【if/許嫁ルート】
皇帝の許嫁
(後)
「ひぃっ……弦ちゃ……弦ちゃんて……腹痛ェ……!」
「ええい、しつこいぞ貴様ら!」

 あれから一度ホテルに戻り、荷物を纏めるなどしてそれなりに時間が経っているというのにまだ笑っているチームメイトに、弦一郎はこちらももう何度目になろうか、がっと怒鳴りつけた。
「俺が弦ちゃんと呼ばれているのの何がおかしい!」
「ぶほぉっ」
「自分で、いうなって、ヒー!!」
「やべえ……マジやべえ……」
 涙を流しながら、雅治とブン太、赤也が膝をついた。もはや呼吸困難のレベルに陥っている彼らの背を、ジャッカルが擦っている。比呂士もまた、口元を押さえてぶるぶると肩を震わせていた。

「いや、無理ないだろ。そもそもお前が“弦ちゃん”ってガラか」
 俺らはもう慣れてるけど、と、精市がごくフラットな口調で言った。
「おはどうも、親しい者を渾名で呼ぶ癖があるしな。男は俺たちの他ほとんどいないようだが、相手が女性だとほぼ渾名で呼ぶぞ」
「女の子ならかわいいけどさあ。あと俺は違和感ないけどさあ」
 精市のその発言に、自分で言うな、と弦一郎が低い声で吐き捨てるように呟き、精市は笑顔のまま、弦一郎のふくらはぎをガッと短く蹴った。

「せぇちゃん、蓮ちゃん、弦ちゃん、か。三強を……」
紅梅先輩スゲェ……」
 やっと落ち着いてきたらしい雅治、そして赤也が、ボソリと、しかし重々しい様子で言った。確かに、中学ジュニアテニストップ、三強と呼ばれるこの三人をちゃん付けの渾名で呼ぶ人間というのは、他にいないだろう。

「……あー、腹痛ェ。で、これからなんだけど」
 呼吸を整え、目尻の涙を拭いつつ、ブン太が言った。
 ちなみに現在、揃って碁盤の目状の京都の街を歩いているところである。

「柳の姉ちゃんも来るんだよな?」
「ああ、言い出しっぺだしな」
 蓮二が頷く。彼も姉に会うのは少し久々であるようで、嬉しそうな表情だった。
「俺、舞妓さん生で見るの初めてだぜ。楽しみだけど緊張するな」
 そう言ったジャッカルは、どきどきわくわく、といった様子である。ハーフとはいえ、見た目まったく日本人には見えない彼が言うと、妙にしっくり来る台詞だ。
「俺もッス! 舞妓さんの前だと騒いだりできないッスね……」
 こちらも興奮した様子で、赤也が言った。

「それにしても、打ち上げが京都で、舞妓さんも呼べるとは、本当に豪勢ですねえ」
「嬉しそうじゃな、やぎゅ」
「お座敷遊びは、一度体験したいと思っておりました」
「……中学生が思うようなことじゃなかぞ」
 うきうきしているダブルスパートナーを、雅治は、呆れたような様子で見た。だがしかし、彼もまんざらではない様子である。

「気楽にしてくれ。俺の姉だし──、おも来る」



 そうこうしているうちに辺りも暮れ始め、一同は『瓢屋』と流麗な文字の看板がかかった店に着いた。奥まったところにある、いかにも一見さんお断りの様相の扉に誰もが期待や好奇心とともに緊張も見せたが、蓮二は、慣れた様子でその扉をがらりと開けた。

「へェ、おいでやすぅ」
 そう言って玄関先で出迎えてくれた、だらりの帯を締め、お引き摺り姿で現れた本物の舞妓に、おおおお、と、一同から感動の声が上がる。
「俺の姉の、紅芙蓉だ。今回の場を整えてくれた」
 蓮二が紹介すると、「あざーっす!」「ありがとうございます」と、体育会系を通り越して軍隊系と揶揄される立海らしい、威勢のいい感謝の声を上げ、全員が深々と頭を下げる。

「優勝、おめでとうはんどしたなァ。おくたぶれはんどした。ささ、上がって上がって」
 紅芙蓉に促され、一同、靴を脱いで座敷に上がる。
 一見さんお断りの高級料亭で、本物の舞妓に案内されるという状況のせいだろう、一番行儀の悪い赤也でさえ、言われずともきちんと靴を揃え、あまり音を立てないようにおとなしく廊下を歩いた。
 美しい座敷に用意されていたのは、祝い膳。朱塗りのそれが、いかにも祝の席だということを主張してくる。料理はまだ全て揃っていないようだが、美しく盛り付けされたそれを見た途端、さんざん運動した一同の腹がぐうと鳴った。
「あ、弦一郎君は、あっこの端え」
「え? はあ」
 いつもどおり、役職順、とでもいおうか、部長である精市が座った上座の次の席に座ろうとした弦一郎は、紅芙蓉に促されて、精市の向かいの席に座る。途端、紅芙蓉と蓮二、柳姉弟が顔を見合わせて僅かに笑ったのだが、彼はそれに気づかない。

「ほな、ささやかながら、うちらからお祝いさせてもらいますぅ」

 そう言って、すすす、と滑るように移動した紅芙蓉は、せぇの、と小さく声をかけてから、続きの間を仕切る襖を、一息にさっと開く。

 襖の向こうに現れた光景に、一同、呆気にとられて目を見開く。
 そこには、舞妓や芸妓が十人近く並び、揃って指をつき、美しく頭を下げていた。

 ──優勝、おめでとうはんどすぅ──

 なめらかな声で祝いの言葉が贈られ、白い顔が一斉に上がった。

「す、すげー! マジすげー! 感動したッスよー!」
 赤也が、目をきらきらさせている。
「た、確かにこれはすげえな……」
「これほど豪勢なのも、なかなか無いですねえ……」
「貴重な体験じゃのう」
 ブン太、比呂士、雅治である。立ち上がった彼女らにそれぞれ横に着かれ、酒ならぬ茶を杯に注がれた面々は、さすがにどぎまぎしている。
「……おいおいおい、こ、これいくらかかんだよ……怖ェんだけど……」
「心配するな。姉とおが、今日予定が開いている方に声をかけてな。祝ってくださるそうだ」
「……つまり」
「無償」
「マジか」
 なら安心、いややっぱむしろ怖い……とぶつぶつ言い始めたジャッカルに、「大事おへんえ」と、紅芙蓉がにこにこと声をかけた。

「実はな、うちらやお姐はんらァの間で、テニス男子が大流行なう、やの」
「えっ、そうなの?」
 精市が、興味津々といった様子で振り返った。紅芙蓉が頷く。
「例によって、うちとちゃんが立海立海いうて追いかけとるんに興味持ってくれはったんが最初でな? お姐はんらァ、可愛らしもん、きれいなもん、きらきらしとるもん、大好きやさかい。ほれ、最近、月刊プロテニスやらがジュニアテニスの見目のええ子ォらを特集したりして、売り出しとりますやろ。あれですっかりアイドルや。声かけた時も、あんたはんらァに会えるんやったら是非て言わはってな」
「ああなるほど。あそこの売り方も賛否両論だけど、こういう役得があるなら良かったかも」
「精市君は正直やなあ」
「だって、きれいなお姉さんに囲まれたいもーん」
 精市がかわいこぶって言うと、舞妓や芸妓から、きゃー、と黄色い声が上がる。「幸村精市君やー」「やァ、写真よりきれいな子ォやわあ」などと言う彼女らに周りを囲まれ、精市はたいへんなご満悦顔になった。

「たるんどる。馬鹿め」
「まあ、まあ」

 本当に馬鹿を見る目をして吐き捨てた弦一郎を、蓮二が諫める。とはいえ、どちらかが調子に乗っているとき、もう一方がこうして馬鹿にしきった顔をするというのは、この二人にとってはいつものことであるのだが。

「そや、そや。弦一郎君には専属がおるよってな」
「は?」
「おちゃーん、出番えー」
 紅芙蓉が呼ぶと、芸妓らが、自分たちが出てきた方向とは反対側の襖を、すっと開ける。

 ──そこにいたのは、深々と頭を下げ、紅色の着物を着た舞妓だった。

 締めた帯は、見習いを示す、半分の長さの、半だらと呼ばれるもの。
「このたびは──」
 しっとりと染みこむ、なめらかな水のような声が響く。

「──おめでとうはんどした」

 上げた顔は、白い。
 だがその白塗りの化粧でもわかるほど、その表情は蕩けるように嬉しげに微笑んでいた。赤く塗られた小さな唇の端は、上品ながらもはっきりと弧を描いている。しゃらり、と、日本髪のかんざしの飾りが音をたてた。

「……紅梅
「へェ」
 弦一郎が呼ぶと、半だら舞妓の姿の紅梅は立ち上がり、端に座っている彼の隣にあるスペースに、すっと流れるように座った。彼女が現れ、歩き、座るまで、ずっと見ている弦一郎と目が合うと、またにこりと笑みが溢れる。

「おくたぶれはんどした」
「……うむ」

 何も言わずとも弦一郎が杯を差し出し、そして同じく当たり前のように、紅梅がそれに注ぐ。

 普段、弦一郎は、あまりの時代錯誤な言動や態度をからかわれがちで、本人は全くそんなつもりはないが、まるで彼の持ちネタのように扱っている者がほとんどだ。
 しかし今彼が許嫁とするやりとりは、あまりにも今の場にしっくりきており──そして堂に入ったものでもあったため、誰もがぽかんとそれに見入り、一人も彼らをからかう者はいなかった。

 ただ、とてもご満悦な顔で許嫁が注いだ杯を干した弦一郎を、精市だけが、馬鹿にしきったような半目で見遣っていた。



「いや、弦一郎とおは、家が決めた許嫁ではないぞ」

 丁寧にも、食べ盛りの男向けにボリューム多めにしてくれた高級料亭の料理に舌鼓を打ちつつ、舞妓や芸妓らとお座敷遊びをしていた面々であったが、一息ついた頃、蓮二が言った。
「そうなんか?」
「ああ。まあ、普通許嫁というと家が決めるものだが、あの二人はそうではない。むしろ仲が悪いというか、一度出入り禁止だとか、縁を切るようなことをした同士だそうだ」
「……なんでそれで許嫁になるんじゃ」
 不思議そうに、しかし興味津々で首を傾げる雅治に、蓮二は品よく料理を食べながら、言った。
「聞いた所によると、二人が出会ったのは、小学校二年生の夏。別に弦一郎とおを合わせようという目的ではなく、おの祖母の紅椿殿の舞台の用意がある間、ついてきていたおが、真田家に預けられた」
「ふんふん」
「それで、弦一郎がおに一目惚れに近い初恋をし、翌日、紅椿殿の楽屋に単身突撃して結婚の許可を貰いに行った」
「はァ!?」
 予想外すぎることだったため、テニス部一同、素っ頓狂な声を出した。
「え、そうなの。それ俺聞いたことない。何やってんの真田は」
 ちゃっかり芸妓の一人の膝に頭を乗せた精市が、半目になって言った。お前こそ何をやっているんだ、と突っ込む者はいないが。

「今となっては少々照れくさい話なのだが──、とは、本人も言っていたな。幼さゆえの一途な暴走、というところだろうか」
「で、それが受け入れられちゃったわけ?」
「おも似たようなものだったらしく、な。それで、一年間文を交わして、それでも双方の気持ちが変わらなければとりあえず許嫁に、ということになったそうだ」
「“ふみをかわして”って、何時代の話だよ……」
「おそるべきことに、平成の世の話だ」
 ブン太のつぶやきに、蓮二は淡々と、しかしどこか面白がっているような様子で答えた。
「そしてさらに、小学生時代は文通のみ、夏に一度だけ会うという習慣になった。電話やメールはなし。おは舞妓修行と花嫁修業の両方をこなし、弦一郎は彼女を迎える用意をする。そうして過ごして、まだ気持ちが変わらないなら、中学に上がったら、好きな時に会っても良い、ということになった。無論、節度を守った上でだが」
「はあ。それはまた。しかしそういう様子ですと、やはり、彼氏彼女などというよりは、貞節を重んじる時代の許嫁、という感じですね。確かに時代錯誤ではありますが、同時にロマンティックで、いいではないですか」
 かなり好意的な様子で、比呂士が言った。

「まあ、そうだな。それで、中学を卒業してもまだ気持ちが固いのなら、おはいよいよ舞妓になるのをやめて、弦一郎の所に来る予定になっている」
「え、早くねえか? 中学卒業って、十五、十六だぞ?」
 ジャッカルが、驚きを通り越して怪訝な顔で言った。蓮二が苦笑する。
「確かに、普通ならかなり早い展開だ。しかし十六ともなれば女のおは結婚できる歳になるし、同時に舞妓として店出しするべき歳にもなるからな」
「へー、舞妓さんってそんな若い時からやるんスね」
「他の県だと十八からだが、京都は特別条例が適用されるからな。で、高校を卒業したら、おそらく結納。大学に行くのなら卒業してから入籍、挙式、となると聞いている」
「……スゲー……」
 決まりすぎるほどばっちり決まっている予定に、まるで別世界だ、という様子で、赤也がぽかんとした顔で言った。

「……スゲーってか、よくやるよな。二人共後悔とかしねえのかね、そんな最初っからコイツと結婚するって決めちまって」
「だよなー。いや、まあ、真田も良い奴だし、あっちも美人で、なんつうの、気立ても良さそう? だけどよ」
 ブン太の意見に同意しつつも、ジャッカルがフォローする。
「そういう考えもあるでしょう、というか、現代ではそのほうが普通でしょうね。しかし、小さい頃から相手が自分と結婚するために花嫁修業をしたり、ずっと自分だけを思ってくれるというのであれば、なかなか良いのではないですか? 生憎私はそういう方はいませんが、いたら嬉しく思いますが」
「おっさんくさい意見じゃのう、やーぎゅ」
「うるさいですよ、仁王君」
 きらりとレンズが光る眼鏡をずり上げながら、比呂士は慣れた様子で雅治を窘めた。

「そうだな。弦一郎は、まさに柳生が言うように思っているようだ。あいつのメンタルの強靭ぶりは皆も知ってのとおりだと思うが、それにはおと結婚する未来がしっかり決まっているというのが大きい可能性、98パーセント」
「で、その二人はどこ行ったの。いつの間にかいないんだけど」
 精市が、やはり半目で言う。
 彼の言う通り、弦一郎と紅梅は、いつの間にか座敷から消えていて、どこにもその姿がない。

「まぁまぁ、野暮なこと言わんといたりなはれ」
「そや、精市はんはうちらと遊びましょ」
「そうだね。そうするよ」
 きゃっきゃっと構ってくれる舞妓・芸妓らに笑顔を向け、精市は、消えた幼馴染のことを全く忘れることにしたようだ。
 他の面々も顔を合わせ、それぞれまた料理を食べ始めたり、遊んだりし始める。その様子を眺めながら、蓮二は僅かに目を開き、薄く、密かに微笑んだのだった。



 ── 一方その頃。

 ひそかに、中庭の見える縁側に移動した弦一郎とおは、簡単につまめるものとお茶だけを傍らに、じっと隣り合って庭を眺めていた。
「ふふ。皇帝、やて」
 今回の全国大会、やたらノリの良い、月刊プロテニスからの出向であるという実況解説と観客たちによって付けられた二つ名を口にして、紅梅は微笑んだ。
「よぅ似合うとるえ」
「そうか?」
「へぇ」
 紅梅は、頷いた。しゃらり、とかんざしが音をたてる。
 スポーツ界では珍しくない二つ名であるが、同時にプロの世界でも安定した実力を持つ重鎮の部類につけられる名でもあるのは、一般人でも認識していることだ。いくら昨今の中学テニスのレベルが高いとはいえ、ジュニアの範囲で『皇帝』など、普通は失笑ものである。
 しかし真田弦一郎には、確かに、『皇帝』の名で呼ばれるのを納得させるだけの実力と、強さと、そしてオーラがあった。紅梅も、そう思っている。──惚れた欲目ではないはずだ。

「ほな皇帝陛下、お茶のおかわりは如何どすか」
「うむ、頂こう」
 芝居がかって恭しく言った紅梅に、弦一郎もまた、重々しく返した。軽いごっこ遊びのようなやりとりに、二人揃って、穏やかに笑う。
 紅梅が注いでくれたお茶を一気に飲み干してから、弦一郎は杯を置き、ややしてから、紅梅の手を取った。
「あれ」
 どないしはったん、と、紅梅は少し戸惑うように、はにかみの混じった声を上げた。出会った時に行った縁日で手を繋いでからというもの、一緒に歩く時にそっと手を繋ぐ時はあれど、こうして“手を握る”ということは、したことがなかったからだ。
 そもそも二人はこうして顔を合わせて会う機会自体が稀なので、本当に、初めての事だった。
 弦一郎は返事をせず、紅梅の手を何度か握りなおす。紅梅も、触れてくる指を拒まず、結果、指を絡めて繋ぐような形になった。所謂、恋人つなぎ、というものである。
 そのつなぎ方もまた初めてのことだったので、紅梅はどきどきしながら、そっと顔を上げる。すると、弦一郎が、不躾なほど真正面からまっすぐ自分を見ていたので、紅梅は驚いて、目を見開いた。白塗りの化粧をしていなければ、その目尻が赤く染まっているのがよくわかっただろう。

「な、なん?」
「いや、今のうちに見納めておこうと思ってな」
「へぇ?」
「……その姿も、あと一年半ほどだ」
 弦一郎は、感慨深いような、惜しいような、しかしうずうずとしたような様子で言った。
「……あんたはんの気持ちが変わらんかったら、やけど」
「変わるわけがない」
 弦一郎は、ぎゅっと紅梅の手を握った。

「変わるわけが、ないだろう。何年待っていると思っている」

 何かを堪えて発したような、熱っぽい声だった。

 その声を聞いて、白粉に隠されていない紅梅の耳が、ほんのりと赤くなる。
 俯いて顕になった、舞妓特有の着付けで大きく開けられた項。W字型の襟足の塗り残しもまた、薄紅色に染まっている。
 弦一郎はそれをもはやうっとりとした心地で眺めながら、言った。
「お前こそ、気が変わって、俺に愛想を尽かしたりはしていないか」
「……知っとるくせに」
 紅梅は、俯いた状態のまま、上目遣いに弦一郎を見た。薄墨でわずかに強調された、もともと下がり気味の眉が、困ったように更に下がっている。

「……いけず」

 少し膨れっ面で発された小さい声に、弦一郎はどきっとした。かっ、と顔に熱が上るのも、自覚する。

 ──ああ、己の許嫁は、なんとかわいらしいのだろう。

 六年前に出会って、初めての恋をした。
 しかし、幼かったその時は、どちらかというと“お気に入り”の感の強いものだった、と弦一郎は我ながら思う。
 美人で、性格も良いので可愛らしい。運動神経も根性もあるので一緒に遊ぶこともできるし、料理もできる。自分の事を、かっこいいと言ってくれた。祖母も、良い嫁になると言ったからと、はっきりとした理由でもって、弦一郎は彼女を好きだと思った。
 しかし、見つけた宝物を引き出しに大事にしまうような子供っぽい独占欲は、必然的に離れて暮らすうちに薄れていった。成長するごとに、手紙を交わし、姿を見ないかわりにその内面を知ってゆくことで、ただただ彼女を好きになっていった。
 彼女は今でも、どころか成長するごとに美しくなったが、諾々と弦一郎のことを肯定するばかりでなく、意見したり、より良くなるようにアドバイスをくれたり、時にむくれて拗ねたりもする。弦一郎は、そんな彼女に失望するどころか、そういうところも可愛いし、頼りになると思うようになった。そして、彼女が格好いいと言ってくれるのを待つばかりでなく、そう言ってもらいたいがために、自分も彼女から頼りにしてもらえるように、努力をするようになった。

 祖母が亡くなった時、誰よりも弦一郎の気持ちに寄り添ってくれたのも、精市や国光にこっぴどく負け、その高みの遠さに絶望しそうになる弦一郎の尻を当たり前のように蹴り上げてくれたのも、彼女だった。
 住んでいるところは遠くとも、年に一度程度しか顔を合わせることが出来なくても、弦一郎の心を常によく知り、支えてくれていたのは、彼女だった。

 ──弦一郎は、彼女に恋をし、加えて今は愛している。そして、彼女もそうだという自信もある。

 そんな彼女と一生ともに居たいという弦一郎の気持ちは、年々強くなるばかりで、薄れたことは一度もない。
 二人の馴れ初めや関係を話すと、他の女と付き合ったりしてみたいとは思わないのかと言われることもあるが、弦一郎は全く興味がなかった。弦一郎には、紅梅と共にある未来しか見えていないし、それ以外は必要ない。本気でそう思っている。

 ふと、彼女を見る。
 綺羅びやかだが、分厚く、体の線が全くわからない衣装。飾り付けられ、鬢付け油で固められた日本髪。水白粉で白く塗られた、顔や首。
 そこに佇むだけでも、芸術品のような姿である。絵師や人形師が常に追い求める理想のごとく美しい姿、しかしそれは同時に、彼女の素顔がとてもわかりにくい姿である、ということでもある。
 そんな衣装を身にまとう彼女なので、いま触れられるのは、最初は同じくらいの大きさだったのに、今ではもう弦一郎より一周り以上も小さい、華奢な手指くらいのものだ。好きだと、結婚すると言い続けて六年にもなるが、紅色に塗られた唇を暴いたことも、ない。
 ただそのかわり、弦一郎は、彼女を見る。好きだと言うとほんのり赤くなる丸い耳とか、伏せられると余計に長く見えるまっすぐな黒い睫毛とか、広く開けられた襟から見える、二筋の塗り残しの項。わずかに見える、彼女の素の姿を見ると、ぞくぞくした。
 毎年くれるお守りのために百度参りをしているのだと、自分のために裸足になった姿を見た時には、たまらないほどの愛おしさと興奮を覚えたものだ。

 中学を卒業し、紅梅が結婚できる歳になったとき、彼女は舞妓になるのをやめて、弦一郎の元へやってくる。その時二人の気持ちが変わっていなければ、と一応は言われているが、そんなことはありえない。
 だから、一年半したら、紅梅がこの衣装を着ることはもうなくなり、素のままの姿になって、自分のもとに来てくれる。そう思うと、弦一郎は、通りを全速力で走って叫びたいような気持ちになった。
 そしてだからこそ、舞妓姿の彼女は、今しか見れないものでもある。美しく分厚い衣装を忌々しく感じることもあったが、そう思えば乙なものだ。

「……このまま、舞妓になりたい、か?」

 弦一郎が尋ねると、紅梅は困ったような、照れたような顔をして、また「いけず」と言った。弦一郎は、にやりと笑う。
 答えがわかっていても、聞いてみる。それを普通いちゃつくというのであるが、弦一郎の知ったことではない。

「そやねえ。舞妓姿も、舞台のお衣装も、きれいやし。きれいなおべべ着れるんは、きらいやのぉおすえ。けど──」
「けど?」
「……白いのんは、あらへんし」

 ぽつりと言った紅梅の丸い耳がほんのりと赤いのを、弦一郎は、目敏く見ていた。
 紅梅の言う通り、日舞のどんな演目でも、白い──白無垢の衣装は、ない。『鷺娘』は冒頭で白無垢に綿帽子が用いられるが、帯は真っ黒で、本当にどこもかしこも純白というわけではない。
 だからこそ、舞妓になり、芸妓になり、それに伴って結婚しないのであれば、純白の衣装を着ることはない。しかし──

「弦ちゃんが、着せてくれはるのやろ?」

 赤いままの、丸い耳。
 小首を傾げて見つめてくる姿がたまらなくかわいくて、弦一郎は、言葉を失った。

 再来年の春になれば、彼女が自分のもとにやってくる。分厚い衣装も、白塗りの化粧もしない、素のままの姿で。そしてそこから何年後かはまだ厳密にはわからないが、いよいよ結婚するとき、彼女は白い衣装を身につけるのだ。
 客のためでも、舞台のためでもなく。──夫になる自分のために、彼女は白い衣装を身に纏う。

「……うむ」

 弦一郎は、夢を見ているような心地で、しかしはっきり、深く頷いた。
 紅梅が、にっこりと笑う。白塗り化粧の顔でもわかる、蕩けそうなほど嬉しそうな微笑み。

 出会って、六年。
 好きになり、初恋を経て、六年。
 結婚すると言って、六年。

 年に数度しか会えないながら、その緩やかさがあるからこそ、二人の気持ちは変わらない。それどころか、だんだんと強固になっている。

「楽しみやなあ」
「楽しみだ」

 ふたりはゆっくり、楽しみながら、その先の時を歩もうとしていた。

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BY 餡子郎
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