穴熊
「……申し訳ありません。減点されてしまいました」

 マクゴナガルが行ってしまった後、テーブルに集まっているハッフルパフの上級生ら、そして同級生らにも、弦一郎は深々と頭を下げた。
 しかし彼らは皆、弦一郎を責めるどころか、一様に笑顔である。
 そして昨日も色々と気を使ってくれた監督生が「気にするなよ!」と一番に言ったのを皮切りに、口々に「すかっとしたよ」「ハッフルパフの誇りを守ってくれて、ありがとう」などと言い、最終的には、全員が拍手をした。

「そう、それに、ゲンイチローは朝のテニスの練習の時、5点取っただろう? ミス・ウエスギは10点だ。どうってことはないさ」

 セドリックが男っぽく言うと、また口々に「そうなのか」「なら本当にどうってことないな」と声が上がる。

「サナダ、さっきの君の行動を非難する奴は、我がハッフルパフには一人もいないよ。まあ──、強いて言うなら、“青瓢箪”は言いすぎだったかもしれないけど。いや、あまりにもぴったりすぎるという意味でね?」

 監督生が、少しいたずらっぽい感じで言うと、ハッフルパフとしては少し珍しい、一丸となった爆笑が起こった。
「よく言ってくれた。本当にそう思う。減点なんか気にするな」
「はい。ありがとうございます」
 穏やかに微笑みながら、とても嬉しそうにそう言う監督生、そして力強く背や肩を叩いてくる上級の男子生徒らに、弦一郎はやっと笑顔を返した。

「ミス・ウエスギもね。ふふふ、君たちが一緒にいてくれて、本当に良かった。ばらばらだったら、それぞれスリザリンとグリフィンドールに取られていたわけだろう? 君たちが一緒にいてくれたおかげで、我がハッフルパフは優秀な新入生を二人まとめて獲得できたわけだ──」

 演説めいた口調で言う監督生に、他のハッフルパフ生らが、「そのとおり!」と口々に叫ぶ。
 ふと弦一郎が紅梅を見ると、彼女はさきほどドラコに向けていた、親しみのかけらもない笑顔とは比べるべくもない、ぽかぽかとした笑顔を浮かべていた。
 その顔を見て、弦一郎は拳を握り、きりっとした、そして挑戦的な表情で、同寮の仲間たちを見る。

「──すぐ取り返します」
「その意気だ!」

 わっ、と歓声が起こった。



 その後、向かった初授業の合間でも、弦一郎は注目され通しだった。

 視線のほとんどは、自寮の尊厳を守った行為を取ったとして、好意的ではある。
 しかし、魔法界風に言うならば、吠えメールにも引けをとらない、大広間中に響き渡る怒号を発し、しかもそれが時代錯誤なまでの厳しい口調で、更には巨漢二人を軽々投げ飛ばしたとあっては、確かに好意的であっても、だいたいが遠巻きなものだった。
 また、主に活発な系統の男子生徒には肩を叩かれて賞賛の声をかけられることすらあると同時に、乱暴だ、と“引いて”いる者も少なからずいるようだった。

 そして、最初の授業二コマを受け終わり、昼食までいきなり暇になった弦一郎と紅梅は、声をかけられるのを避け、絵画の中の人々に教えてもらった、静寂に厳しい図書室へ来ていた。

 本来、始業から昼食までは四コマ二科目の授業時間がある。しかし調整のためか、まるで大学の授業のように“抜け”がある上に、一科目はほとんど二コマなので、一科目抜けると、丸々二時間くらい空いてしまうのだ。
 どの教科も必ずと言っていいほどレポートの提出が求められるのでこういう仕様なのかもしれないが、授業をまじめに聞いて理解していれば、その際のノートがそのままレポートになるので、さほど苦ではない、と二人は理解した。

 少なくとも、先ほど受けた初授業である『魔法史』はそうだった。
 担当のカスバート・ビンズ教諭はホグワーツ魔法魔術学校で唯一のゴーストの教師で、いきなり黒板をすり抜けて登場したのは驚いたが、その後は極普通の──、いや、どちらかといえば退屈な授業だった。
 歴史の授業なので教諭の個人的異見を挟まない授業は正しいのかもしれないが、ほとんど教科書を朗読しているだけの、はっきり言って教師にやる気がないのが明らかな授業なのだ。
 話し方も物憂げで、あまりに一本調子なその朗読に、隣に座った清純が寝かかっていたので、弦一郎は彼の脛を蹴って起こした。清純がその痛みに声を上げたその時だけ、ビンズ教諭は朗読を止めたが、特に注意もせず、また、授業という名の朗読作業に戻っていった。

 二人は『魔法史』の教科書は事前に目を通していたこともあり、早々に授業に見切りをつけ、ノート、もといレポートを授業中にずいぶん仕上げてしまった。
 念のため、弦一郎が主にレポートを書き、紅梅はそれを手伝いつつもビンズ教諭が教科書に書いてあること以外のことを言わないか聞いていたが、二コマ丸々、彼は本当に教科書を朗読しただけだった。
 そして終了後には「今日の授業で話した単元のレポートを作成するように」とのたまったので、次回からもこの授業態度で問題無いだろう、と二人は結論づけた。

 おそらく四単元は先取りしたレポートを仕上げた二人は、ひっきりなしに向けられる視線を避けるため、またさっき協力して作成したレポートを紅梅の分も作成し、そして午後の『変身術』の予習をするべく、この図書室に来た。
 なんといっても、あのマクゴナガル教諭の授業である。厳重に重ねて予習をしていくのは無駄ではないだろう、と、特に弦一郎が強く申し立て、紅梅はそれを了承した。

 朝の騒動がもう伝わっているのか、司書のマダム・ピンスは弦一郎の顔を見て、今にも弦一郎が怒鳴り散らし始めはしないかとおおいに警戒した様子だった。
 しかし礼儀正しく本を扱うさまを見て、ひとまず警戒を解いたようである。じろじろ弦一郎を観察するのをやめ、他の生徒達に対し、禿鷹のように目を光らせ始めた。

「……やはり俺は、本来ハッフルパフではないのだな」

『変身術』の教科書を一旦置いて、弦一郎はぽつりと言った。
 二人は好奇心いっぱいの視線を避けるため、大きな共同テーブルではなく、壁際にある、二人がけの小さめのテーブルに、向かい合って座っている。
 弦一郎の字で書かれたレポートを参考に、図書室の書籍も交えてレポートを作成している紅梅が、顔を上げた。

「俺はどうも短気で、かっとしやすい……乱暴者だ。わかってはいたが、……こうしてハッフルパフに来て、つくづくそのことを思い知った。確かに俺は、本来なら、グリフィンドールなのだろう」

 紅梅は、難しい顔をして訥々と話す弦一郎をじっと見ながら、黙って聞いている。

 弦一郎の言うとおり、向けられる視線は、そして実際の言葉のほとんどは、「どうしてあれがハッフルパフなんだ」とか、「グリフィンドールだが、というのは、なるほど」といったものばかりだった。
 グリフィンドールの生徒の中には、弦一郎が自分の寮でなかったのを悔しがっている生徒もいた。そういう生徒は、大概、弦一郎がゴイルとクラッブを投げ飛ばしたことにばかり注目しているような生徒だったが。

「ハッフルパフの皆は、本当に、とても穏やかで懐が広い。──だから俺のような、本来グリフィンドールであるような者も受け入れてくれるのだろうが」
「弦ちゃん」

 紅梅が、穏やかに呼んだ。
 弦一郎が彼女を見ると、既に羽ペンはインクを拭き取って傍らに置かれており、紅梅は少し首を傾げて、菩薩のごとく微笑みながら弦一郎を見ていた。明かり取りの窓から差し込む午前中の健全な光が、黒髪をつやつやと光らせている。

「何を気にしてはるの」
「いや……、つまり」

 弦一郎は、口ごもった。
 そして少し、あー、とか、うー、とか唸ったあとで、きまり悪そうにもごもご言った。

「つまり、……俺も、ハッフルパフに籍を置くからには、こう、今日のように無闇に怒ったりせずにだな……、もっと、穏やかになる努力をするべきかと」
「──ぷ」

 紅梅が、小さく吹き出した。
 マダム・ピンスに睨まれるので、本当に小さい声だが、口を押さえて、くすくすと、心底おかしそうに笑う。
 紅梅から笑顔を向けられたことは数あれど、笑われたことはない弦一郎は、頬を赤くして、むっとした顔になった。

「なにがおかしい」
「そやかて、弦ちゃんが怒らんとおるなん、無理や」
「なっ」

 他でもない紅梅に無理とはっきり言われ、弦一郎は、少なからずショックを受けた。
 紅梅はいつも弦一郎を肯定するし、応援してくれるので、こうして笑われた挙句に「無理」と言われたのは、ちょっとした衝撃だった。
「む、……無理とは何だ。俺だってやれば出来る」
「無理や無理や」
 “穏やかになる”という言葉にのっけから反し、むきになっている弦一郎に未だくすくすと笑いながら、紅梅は言った。

「いや、しかしだな……。藤宮など、朝練の時から俺にずっとびくびくしているし、マルフォイとの騒ぎの時など──」
「ああ、しーちゃん、真っ青どしたなあ」

 紅梅が頬に手を当ててはっきり言うと、弦一郎は、「ぐぅ」と潰れたような呻きを漏らした。

「だ、だからだな……」
「うーん……。そやけど、うちは、怒っとる弦ちゃん好いとぉし」
「……はあ?」

 紅梅の言った言葉に、弦一郎は、変な顔をした。
 そして、怒っているのが好きとはどういうことだ、と弦一郎がわざわざ言葉にせずとも、紅梅は笑いを収めながら話しだした。

「うちは、弦ちゃんとは逆に、よう怒らんのん。やり返すけど
「む……」

 それは確かに、と弦一郎は思った。
 紅梅が声を荒らげたり、不機嫌そうな顔をしているところを、弦一郎は見たことがない。唯一、弦一郎の祖母が亡くなった時に一悶着あったが、そのあとの態度は、弦一郎にとって、まさに菩薩の如きといった有り様だった。

 そしてそんな風だが、紅梅は、弱気、というのとは違う。
 弦一郎のようにその場で怒号を上げたりすることはないが、先ほどがそうだったように、いつもどおりのおっとりした言い方のまま痛烈に言い返したり、すうっと身を引いて淡々と後処理をしたりする。
 それは、蓮二と似ている、といえば似ているやり方で、だからこそ、弦一郎は紅梅をあまり心配しない。それどころか、あらゆる面で頼ることのほうが多い、と弦一郎も自覚している。

「むかむかすることはあるんよ。そやけど、うちんとこは声荒げたらまた叱られよるし、そんなんずーとしとったら、怒りかたもようわからんようなってしもてなあ。もう、怒ろう思てもようせんし、やっても迫力ないえ」
「ああ……」

 弦一郎は、頷いた。
 紅梅はその環境ゆえ、荒事は徹底的に行わないように躾けられている。剣道道場を営む家に生まれ、両親は自衛官、祖父は警察官という環境で真逆の育ち方をした弦一郎には、拙い想像を働かせることしか出来ないが、充分納得はできた。
 そして紅梅が大声を出して怒るところも想像してみたが、確かに、あまり迫力はなさそうだ。むしろ先ほどのように、笑顔のまま淡々と何か言われたほうが心に刺さると容易に感じられたので、きっと彼女はこれでいいのだろう、と弦一郎は結論づけた。

「そやから、弦ちゃんがあないな風に、がーっと怒ってくれはるん、えろぅ気持良ぅてな? すかっとする、いうか。こう、将軍さまが来はった感じ?

 少し茶目っ気を交えて言った紅梅に、弦一郎は、苦笑ではあるものの、朝以来、初めて笑みを浮かべた。
 それにしても、そんなことを言われると、もうしばらく視聴できないであろう、白馬に乗って海辺を駆ける破天荒な徳川将軍のテーマが脳内に流れてくるので、弦一郎はそれを頭から追い出すのに少々苦労した。

「そやから、弦ちゃんは今のまんまでええんよ」
「……そうだろうか」
「そや。そやし、ハッフルパフも、そない穏やかなばっかりとちゃう思うえ?」
 どういうことだと弦一郎が首を傾げると、紅梅は言った。

「ミスター・マルフォイが色々言うてる時、みぃんな、黙っとったけど、嫌ァな顔してはったもん。ほんまは怒りたいけど、うちみたいに、怒り方がようわからんお人が多いんよ。うちはやり返せるけど、それも出来ん人もおる。そんかし、──黙って努力して、ずっと後で、実力で見返そうとしはるんちゃうやろか」
「うむ……」
「そやから、弦ちゃんが、がーってあない怒ってくれはって、みぃんな嬉しおしたん。減点されても許してくれはったんは、穏やかで優しいからとちゃうえ? ただ嬉しおしたからや」

 みぃんな、にこにこしてはったやろ? と言う紅梅もまた今、にこにこしている。
 弦一郎は、頬が熱くなるのを感じた。

「……あと、関係おへんかもしらんけど、うち、ハッフルパフが“アナグマ”いうん聞いて、ただただ穏やか、いうイメージ浮かばんやったし」
「なぜだ?」
「アナグマいうたら、将棋どっしゃろ」
「ああ、……“穴熊”か」

 紅梅の言う“穴熊”は、正式には穴熊囲いという、将棋における守備陣系のことだ。
 古くは「岩屋」とも呼ばれ、江戸時代からある古い戦法にして鉄板の戦法でもある。
 そして将棋自体も歴史が古いゆえに、囲碁とともに、客の相手をするために嗜む舞妓や芸姑もいて、玄人の客の中には、舞もさせず、名人級の芸妓と“さし”で将棋を打つのが一番の贅沢、とするような者もいるらしい。

「その穴熊いうたら、囲うまでに時間はかかりおすけど、えろぅ硬ぅて、出来上がってしもたら居飛車も振飛車も使えるし。うち将棋習いはじめの時に最初に習たんが穴熊で、しかも教えてくれはったセンセのこれがまた凶悪でなあ」

 紅梅は、参った、という感じで言った。
 穴熊は一時廃れたこともあったが、現代では、穴熊のバリエーションをどう崩すかが大きな課題の一つであるし、矢倉戦、相振り飛車戦でも穴熊囲いは頻繁に出現し、守りの堅さを重視する現代将棋の象徴とも言える。

「穴熊は、ただ穴掘って篭っとるんとちゃいますやろ。勝つために玉囲うとるんよ」

 その言葉に、弦一郎は、はっとした。
 そしてにこにこしている紅梅に、今度こそ笑顔で、──しかも好戦的な色のある笑みで、言った。

「……なら、俺は飛車か」
「そや、そや。囲って固めるんはうちらがやるよって、弦ちゃんは居るなり振るなり、好きにしたらよろしおす。まあ──、あんまり無茶しよしたら、止めますよって」
「うむ」

 弦一郎は、今度こそ、はっきりと頷いた。

「頼む」
「へぇ、頼まれました」

 紅梅は畏まって言い、にっこりする。

「ああ、あと、……しーちゃんには、うちも声かけるよって」
「う、……頼む」
「へぇへぇ、大事おへんえ」

 苦り切った顔の弦一郎に、紅梅はまたくすくす笑うと、羽ペンを手にとって、インクにつけた。そしてまた、レポートの続きを書き始める。

 弦一郎もまた、『変身術』の本を手に取ると、今度こそ集中して、文字を辿り始めたのだった。
穴熊1/3/終