他寮の皆とも、そして清純とも離れた弦一郎と
紅梅は、昨日と同じくハッフルパフの長テーブルに着き、大皿に盛られた朝食をそれぞれよそった。
メニューは相変わらず膨大で、パン、シリアル、ポリッジにオートミール。ポーチドエッグや目玉焼き、ゆで卵などの卵料理、かぼちゃジュース、オレンジジュース、ベーコン、キッパーなど。
フルーツや生トマトのスライス、ベイクドビーンズやマッシュルームのソテーなどもあり、比較的ヘルシーで食べやすいメニューが多く、二人にとっては、昨日の歓迎会の夕食よりも美味しく感じられた。
イギリス料理については、「イギリス料理で一番美味しい食事は」という質問の答えとして、迷いなく朝食が挙げられる、というのは、既に一般常識である。
かの作家サマセット・モームの「イギリスで美味しい食事がしたければ、一日に三回朝食を取ればいい」という有名な言葉におおいに同意しつつ、二人は昨日の重い食事を忘れるかのように朝食を食べた。
「弦ちゃんは、あんまり、言いとぉない?」
また箸で食事をしている
紅梅が、ひっそりと言った。
ちなみに、彼女は弦一郎の箸もまた持ってきてくれていたので、弦一郎も箸で食事をしている。
主語のない、ぼんやりとした問いかけだが、もちろん、弦一郎には、何を言われたのかはわかっている。先ほどのことだ。
「……別に」
ごくん、と卵を咀嚼して飲み込んでから、弦一郎はぶっきらぼうに言った。
質問の内容より、自分がひどく愛想悪くそれに答えてしまったことに、弦一郎は今度こそ、少し不機嫌になる。だがそれを察しているのか、
紅梅は相変わらずの微笑のまま、おっとりと言った。
「まあ、そない言うて回るもんでもおへんしなあ」
紅梅はそう言って、箸で器用にトマトのスライスを摘んで、汁の一滴も落とすことなく口に運んだ。小さな口が、もくもくと動いている。
そんな穏やかな
紅梅の態度に、弦一郎は、すとんと肩の力が抜けるのを感じた。
──ああ、いつもこうだ。
弦一郎の中に湧く、曖昧な苛つきとか、短気が起こしたくだらない怒りとか、ぼんやりした不安とか。彼女はそれらを、はっきりと力強く吹き飛ばすのではないが、さらりと薄めて消し去るようにして、弦一郎の中から追いやってくれる。
手紙の言葉でも、そして、こうして実際側にいる時でも。
「……別に、お前とのやりとりが恥ずかしいとか、そういうことじゃない」
弦一郎は、他の者には聞こえないくらいの音量で、しかしはっきりと言った。
もやもやとしたものはもうすっかり晴れていて、素直な気持ちだった。手紙を書くときのような、彼女にしか知りえないことだからと、自分の正直な思いを文字にする時と同じ気持ちで、弦一郎は今思っていることを言葉にした。
「ただ、……俺達だけの事だろう。あまり、人にべらべら言いたくないだけだ」
「ふぇ、ふ」
珍妙な笑い声がしたので、横の
紅梅を見る。彼女はにこにこしていた。
「そやねぇ」
紅梅は、昨日も見た、蕩けるような微笑みを浮かべながら言った。
「うちらだけ、自分らァで知っとったら、よろしおすわなぁ?」
「……うむ」
そうだ。自分たちは、これでいい。
その結論が、弦一郎の心に安定する。
すっかり落ち着いた気分でもって、ではそろそろ食べ終えるので、早めに授業に行くか──、と、
紅梅に言おうとした、その時だった。
「──ミス・ウエスギ? ちょっといいかな?」
「なあ、あいつ、マルフォイの野郎。ハッフルパフのテーブルで何してるんだ?」
昨日の夕飯と同じように、食べたこともないようなおいしい朝食に舌鼓を打っていたハリーは、肩を叩いてそう言ってきたロンに従い、ハッフルパフのテーブルの方向に顔を向ける。
しかし、いつの間にか皆がそちらに注目していたので、あまり背の高くないハリーは、首を鳥のように伸ばさなければならなかった。
そしてその甲斐あって、皆が注目しているのが、ロンが言ったとおり、なぜかハッフルパフのテーブルへと、あの図体ばかり大きなクラッブとゴイルを引き連れてやって来ているドラコ・マルフォイだということがわかった。
「あれって、……サナダと、ウエスギ?」
遠目に見ても相変わらず偉そうな態度をとっているとわかるドラコが相対しているのは、同じ真っ黒な髪をした男女二人だった。隣のコンパートメントだった、ちょっと近寄り難い日本からの留学生のうちの二人だ、と、ハリーはすぐに思い当たる。
訝しげな声で言ったハリーに、ロンも、同じような表情で首を傾げた。
「うん。マルフォイがいきなりやって来て、あの二人──あ、いや、ウエスギのほうに話しかけたみたいだ。例によって、ひどく馴れ馴れしくね」
「ふうん」
その自分の返事がやけに響いたので、ハリーは、他の生徒達が皆、彼らに注目し、その会話を聞こうと口を噤んでいることに気付いた。あれほどざわついて騒がしかった大広間が、今ではちょっと話し声がする程度の礼拝堂のようになっている。
片や昨日から注目の的である日本留学生、片や魔法族では名家として有名なマルフォイ家の子息であるので、この状態は自然なものである、というようなことを、周りのひそひそ話で、ハリーは把握した。
なるほど、マルフォイ家のことはともかく、日本人留学生が注目を集めていることには、ハリーも同意である。
ハリーもまた、「あのハリー・ポッター!」と彼ら以上に注目されているが、彼らがいるおかげで、皆の興奮がずいぶん分散されている、とは、ロンや彼の兄たちの意見だ。
おそらくそれは間違っていないし、注目されても全く動じない彼らには感心するし、なんだか親近感も湧いて、この未だかつてない扱いも、ハリーは何とか気にしないでいられた。
同じグリフィンドールのテーブルの、少し向こうに座っている幸村精市を、ハリーはちらっと見た。彼の両隣には、白石蔵ノ介と、藤宮
紫乃がいる。
三人とも穏やかに談笑していて、留学生仲間がドラコに絡まれていることには気づいていないようだ。
静かになった大広間のおかげで、ドラコがやたら気取った話し方で、上杉
紅梅の祖母の『紅椿』がスリザリン出身であることや、いかにスリザリンらしい人だと聞いているか、そしてその血を引く
紅梅がどれほどスリザリンにふさわしいか、というようなことを言っているのが、ハリーにも聞こえた。
なるほど、彼女の親族が有名な魔女だと知って、お近づきになろうとしているということか──と、誰もが一瞬にして把握できるくらいに、ひどくあからさまな態度である。
実にくだらない。ハリーは素直に、そして簡潔にそう思った。
そしてそんなくだらないことを言われている彼女は、「へぇ」とか「そうどすか」など、独特のまろやかな発音で、おっとりと返事をしている。
あんまり声が落ち着いているので、もしかして快く聞いているのだろうか──と思い、ハリーは彼女の表情を伺ってみる。
すると、彼女は確かに微笑んでいて、一見愛想よくしていた。
しかし見れば見るほど、なんだか安物の型押しの聖母像のような、至極どうでもよさそうな微笑みであることがすぐわかって、ハリーはちょっと笑いそうになった。
「組分け帽子は、“スリザリンだが”ハッフルパフ──と、不思議な事を言ったようだね。どういうことか、質問してもいいかな」
ドラコは、まるで上司か教師のように言った。
本人は気取って、貴族っぽく言っているつもりなのかもしれないが、単に高慢な態度にしか感じられない。
紅梅の隣に座っているのにまるで無視され、挨拶さえされていない弦一郎はもちろんのこと、周りのハッフルパフの生徒達は、何だこいつ、というような表情である。
隣のテーブルのレイブンクローはどちらかというと我関せずという感じだが、向こう隣のグリフィンドールは何が起こるのかとわくわくしている顔が多いし、一番遠い、そしてドラコが属するスリザリンは、何人かがわざわざ自分の席を立って、話をよく聞こうと寄ってきている始末だった。
しかし景吾と周助がこの騒ぎに対し、険しい顔もしていないがお世辞にもいい気分ではなさそうなので、優雅に食後の紅茶を飲んでいる彼らの周りに留まっている者も多い。
「へぇ、その──」
紅梅は、少し首を傾げて、静かに言った。
「本来やったらスリザリンや、いうことらしいんどすけど」
「ほう、ほう! やはり!」
ドラコは、得たり、とでもいうような、非常に機嫌の良さそうな声を出した。ただし、隣にいる弦一郎の機嫌は、じわじわと下がってきている。
「やはり、スリザリンのルージュ・カメリアのお嬢様は、スリザリンであらせられる! ──それで、そんな君が、どうしてハッフルパフ
なんかに?」
弦一郎だけでなく、ハッフルパフ生全員の機嫌が急降下した。
しかしドラコは、それに気付かないだけでなく、周りを気にする素振りすらない。
スリザリン生の幾人かはドラコの言葉におおいに頷き、そしてグリフィンドールは、相変わらずわくわくしている。そろそろ、レイブンクローの生徒も、聞き耳を立て始めているようだった。
「
ハッフルパフは、すごぉくすてきな寮で、大好きどすけど、」
紅梅は、幾分強めに前置きした。ハッフルパフ生たちの空気が、少し和らぐ。
「うち、弦ちゃんと一緒が良かったんえ。そしたらお帽子はんが、うち一人やったらスリザリンやけど、弦ちゃんと二人やったらハッフルパフやて言わはったん」
「ああ、やはり」
弦一郎が、この件において、初めて口を利いた。
しかも、その表情は、先ほどまで、今にも爆発しそうだった険しいものとは、比べ物にならないくらい平然としている。まるで、天気の話でもしているかのような顔だ。
「──お前もか。俺も、一人だとグリフィンドールだが、お前といるならハッフルパフだと言われて、ハッフルパフになった」
「あらぁ、弦ちゃんも? ふふ」
紅梅が、蕩けるようなにっこり笑顔を浮かべる。
その様子に、寮を問わず、ずいぶん多くの生徒が、限界まで砂糖と生クリームとコンデンスミルクを混入したプディングを、口に思い切り頬張ったような顔をした。
そうでない生徒は、ぽかーんとした顔をしている。
なんとなく、ハリーがちらっと精市を見ると、彼は、目を細めた半笑いになっていた。なんだか、下手に声をかけたら殴られそうな気配のする笑顔である。
その顔になんだかひやっとしたハリーは、そっと彼から視線を逸らした。
「……つまり、ひとりずつならいいけど、二人揃ってバカップルになったら、懐の深いハッフルパフじゃないと受け入れ不可ってことだろ……」
「うん、幸村君、抑えて? 俺も気持ちはちょっとわかるけど抑えて?」
笑みを浮かべたままぼそぼそと言う精市の肩に、蔵ノ介はぽんと手を置いた。
精市を挟んで逆隣の
紫乃は何も言わないが、「私もみっちゃんとおんなじがいいって言ってたら、ハッフルパフだったかなあ」と思いつつ、しかしグリフィンドールだったことに悔いはない、と、一人きりっとした顔をしたりしていた。
レイブンクローでは蓮二がにやっとした顔で開眼し、貞治がノートにがりがりと何か書き付けている。
国光は、先ほど
紅梅を怒鳴りつけた弦一郎にショックを受けたところだったので、今度はまたひどく仲の良さそうな二人を目の当たりにして、その関係性に戸惑っていた。
少なくとも、スリザリンの生徒たちの半分くらいは、ドラコの肩を持つ顔をしていたが、
紅梅と弦一郎のやりとりに、ぽかんとしているようだった。
紅茶を飲んでいた景吾もまた、呆れた顔をしている。
周助も似たような感じだが、肩をすくめ、「見せつけられるね」と言ってくすくす笑っている。
そして当のハッフルパフでは、「いいなあ、まだ一年生なのに恋人がいて」と羨ましそうな顔の者が数人。そして何やら今までで一番ぬるい顔をしていた清純に、セドリックが「ねえ、何? 彼らは結婚でもしてるの?」と、冗談交じりに朗らかに聞いた。
清純は、ぬるい顔のまま、「ああ、もしかしたら、そうかも」と適当な返事をしている。
「そやけど、みぃんなえろぅ親切やし、居心地良ぅて、ハッフルパフでほんに良うおした」
「うむ、俺もそう思う。まだ初日だというのに、これほど誠実で穏やかで、何というか、思いやりのある人間が集まったところはないと感じるぞ」
俺はハッフルパフに来てからというもの、親切にしかされていないからな、と、弦一郎は恥ずかしげもなく、堂々と、微笑みさえ浮かべて言った。
ちょっと呆気にとられていたハッフルパフ生たちが、二人のその言葉に、みるみる満足そうな、誇らしげな顔をする。
もちろんハッフルパフ生も他寮と同じく、自分の寮に対する誇りと愛がある。
しかしハッフルパフに対しては、ドラコのようにやんわりと落ちこぼれ扱いする者が、残念ながら少なくない。
そしてその穏やかさ故に反論せず流し、黙々と努力を続けることが自分たちのやり方だとしているハッフルパフであるが、それだけに、弦一郎と
紅梅の手放しの賞賛は、とても誇らしく、嬉しい事だった。
しかし、ドラコは全くそうではなかった。
まず、実は、汽車の中で見かけた着物姿の
紅梅が彼の印象にとても強く残っていて、名前を聞きそびれたことが、どうもずっと気がかりだった。
見た目から明らかに日本人留学生組の一人だということはわかっていたが、昨日の組み分け前、名家というのとは違うが、スリザリンの中のスリザリンと名高い、カードにもなっている紅椿の孫娘ということを知って、ドラコは彼女にとても関心を持ったのだ。
当然、彼女はスリザリンに来るだろう。そしてそうなれば、ぜひ仲良くしてみたい。そう思ってわくわくしていたのに、彼女が組み分けられたのは、ハッフルパフ。
帽子が「スリザリンだが」と言ったこと、そして周りのスリザリン生たちも、てっきりうちに来ると思っていたのに、とか、帽子が言ったことはどういう意味だ、としきりに噂しているのもあって、ドラコはどうにも諦めがつかず、こうして彼女に話しかけに来た。
しかし、彼女はよりにもよって、あの、汽車の中で彼女の名乗りを邪魔した、いけすかない、魔法族という概念すらない異国の、しかもマグルの男子生徒と一緒だからハッフルパフになった、と言った。
ドラコにとってそれは許しがたく、ありえないことだった。
「ふん──、なるほど。君は確か、サナダ、だったかな?」
「ああ、真田弦一郎だ」
弦一郎が、はっきりと名乗る。しかしドラコはフンと鼻で笑い、挨拶どころか、聞いておきながら自分は名乗りもしなかった。
「ああ、ああ、なるほど。
君みたいなのと一緒にいるものだから、本来気高きスリザリンに組み分けられるはずの彼女が、
愚鈍なハッフルパフなんかに入れられてしまったわけだ。実に嘆かわしいね!」
まるで悲劇のオペラのクライマックスのように言ったドラコに、温厚なハッフルパフの生徒らも、さすがに思い切り顔をしかめる。
隣のレイブンクロー生が、すっかり注目していた。
逆隣のグリフィンドールは、もう、にやにや笑いを隠しもしていない。
そしてスリザリンの多くは、ドラコに対し、いいぞ、とでもいわんばかりの表情をしていた。
「ミス・ウエスギ! ああ、今からでも遅くはないさ。何しろ本来ならスリザリン、と帽子も言っていることだしね。さあ、僕と一緒に先生に掛けあって──」
「この、痴れ者がァ!!」
──ものすごい声だった。