飛行訓練(2)
 飛行訓練は、午後一番に行われることになった。
 グリフィンドールとスリザリンは、この次の午後3時半からだ。魔法薬学といい、なぜこの学校は犬猿の仲であるグリフィンドールとスリザリンを合同授業にするのか、はなはだ疑問である。

 校庭には、整然と並べられた箒と、組分けの儀式の時のように引き攣った表情の1年生たち。皆一様に不安そうな面持ちの中、手塚を始め、日本人の生徒らはけろっとしていた。
 手塚は、木曜日に飛行訓練が行われると知って以降、図書室で飛行術に関する書物はすべて読破していた。乾と柳はもちろんだが、手塚と似たような境遇の真田も、おそらくは読破しているはずだ。

 テニスと同様に、何事にもルールというものが存在する。初心者向けの書物を中心に読み進め、理論は完全に理解し、心構えもすでにある。あとは練習あるのみだ、という心づもりが出来ていたので、手塚としては特に不安も何もない。
 あるとすれば――――この後に同じ授業を受けるだろう紫乃が、箒から転落しやしないかということだけだ。
 紫乃は、自転車の練習で何度も転んで、何度も泣いた。擦り傷程度の軽傷なら、努力の証だと言ってやれるが、空中を浮遊するこの授業での転落は洒落にならない。やはり、後で幸村や跡部に頼みに行った方がいいかもしれない。

「むつかしい顔やねぇ」
「上杉、千石」
「やっほー」

 のほほんとした表情で、声を掛けてきてくれた紅梅と千石に、手塚は向き直る。
 風が少し強く、紅梅の艶やかな髪を攫っていた。シャンプーなどのCMのように、美しくたなびく射干玉の黒髪は、かぐや姫もかくやというほどのそれだ。

「眉間がこーんな風になってるよ、手塚君」
 こーんな、と自身の眉間に人差し指を押し当てて、おっかない顔をする千石に、手塚は黙り込む。たしかに、気難しそうな顔だ。
「弦ちゃんもさっきから唸ってばっかり」

 そう言った紅梅の視線の先には、腕を組んで唸っている真田。緊張しているようには見えないので、武者震いのようなものだろうか。
 曰く、「今日の授業、えらい楽しみやったみたいやさかい」真田も楽しみにしていたのか。

「セドリック先輩から今朝アドバイスをもらってね。ものすっごく真剣に聞いてたから、それなりに楽しみなんじゃないかなぁ」
 千石の言葉に、朝食での談話は、飛行術に関するものだったのか、と理解した。年長者に話を聞いておくのは、妥当な手段だ。
 「まあ、俺も楽しみだったしね。ほら、やっぱりいかにも魔法使いって感じでね」と、バチン、とウイィンクさえ寄越す千石は、忘れていたが彼もまたマグル出身者だ。

「上杉はどうなんだ?」
「楽しみやないわけやないけど……棒に跨るんは……」

 眉を下げて、困った様に笑う紅梅に、ああそうかと理解した。
 普段着が着物で、ゆくゆくは芸妓となるべく修練を積む彼女にとっては、箒に跨るという行為は、どうしてもはしたない体勢に感じてしまうだろう。

「横座りするみたいにすればいいんじゃないか?」
「横座り?」
「乗馬でも、貴族の令嬢たちは跨らずに横座りしていたと本で読んだ。魔法界でも高貴な身分の女性はそうするらしい」

 すると目を輝かせて瞬かせる紅梅
「ええこと聞いたわ、おおきに手塚はん」
 緩く笑みを浮かべる唇に、手塚はこくりと首肯した。


 授業が始まると同時に、ローブの裾を捌きながら現れたのは、マダム・フーチ先生だ。短い白髪で、鋭い目つきの先生だった。
 授業が始まってもなお、箒の傍に並んでいない生徒に対し、容赦なく叱責が飛ぶ。すぐさま整列した生徒をとっくり眺め、満足したように頷いた。

「右手を箒の前に出して!」
 指示された通り、皆が右手を突き出す。全員分の箒は古く、年代を感じさせる。いかにも魔法使いの箒というような、それだ。
「そして『あがれ!』と言う」

 教えられた通りに唱えたのに、手塚の箒はピクリともしない。他の生徒を見れば、少しだけピクリと箒を動かす者や、途中まで箒を浮かせている者がほとんどだ。柳と乾は当然のように、手に箒が収まっている。

 ハッフルパフの方を見れば、真田の大きな「あがれ!」が聞こえた。あれでは怒鳴り声だ。
 なかなか上がらない箒に業を煮やしたのか────。

「さっさとあがらんかー!!」

 怒号が響き渡る。
 その大声に怖れをなしたのか、生徒らが肩を跳ねさせたと同時に、箒が5本くらい真田の右手目掛けて飛び込んでいった。
「……そんなに気合を入れなくてもよろしい」
 微妙な表情のフーチの言葉に、フーチの近くでハッフルパフの女子たちにコツを教えていた千石が、ブハっと噴き出た。目敏くも真田はそれを見逃さず、ギロリ睨めば、冷や汗をかきながら千石は他人のふりをする。

「……あがれ!!」


 怒鳴り声よりは大人しめの──だが大声には変わりないが──声で命令し、真田の手にも箒がおさまった。


「あがれ。あがれ……うまいこといかへんねぇ」
コウメ、どうしたの?」
 一方、先ほどから「あがれ!」と命令しているものの、紅梅の手に箒が上がる気配がない。近くのハンナ・アボットが気づき、親切にも声をかける。
 「言うこと聞いてくれへんのん」と、眉を下げて言う紅梅に、ハンナだけではなく、お人よしが多いハッフルパフの生徒らは、皆で一生懸命に考える。
 そんな心優しい彼ら、彼女らにほっこりしながら、紅梅はふと変身術のことを思い出した。

「せやわ、忘れとった……“おあがり”」

 変身術で苦戦して以来、これもまた“呪文”のシステムの関係なのだろうと結論付け、京言葉で命令する。変身術や呪文学と違って、英語やラテン語でないといけないわけでないのであれば、馴染みある言語の方が成功するだろう。
 すると、ゆっくりと時間を掛けて箒が立ち上がり、紅梅の手におさまる。やはり成功した。
 パチパチと拍手する生徒らに囲まれ、紅梅は嬉しそうに微笑んだ。

 ────やがて、誰もがようやく箒を手中に収めることができたようである。

「さて、全員が箒を――――おや。ミスター・テヅカ。まだ箒を手にしていないのですか」
「……申し訳ありません」

 マダム・フーチが次の指示を飛ばそうとし、手塚のおかしな状況に気づいたようだった。

 日本人留学生は、どの授業でも各々の飛び抜けた才能を、あらゆる方向で如何なく発揮していると聞いていた。このクニミツ・テヅカという少年もそうで、どの授業においても彼の評判はすこぶるいいものだ。
 高い魔力を保持し、常に努力を忘れず勉強に励み、マグル生まれを感じさせないほどの優秀な生徒だ。
 今となっては、彼がマグルであることをうっかり忘れる教師がほとんどである。異性では、ハーマイオニー・グレンジャーが優秀であり、二人はどの先生の間でも話題にのぼるほど勤勉な生徒だ。

 そんなテヅカにも、最初から成功しないものが存在した。そのことに、マダム・フーチは意外に思いつつも、内心では少し微笑ましく思った。完全無欠、冷静沈着を体現する彼も、ちゃんと子供なのだと実感したからである。

「もしや、ミスター・テヅカ。貴方の杖腕は?」
「左です」

 杖腕が、利き腕のことだと理解している手塚は、即答した。
 すると、なるほどと頷くマダム・フーチは、何か思い当たったようだ。

「では、右手ではなく左手を突き出してごらんなさい」
「はい」

 言われた通りに左手を突き出し、そして先ほどと同じく「あがれ!」と口にする。
 瞬間、手塚を中心にブワリと強大な風が巻き起こり、周りの生徒のローブや髪を吹き飛ばす。きゃあとスカートを抑える女子生徒の声に、手塚は焦った。
 しかし、制止しようにも暴走した風をどうすればいいのか全くわからない。平常心を保ちながら、冷静に周囲を観察すれば、手塚の身体を中心に、風は円を描き、全ての箒が手塚の元へと集結した。まるで、手塚に引き寄せられるがごとく。

「み、ミスター・テヅカ! 手を下ろしなさい!」

 飛んできた指示に、即座に手塚は従い、手を下ろす。
 途端に箒は地面へと落下し、風はやんだ。

「手塚を中心とした風の領域が築かれているな」
「……手塚ゾーン」
「いいネーミングだ、博士」

 呑気にそんな会話をしているレイブンクローの博士と教授に、手塚は柳眉をぴくりと浮かせた。二人からすれば他人事に違いないが、堂々と他人事ですと言いたげに傍観している。
 呆気にとられる手塚だったが、気を取り直し、もう一度。今度は、参考書の解説を思い出し、箒が手中に収まるようなイメージで、あがれと命じる。が。

「……今度は手塚を中心に風が逆回転を始めたな」
「ああ、教授。そして全ての箒は手塚から逃れるが如く、弾かれている」

 またもや囁くような二人の解説に、手塚は今度こそ顔を顰めた。
 怒ったような顔の手塚を見た二人は、「すまない」、「ごめんよ」と苦笑一つ零し、謝罪する。

「詫びの代わりと言ってはなんだが、手塚。肩の力を抜いて、魔力を指先に込めるようなイメージをしてみるといい」
「魔力を……」
 人間図書館、柳の言葉に、手塚は素直に従う。
「そうだ。そのまま、指先から糸を垂らすようなイメージに変化させ、その糸を使って箒を引っ張り上げるといい」
 釣りが趣味だという手塚のデータ収集済みの乾が続ける。
 魔法の糸をイメージして、箒を引っ張り、持ち上げる。釣り糸を垂らし、獲物を釣り上げる感覚を思い出す。
 周囲の視線に見守られながら、地面に突き出した手の平に魔力を込めた。熱が指先に集まってゆくのを感じながら、釣り糸を想像する。垂れた糸に獲物が引っかかったタイミングを逃さぬよう、意識を集中させる。そして。

「上がった!」
「さすが、ヤナギ!!」
 レイブンクローの中でも一目を置かれる柳に賞賛の声が集まった。また、的確なアドバイスにきちんと従い成功させた手塚にも。
 歓声の中で、ほっとしたような手塚に、同じくほっとしたようなフーチが、柳に5点を加点したのだった。
飛行訓練(1)(2)(3)/終