穴熊
 ──ものすごい声だった。

 あまりの音量に、いきなりだったこともあって、ハリーは頭がくらっとした。

 そしてそれはハリーだけではなかったようで、何人かが、確実に椅子から転げ落ちたばかりか、おそらくどこか打った音や、食器が倒れる音がいくつも聞こえた。隣にいるロンも、キーンと痛む耳を、両手でぎゅっと押さえている。

 椅子を蹴倒さん勢いで立ち上がり、その怒号、いや咆吼などと表現したほうが相応しい声を上げた弦一郎は、ひどく険しい顔で、ドラコを睨みつけていた。
 その形相といえばもうとても少年とは思えないほどで、もし例えるならば、怒り狂った虎か何かによく似ていた。
 そして元々テーブルの端に座っていたところを大きく一歩踏み出して前に出たので、その背のすぐ後ろに紅梅を庇い、更に後ろに、ハッフルパフ生全員を背負うような形になっている。

「先程から、無礼千万なその態度! しかも俺個人に対するばかりか、我がハッフルパフへの罵詈讒謗、まこと許し難い!」

 びりびりびりびり、と、テーブルが、食器が、小さく震えて音を鳴らしている。

 ハリーは、汽車の中でネビルが言った、「魔力の大きい人は、魔法を使おうとしなくても不思議な事が起こったりする」ということを思い出した。
 真田弦一郎、彼は、ただトランクに荷物を積める魔法を使おうとしただけで、部屋中のものがトランクに殺到したと聞く。そのせいか、それとも単にあまりの怒りからか、彼の身体から、黒く立ち上る煙か湯気のようなものさえ見える気がした。

 そして弦一郎を怒らせた本人、この凄まじい声を一番近く、真正面からぶつけられたドラコは、何とか倒れはしなかったものの、ちょっと目を回して、足をもつれさせるようにふらふらとしていた。

 しかしドラコは、いいパンチをテンプルに食らったボクサーがそうするように、何とか頭を振って目眩を散らし、隣のレイブンクローのテーブルを支えにすると、きっ、と弦一郎を睨みつける。
 ハリーもロンもドラコのことは嫌いだが、そのことに関しては、「あいつ凄いな」と思わず呟いてしまった。ただし、すごく愚かだな、という意味がほとんどを占めているが。

「ふ、ふん! そんなばかでかい声を出したりして、その粗野な振る舞いこそが、お前の品のなさを証明しているようなもの──」
「粗野で結構! 聊爾極まりない貴様に比べれば、恥ずべきことなど何ひとつない!」
「な……」

 恥ずべきことなど、何もない。
 その言葉通り、弦一郎の態度は、この上なく堂々としている。しかも、このように時代錯誤なまでの厳しい口調で言われれば、迫力もなおさらだった。

 ドラコが言うとおり、確かに彼はワイルドだ、と皆思った。
 しかし、たかだか貴族“ぶって”いるようなのとは比べるまでもなく、正真正銘、中世の騎士、いや古代の剣闘士グラディアトルや将軍のような風格を、誰もが弦一郎に感じていた。

「名家だ血筋だと大口を叩く前に、まずその無作法な態度を改めよ! 度し難いまでの慮外者に品格を説かれたところで、説得力の欠片もありはせぬわ!」
「なっ……なっ……」

 ドラコの青白い顔が、怒りでかーっと赤くなった。
 それこそ名家だ血筋だと常に言って回っているドラコにとって、無作法だとか、気品がないとかは、何よりも琴線に触れる言葉だった。しかも、相手は魔法族の概念自体が無いような国から来たマグルである。

 更には、他の人間を家や寮で判断するのが普通になっているドラコなので、「グリフィンドールだがハッフルパフ」とされた弦一郎を、完全に侮ってかかっていた。
 ハッフルパフのことをどう思っているのかはドラコ本人が先ほどさんざん態度に出したばかりだが、グリフィンドールも、四寮のうちで最も敵対する寮として認識している。

 要するに、他の誰もが弦一郎の見た目と雰囲気で彼を侮ることがないのにもかかわらず、悪い意味で彼を見た目で判断しなかったドラコは、反論されることなど、しかもこれほど真正面から思い切り向かってこられるなど、想像もしていなかったのである。

 そしてドラコがなにか言う前に、弦一郎がまた吠えた。

「いいか、よく聞け! 紅梅も俺もハッフルパフだ! そしてハッフルパフは素晴らしい寮だ! 今度我が寮を侮辱してみろ、ただではおかぬ!」

 ハッフルパフの生徒らが、学年を問わずおおいに頷き、感心し、人によっては惚れ惚れした目を弦一郎に向けている。
 しかしそんな視線を自分の背に向けられているとは全く気づいていない弦一郎は、また一度思い切り息を吸い込むと、なお大きな声で吠えた。

「わかったか、厚顔な青瓢箪め! とっとと失せろ!」

 ぶっ、と、ロンが噴出した。
 いや、ハリーも思わずにんまりした。見れば、グリフィンドールを中心に、多くの者がにやにやしている。ハッフルパフ生も、なるべく何でもない顔をしようとしているが、口の端が笑ってしまっている者が多い。

 ハリーも、笑うのを堪えた。青白い顔でひょろっとしたドラコは、確かに“青瓢箪”というのがぴったりだ。その言葉自体が妙に古臭いのも、とても可笑しい。
 しかしそのドラコはといえば、もう喩えようもない怒りのあまりに真っ赤になって、ぶるぶる震えていた。そして、それを見た“彼”が──

「あれじゃあ、青瓢箪じゃなくて、赤瓢箪だね」

 全てを黙らせる弦一郎の怒声、そしていま、笑いを堪えるためにシンと静まり返っていた大広間に、その声は、弦一郎とはまた違う様子で、とてもよく響いた。
 それはもう、この上なく絶妙なタイミングで発された声だったといえよう。

 そして、──途端、ドッ、という、雪崩のような空気の崩壊があった。

 ハリーは思い切り吹き出してしまって眼鏡が盛大にずれたし、ロンはもう涙を滲ませてげらげら笑っている。彼の双子の兄は爆笑のあまり椅子から転げ落ち、転げ落ちてもまだ腹を抱えて笑っていて、テーブル越しに、ばたばたしている足が見えた。
 監督生のパーシーは口を一生懸命押さえているが、肩がぶるぶる震えているし、耳が髪の毛と同じぐらい真っ赤になっているので、何もかもが無駄に終わっている。

 あいかわらず大げさなグリフィンドールはこんな調子だが、他の寮も似たり寄ったりである。あろうことか、ドラコの味方だったはずのスリザリン生でさえ、「青瓢箪」「赤瓢箪」には笑ってしまったようで、顔を逸らしている。

 そしてその原因、かの発言をした張本人の幸村精市はといえば、美しく微笑み、悠々と紅茶のおかわりを飲んでいた。

「なん……、な……」

 そしてドラコは、想像もしたことのないようなあまりの恥辱にますます真っ赤になり、その具合といったら、今にも爆発するのではないかというほどだった。

 周りの生徒らは、彼が弦一郎に掴みかかるのではないかと思った。
 しかし同時に、どこからどう見ても“青瓢箪”のドラコ・マルフォイに対し、真田弦一郎は同い年の、しかも幼く見えると一般的に言われる日本人とは思えぬほど背も高く、いかにもスポーツマンという体格だ。ついでに言えば表情も非常に険しく、猛獣めいた迫力がある。

 掴みかかったところで、勝負は見えている──と、ドラコ本人も思ったのかどうかはわからない。しかし彼はぐっと拳を握りしめたと思いきや、ヒステリックに叫んだ。

「──ゴイル! クラッブ! やってしまえ!」

 いかにも悪役、しかも小物感丸出しのその台詞に、精市だけでなく、蔵ノ介、また清純も噴出する。しかしそれは、ドラコの命令に応えてドスドスと走りだした巨漢二人に注目する生徒たちには聞こえなかったようだ。

 ゴイルとクラッブは、二人がかりで、弦一郎に掴みかかろうとした。
 しかし弦一郎は全く動じず、むしろ更に前に一歩出た。その一歩は、腰を落としたとても重い一歩で、近くにいた者には、まるで地面にめり込んだのではないかと思うほどどっしりした一歩であるのがわかった。

 ──瞬間。

 まずクラッブの巨体が、宙を舞った。
 遠巻きにしていた者にも、人垣の向こうで太った男子生徒が逆さまになって浮いたのが見え、それはとても滑稽で、訳の分からない光景だった。
 そしてそれにぽかんとしていたクラッブのローブの合わせ目を素早く掴んだ弦一郎は、彼の足を払い、思い切り転ばせ、それと逆方向に、ローブを掴んだ腕を思い切り引く。
 ギャラリーの目には、クラッブが、側転の要領でぐるんと回転したかに見えた。

 ──ズダダァン!!

 ふたつの巨体が、僅かにずれたタイミングで地面に衝突する音が、大広間に響く。

 シン、と、大広間がまた静かになった。

 弦一郎が見た目からして喧嘩が強そうなのは確かだが、ゴイルも、クラッブも、それぞれ弦一郎の倍以上の体重がありそうな巨漢である。
 てっきり大乱闘になるだろうと思っていた面々は、あっという間に決まってしまった決着に、ぽかんと口を開けて呆気にとられていた。
 弦一郎の後ろにいる紅梅が、口元に綺麗に揃えた指を当てて、「あらぁ」とのんきな声を上げたのが、とても場違いで、いっそシュールに感じられるほどだ。

「ふん。──愚鈍なのはどっちだ

 弦一郎が、吐き捨てるように言う。
 途端、わあっ、と、割れるような歓声が起こった。

 自分よりはるかに重い二人を一瞬にして投げ飛ばした弦一郎に、特に男子生徒らが、興奮しきった目を向けている。
 ハリーやロンも非常にすかっとしたし、同じ気持の生徒は少なくないだろう。

 今までただその体格に物を言わせてきたゴイルとクラッブは、実のところちゃんと格闘技などを習ったり、ましてや自分から学ぼうとしたことなど一度もなかったので、思い切り投げ飛ばされても受け身など取れず、そのまま石の床に叩きつけられていた。
 宙を舞ったゴイルは、ううう、と呻いて、うずくまったまま起き上がろうとしない。
 クラッブは肩を打ったようで、「痛い、痛い」と喚きながら、無様に涙と鼻水を流していて、至極汚い顔になっていた。

「見たところ、かなり綺麗に投げられたので、そこまで痛くはないはずだが……」

 元警察官、しかも柔道師範をしている祖父から、本格的ではないにしろ幾らかのことは習っている国光が、眉を顰めて言った。
 もしやテーブルの角かなにかにぶつけたのか、と訝しげな彼に答えたのは、隣にいる貞治。

「いや、手塚の言うとおりだと思うよ。俺の位置からは彼らがよく見えるが、どこにもぶつけていなかったし、体の脂肪がすごいので、それがクッションになって頭も打っていない。まあ、床が石だから、それなりに痛かったとは思うが」
「なら、なぜああも苦しんでいるのだ? 魔法か?」
「……うーん、二人共、図体は大きくても、というか、あの肥満具合から推測するに、相当甘やかされて育てられ、殴られたりしたことが殆どないのでは? 要するに、単に痛みに弱いだけさ。何の魔法もかかっちゃいないよ」

 貞治は、何かノートに書き付けながら言った。
 そして国光は今度こそ呆れ、「普段から油断しきっているということだな」と厳しい目をした。

 ──そして、ドラコはといえば。

 無様にのたうち回っているゴイルとクラッブ、歓声を上げる他寮の生徒という信じられない状況に、目も口もまん丸くして、ぽかんと立ち尽くしていた。
 綺麗にオールバックに撫で付けられたプラチナブロンドが、一筋乱れて、青白く戻った額に張り付いている。

「失せろ、と言ったはずだが。……まだやるのか? 今度はお前が相手か?」

 ぎろりとドラコを睨みつけ、弦一郎はローブの袖を捌いた。
 紅梅もそうだが、和服の上から採寸をし、マダム・マルキンが和服の上からでも羽織れるように仕立ててくれたため、彼らのローブの袖は、和服のそれだった。
 元々ローブというものは袖口が広く、全体的にズルズルしたものなのでさほど目立ちはしないが、こうして袖を捌く仕草をすると、和服の風情がそのまま醸しだされる。

 しかも弦一郎の腰には、十手になった杖がある。
 そのため、今の弦一郎は、まるでちんぴら浪人をこらしめた同心、与力のようであった。
 ──とはいっても、ここはイギリス。しかも魔法界なので、そう感じる者は、同じ日本からの留学生たちだけだったが。

「ひっ、……な、なんて野蛮なんだ……こんな……」
「……いや、最初に二人をけしかけたのはお前だろ……」

 この期に及んで被害者意識丸出しのドラコに、清純が、さすがにあきれ果てた声で言った。周りのハッフルパフ生が、うんうんと頷いている。

「──弦ちゃん」

 その時、ずっと後ろで黙っていた紅梅が、この場にそぐわないほどの穏やかな声を出した。呼ばれた弦一郎はもちろん、多くの生徒が彼女に振り返る。
「手ぇとか腕とか、どうもおへん? ひねったり……」
「うむ、まったく大事ないぞ。心配無用」
 弦一郎はしっかりと頷き、二人を投げ飛ばした右手を、握ったり開いたりした。紅梅はほっと息をつくと、たおやかに微笑む。

「ああ、よろしおした。なんや、えろぅ重たそぉなお人らやし。こないなことでケガでもしてラケット握れんよぉなったら、あほらしよってな」

 にっこり、と微笑んではいるが、“こないなこと”とか、“あほらし”など、言っていることはなかなか辛辣だ。
 何かツボに入ったのか、蓮二が口元を彼女と同じ扇の杖で隠し、ぷっと吹き出した。スリザリンでは、周助がくすくす笑っている。

「ミスター・マルフォイ?」

 紅梅は体を横に折り、弦一郎の陰からひょいと顔を出すようにして、ドラコを見た。
 やはりその顔は穏やかに微笑んでいるが、しかしそれは、相手に親しみを向けるような気配が一切ない、京女特有の、独特の微笑みだった。

「申し訳おへんけど、──うち、ここに居とおすよって」

 ここに、というのは、ハッフルパフにという意味と、弦一郎の側にという意味、両方の意味だというのは、誰にでも理解できた。
 彼女は向かい合った弦一郎の影から顔を出すようにしているし、その指先は、弦一郎のローブの裾らへんにそっとかかっている。見ようによっては、抱きついているようにも見える姿勢だ。
 そして彼女の周囲にあるのは、明るいカナリア・イエローたち。

 口でも、風格でも、そして力づくでも、真っ向から完膚なきまでに反撃されたばかりか、目当ての女の子にまで完全に“ふられた”ドラコは、この上なく無様だった。
 あんまり無様なので、同情の目で見ている者すら出てきている始末だ。その目は一様に、「自分が彼だったら、とても耐えられない」と言っていた。

「一体、何をしているのです!」

 完全にお祭り騒ぎとなっていた大広間は、険しい顔をして現れたマクゴナガルの一喝で、一気にすくみあがった。
 彼女は近くにいる生徒たちから手早く事情を聞きつつ、床で大きな図体を転がしながら、幼児のように泣きわめいているゴイルとクラッブの様子を確認した。

「……なにひとつ怪我はしていませんね。起きなさい」

 はあ、という溜息とともに発されたマクゴナガルの台詞に、何人かが呆れ、何人かが嘲笑し、何人かがぷっと吹き出した。
 そして貞治の「単に痛みに弱いだけ」という推測が真実であったことを知った国光は、理解できないものを見るかのような、非常に難しい顔をしている。

「ミスター・マルフォイ。あなたのやったことは、お世辞にも褒められたことではないようです。そしてミスター・サナダも、これは少々やりすぎですね。──スリザリン、ハッフルパフ、両方からそれぞれ10点減点!
「……はい。申し訳ありません」

 弦一郎は、そう言って深々と頭を下げる。
 しかしドラコは、完全にふてくされたまま、何も言わない。同じスリザリンの生徒から慰められるようにポンと肩に手を置かれ、しかしそれを振り払うようにして、床を踏み鳴らすような歩きかたで、どこかに行ってしまった。
穴熊1/2//終