ。あたくしにだってとっても素敵な王子様がいたのだから」
「そりゃあ何百年前の話だい!」
「まあ、失礼ね!」

 階段の広場から食堂への道のりは、とても賑やかなものだ。たくさんのゴーストや絵画の中の住人たちが、手塚と紫乃に声をかけるからだ。
 最初に声をかけられた時はぎょっとしたものだが、人ならざる者にたいして耐性があるらしい紫乃が、にこにこしながら積極的に応じるので、「そういうものなのか」程度に手塚もそれに倣って律儀に挨拶を返せば、彼ら彼女たちは歓喜に沸いた。曰く、自分たちに自ら進んで声をかけてくれる者は、なかなかいないのだという。

 以来、二人が手を繋いで歩いていれば、霊も絵画の者たちも、誰もが微笑ましい何かを見つめるように、嬉しそうに話しかけてくれるし、親切にも情報をくれるのだ。なにより、いま氷漬けにされているピーブスのような悪さをするような存在ではないので、邪険にする理由もない。

「小さな王子様、今日は飛行訓練の授業があるそうだよ」
「飛行訓練? ああ、箒の……」
「そういえば今日だったね」

 さきほど新入生たちが騒いでいた、と優雅に紅茶を啜りながら、絵画の紳士が教えてくれた。礼を述べれば、ウィンクを寄越された。
 やはり魔法使いといえば、箒だ。談話室の掲示板に飛行術の授業についてのお知らせが貼られてから、手塚は少しばかりこの授業が楽しみだった。

「リトル・レディ。箒に乗った感想をどうか私にきかせておくれ」
「でも、私……運動が、とてもダメで……」
「大丈夫よ。きっと『神の子』が助けてくれるわ」
「誰にでも苦手なものはある。だが、諦めてはいけない。彼女の言う通り、もしもどうしても困ったなら、幸村や白石たちを頼るといい。グレンジャーも。……俺も、いる」
「さすがだね、小さな王子様」

 おおっ! と、身を乗り出して歓声をあげる彼ら彼女たちに、手塚は小さく嘆息しながらも、「大丈夫だ」と言い聞かせるように言う。
 きゅっと手のひらを握りしめ、続けた。

「自転車だって乗れただろう。逆上がりも、時間はかかったが出来るようになった。水泳だって、10mは泳げるようになった。努力は絶対に裏切らない」
「……うん、そうだね」
「その、なんといっただろうか……ああ、クィディッチか。クィディッチのプロ選手になるわけじゃないんだ」

 飛行訓練とは、要するにマグルが自転車を乗ったり、海や川で溺れないように泳ぎの練習をしたりするような、これから魔法使いとして生きるために必要な一般的なスキル習得のための授業だろう。
 マグルの世界でも誰もが自転車に乗れるが、アクロバティックな技術は必要としないし、それが出来るのは一部のプロ選手だけだ。それと同じで、「ちゃんと箒に乗ることが出来る」ことさえ出来れば、おそらくは問題ない。

「ありがとう、みっちゃん」

 ほっとしたような柔和な笑みに、こくりと手塚は頷いた。

 そして辿り着いた食堂の大広間。早めの時間帯なので生徒の姿はまばらだったが、ハッフルパフの席から真田と千石、紅梅の姿が見えた。真田の隣には、ハンサムな顔立ちの先輩もいる。
 「セドリック先輩だよ」と、紫乃が教えてくれた。言われて、ああ、と気づく。そういえば、ピーブスの一件で、紅梅をいたく心配していた心優しい先輩の内の一人だ。そのセドリック先輩も含め、四人で和やかに談笑しているようだ。既に朝食も済ませたのだろう。

 手塚の姿に気づいたのか、真田が「おはよう」と呟いたのが唇から読みとれる。聞こえないだろうが、手塚も「おはよう」と口にした。
 紫乃は、嬉しそうにぶんぶんと手を振っている。気づいた千石が、紫乃と同じように大きく手を振り返し、紅梅とセドリックは、ゆったりと微笑んで小さく手をひらひらとさせた。

「では、俺はレイブンクローの座席へ向かう」
「みっちゃん。今日、時間はある?」

 グリフィンドール席へと紫乃を送り、踵を返そうとすれば。唐突な紫乃からの質問に、今日の時間割を頭の中で浮かべる。特に厄介な授業はない――――まあ、魔法薬学はある意味で厄介だが、あの教授の嫌味と減点攻撃には慣れた。
 部活までの空き時間は、たっぷりとある。ホグワーツの時間割は、日本でのみっちりとした時間割と比べればかなり緩やかなのだ。

「とれなくはない。何故だ?」
「あのね、桃の木の苗をね、植えようと思って」
「桃?」
「他の木の苗も植えるけどね」

 何の脈絡もないので、紫乃の意図することがまったく理解できないが、「マクゴナガル先生にお願いしたら、校長先生にお伺いしてみるって。それでね、きのう校長先生から私のところにお手紙が来て――――」と、にこにこ話している。
 どうやら、ダンブルドア校長とマクゴナガル先生の許可をもらっており、ホグワーツの正門・裏門、その他あらゆる門の脇に、桃の木を植える予定だということだ。

「ゆきちゃんも白石くんも、周ちゃんも一緒だよ。みっちゃんもどうかな?」
 挙げられたメンバーは、全員が植物好きと公言している面子だった。なるほど、と頷く。
「俺が居てもいいなら、参加させてくれるか」
「もちろん。ちゃんも誘ってみるつもりだったから。じゃあ、また後でね!」

 元気よく駆け出した紫乃の向かう先には、優雅にティーカップを傾ける幸村の姿。日の光に紺の髪が輝き、まさに絵画の中の神の子供である。
 やってきた紫乃に気づき、隣の席を勧めた姿を眺め、手塚はそのまま背を向ける。

「なるほど、桃の木か。藤宮も考えている」
「……神出鬼没だな、柳」
「フッ、すまないな」

 「乾はどうした?」聞けば、「貞治は実験に失敗して腹を下している。新作の汁を部活後に試飲してな」と、さらりと返された。
 あの男は、そろそろ自身の作成する乾汁の破壊力に懲りるべきだ。一体、どれだけ身を持って知れば、あれが魔法薬ではなく、ただの劇薬、いや破壊兵器だと気づいてくれるのだろうか。
 米神のあたりを揉み、盛大に溜息を吐きだした。何処吹く風といった柳は、手塚と向かい合わせになる形で着席する。

「……それで、桃の木がなんだ」
「厄除けになる。日本神話でも伊邪那岐が黄泉比良坂の坂本に着いた時、桃の実を三つ投げ、黄泉の国よりの追っ手から逃げ延びたという話がある。以来、桃は魔よけの実として有名だ」

 「桃太郎の話もあるだろう?」と、唇に微笑を刻む柳に、ようやく手塚は納得した。

「おそらくあの二人のことだ。柊や南天、万年青も植える確率、95%」
「祖父から聞いたことがある。柊や南天は鬼門に植えるとよいと」

 答えれば、小さく柳が頷く。日本ではこうした東洋の魔術が、マグルの世界にも浸透しているのだということが、実感できた。

 ベーコンとホウレン草のキッシュにナイフを入れ、口に運ぶ。
「南天は難を転ずる。柊は冬を音読みすれば“トウ”と読むことから、鬼門から逃げるという意になるからな」
 その解説に、手塚はようやく、自身の庭の門先に南天や柊が植えられていることを思い出した。なるほど、そういう意図があってのことか。

「やあ……おはよう、蓮二。それに、手塚」

 へそのあたりを押さえながら、げっそりとした表情でふらふらと席に着いたのは、乾だ。やつれているような気がする。
 彼が着席すれば、彼のためだけに卵粥がテーブルに用意された。ホグワーツの屋敷しもべ妖精は、本当に仕事ができる妖精である。

「お前の辞書には、自重の文字はないらしいな」
「フフフ……手塚。研究者というものは、自身の探究心と好奇心を抑えることが出来ない人種でね。実験と実証を重ねるたびに――――」

 途端、ギュルルルルと物凄い音が乾の腹から聞こえ、たまらず乾は駆け出した。
 「ヌォオオオオオ……!」と猛然と走る乾の叫びに、無言で手塚は野菜スープをすくった。

「……哀れなり、貞治」

 そう言うくらいなら、せめて試飲する前に止めてやれ。
 思ったが、何を言ってもこの悪名高き「レイブンクローの博士と教授」の「教授」には無駄だと悟り、手塚は黙ったままスコーンに手を伸ばした。
飛行訓練(1)(2)(3)/終