【if/許嫁ルート】
もしも真田弦一郎が国語辞典を引いていたら
(八)
紅梅は真っ赤な顔でもじもじとしており、なかなか部屋に入ってこようとしない。
「坊、アンタもしかして、紅梅にこのこと言うてへんのとちゃうんか」
「……まず、親や後見人に話を通すのが手筈であると」
「いつの時代の話や」
弦一郎より数倍年上のはずの老女にも兄と同じことを言われ、弦一郎はぐぅと唸った。
「ちゃんと、話しよし」
アテもやることあるさかいな、と紅椿に言われ、二人は控室を追い出された。
呼ぶまでそこに居ろ、と言われた二人は、その指示通り、控室を出て建物の裏手にある、オブジェやら噴水やらが見えるベンチに並んで座った。
ここに来るまでも、そして座ってからも紅梅の顔は真っ赤で、態度もきょときょとそわそわとしており、かなり挙動不審である。
しかし彼女がこんな調子なので、弦一郎は逆に肝が据わった。隣り合って腰掛けてから、弦一郎は昨日ずっとつないでいた紅梅の手を取り、自分のほうを向かせた。
「紅梅」
「ふぇい」
固く張り詰めたような弦一郎の声とは対照的に、極限までふにゃふにゃした声で、紅梅は返事をした。
そして、弦一郎は彼女にきちんと向き直り、まっすぐに彼女を見、そして口を開く。
「将来、俺と結婚してくれ」
「ひぇう!」
ビクーン、と肩を跳ねさせた紅梅は、袖口で顔を隠して俯いてしまった。
不明瞭な返事に、これは肯定なのか否定なのか、と弦一郎は首をひねり、身を乗り出す。
「お、俺が嫌いか?」
「きき、嫌いと、ちゃうけど」
「では、好きか」
「う」
紅梅はなおいっそう赤くなり、俯いた。
「……………………すき」
「そ、そうか!」
ぱあ、と、弦一郎の表情が輝く。
その手放しの嬉しがりように紅梅も少し気が緩んだのか、上目遣いに彼を見上げて、ふにゃ、と蕩けるようにはにかんだ。
「……あのな、弦ちゃんな」
「うむ」
「強いし、テニスも剣道もえろぅ上手やし、やさしいし、かっこええから、……すき」
「あ、ありがとう」
もじもじとはにかみながら発された言葉に、弦一郎もさすがに気恥ずかしくなって、顔を赤くした。
「ううん……、さっき弦ちゃんも、うちのここが好きて言うてくれはったん、お返し……」
「あ、う、うむ」
「ふふ。……好きどうし。ふふふ」
袖口で口元を隠しつつ、真っ赤な顔で、しかしとても嬉しそうに笑う紅梅に、弦一郎は心臓が痛いと思えるほどきゅんとした。
「弦ちゃん、……ほんまに」
「うん?」
「うちんこと、ほんまに、……お嫁に、貰うてくれるん?」
「うむ! 結婚してくれ!」
どこまでも直球かつ豪速球という調子の弦一郎に、紅梅はぽーっとなった。
「………………うれしい」
「そ、そうか。……では、俺と結婚してくれるか」
赤い、しかし真剣極まりない顔で、弦一郎はもう一度申し込んだ。
「…………ぅん」
こくり、と、紅梅は頷いた。
今度こそ、まっすぐに弦一郎の顔を見て、そして嬉しそうにはにかみながら。
その後細々と話をしていたが、やがて信一郎が走って迎えに来たので、二人は彼とともに、近くにあるレストランに行った。
急に予約を入れたにしては、かなりきちんとした店である。舞台化粧を取って着替えた紅椿はもちろん、弦右衛門と佐和子、そして急いで来たらしい信太郎と諏訪子と、真田家一同が勢揃いしていた。
そして手を繋いでにこにこしている小さな二人を見て、大人たちは呆れるやら驚くやら、微笑ましそうな顔をするやら、はたまた胃の痛みを堪えるような顔をするやら様々だったが、二人は信一郎に促されて、並んで席に着いた。
「……まあ、まあ。本当に結婚を申し込んじゃったのね、弦一郎は」
頬に手を当てて、佐和子が驚きを滲ませつつ、しかしうきうきした様子を隠し切れない調子で言った。席についてもなお手をつないでいる二人に、「あらまあ仲良し」と更ににこにこする。ただし、その隣にいる弦右衛門はというと、今にも胃が爆発しそうな顔をしていたが。
「無論です」
「無論なのか……」
きりっとした顔で言った弦一郎に、兄の信一郎が生温かい声を出した。途端、父の信太郎が笑いを堪えるような声を喉から出し、その隣の母・諏訪子の表情が険しくなる。
「──で、さっき紅葉に電話したんやけど」
「うっ」
紅椿の発言に、弦右衛門が胃を押さえた。
「もみじ?」
「お母はんのことえ。女将や」
こそりと尋ねると、紅梅が耳打ちして教えてくれたので、なるほど、と弦一郎は頷く。
「条件を守れるんやったら、許嫁にしてもええいうことどす。で、紅梅が結婚できる歳になっても約束守れたら、結婚してもええいうことや」
「わかりました!」
「軽率に返事をするんじゃありません」
喜色満面の弦一郎に、諏訪子が厳しい声を出した。
「だいたいあなたは、会ったばかりの他所様のお嬢さんになんてことを」
「まあまあ諏訪子。かわいらしいことじゃないか。まだ小学二年生なんだし」
「そうですけれども! だからこそですね!」
夫、信太郎に宥められつつも、諏訪子はまだぶつくさ言っていた。次男が客として来た少女に初恋らしいものをしたことについては彼女も微笑ましく見守るつもりであったが、よもやいきなり結婚を申し込むとは、彼女でなくても想像もよらぬことである。しかも、弦一郎は、母の彼女にたいそうよく似た堅物として、誰もに認識されていたのだ。
「ほな、まず一つ目。諏訪子はんの言う通り、あんたはんらァはまだ小そおすよってな。心変わりするかもしれんし」
「いたしません!」
「弦一郎、とりあえず黙って聞く」
いきり立った弟を、兄が窘める。弦一郎は不満気な顔をしつつも、「……はい」と渋々座り直した。それを確認してから、紅椿は続ける。
「しかも、紅梅は京都で暮らしとおすし、よう会われへんしな。それでも一年気持ちが変わらんやったら、一応、許嫁いうことにしましょ」
「それなんですけれど、いくらなんでも全く連絡が取れないというのは可愛そうだから、文通なんかどうかしら。いい勉強にもなりそうだし」
祖母の援護に、弦一郎は言いつけ通り無言ながらも多大な感謝を抱いた。
「文通な。……まあ、それぐらいやったらよろしおすやろ。言うとくえ」
「良かったわねえ、弦一郎」
「はい!」
にこにこした笑みを向けてきた祖母に、弦一郎は威勢の良い返事をする。紅梅も嬉しそうにはにかみながら、きゅっと弦一郎の手を握ってきた。
「ほいで、舞妓になるんも、結婚できる歳になるんも、中学卒業した時や。それまで紅梅は舞妓修行と花嫁修業、どっちもしぃ。どうなっても損にはならんことやしな」
「へぇ」
紅梅は、しっかりと頷いた。
「そやし、その時までに坊がまだちゃんと紅梅が好きで、紅梅も坊が好きやったら、正式に結婚してもええていう許可出しましょ。……まあ要するに、どっちかの気持ちが変わってもうたら、すぐに婚約解消や。お互いお気張りやす」
「はい!」
「へぇ」
手を繋いだ二人は、元気よく返事をした。
「そやそや、そいで、坊がどんな職に就くんかは知らんけども、甲斐性ないと結婚はさせんえ」
「それはよろしおすえ」
頑張ります、と声を上げようとした弦一郎を遮って、鈴の音のような声が響いた。無論、紅梅の声である。大人たちが、一斉に少女に目を向けた。
「弦ちゃん、テニスの選手にならはるんやろ?」
「う、うむ。そのつもりだ」
「うち、弦ちゃんにはテニスしといて欲しいし。うちんこと養われへんからて諦めたりして欲しゅうないもん。弦ちゃんやったら、プロんなって仰山賞金やら稼いで来はるかもしらんけど」
紅梅はにこにこしながら、柔らかく、しかししっかりした様子で言った。
「うちも何やして稼げるようなるさかい、弦ちゃんは気にせんでよろしおす」
「む、むう……」
弦一郎は、複雑な顔をした。諏訪子という母の存在で、女性は家を守るべき者というのは考え方の一つでしかないことは重々わかっているのだが、夫は妻子を養うもの、ということに強い刷り込み──というよりはぼんやりとした憧れがあったので、当人からしなくていいと言われて、少しがっかりしたのだ。
「……そやけど、もし弦ちゃんが仰山稼げるお人んなったら、ちょこっとだけ贅沢しよな」
「うむ! わかった!」
しかしそうしてフォローされ、打って変わって、弦一郎は、ぱっと顔を輝かせる。
「……すごい。紅梅ちゃん、しっかりし過ぎじゃない?」
「しっかりしてるし、弦一郎の持ち上げ方をよくわかってるわねえ……」
信一郎と佐和子が、ひそひそと言い合う。
いつか王子様が、というようなお姫様願望よりも現実的な面をきちんと考え、将来設計がしっかりしているだけでなく、夫になる男を甘やかしすぎず、プライドも傷つけずといったことを今さらりとやってのけた少女は、確かに頼もしかった。
それに、弦一郎は真田家の男の例に漏れず、妻の献身に感動すると同時に、頼られると張り切るたちである。その点で、紅梅の提案と発言は、現実的な面をカバーし、弦一郎のやる気も出させるという、素晴らしい振る舞いだった。
「あほやな。せいぜい稼いで来いて言うたらええのや、おなごは」
呆れたような声で、紅椿が言った。
「そやし、甲斐性いうんは稼ぎのことだけとちゃうよってな。器の大きさとか、根性とか、気力とか、まあ生活能力全般のことやさかい。どないなっても大丈夫や、いうな」
「はい! 精進いたします!」
きりりと表情を引き締めて、弦一郎は返事をした。
「ほほお、よろしおす。ほな、約束や」
すい、と、枯れ枝のような小指が差し出された。
弦一郎が紅梅の手を離し、おそるおそる紅椿の小指に自分の小指を絡めると、ぎゅっ! と、想像だにしない強い力で絡め返される。
思わず声を上げそうになった弦一郎だったが、なんとか堪える。扇の向こうの目が、笑っているような気がした。──獲物を捉えた、蛇のような笑い方で。
「指切り、金切り、高野の表で血吐いて、来年腐って又腐れ」
「えっ」
「指切り、拳万、嘘ついたら針千本、飲ォ──ますゥ──」
指切った、と歌う言葉が終わると同時に、指も離される。
京都いちの名妓の唄は、さすがに迫力があった。まるで、本当に強いまじないの効果があるのではと本気で疑うような、霊力を感じるまでの見事な声である。実際、弦一郎だけでなく、真田家一同、シンと静まり返っていた。
「……かねきり?」
やや呆然としつつ、聞き慣れない、そして何やら物騒な前半の歌詞についてひとつ尋ねる。
「去勢や」
「きょせい?」
「ちんちん切るぞォ」
地を這うような低い声で言われ、弦一郎は、びゃっ、と、尻尾を踏まれた小動物のような声を上げて、反射的に脚を固く閉じた。
青くなればいいのか赤くなればいいのかわからなくなっている少年を前に、大蛇にもなる老女は、扇の向こうで、今度こそはっきりと嘲笑う。
「約束破らはったら、指切って、金切って、血吐いて腐れ果ててるとこ拳骨で万回殴って、さらに針千本飲ますぞ、いうことどす」
ほほほほ、と笑う老女は恐ろしい大妖怪にしか見えず、弦一郎はだらだら汗をかいた。
「も、問題ありません! 俺は必ず紅梅と結婚いたします!」
「ひゃふ」
びびりながらも宣言した弦一郎に、紅梅が珍妙な声で嬉しげに笑う。そんな紅梅の手を、弦一郎は縋るようにしてぎゅっと握った。柔らかくて小さい、しっとりした手に、弦一郎はとても安心した。
「ほほほ、何よりえ。ほなこの辺にして、食べましょか」
ころころと笑う紅椿の宣言で、食事が始まった。
婚約のための食事会、と店に説明したらしく、コースの最後には、「婚約おめでとうございます」と書かれた小さなケーキがサービスされた。──が、主役がよもや一番小さな二人だとは、店の人々も誰も思っていないだろう。
その後、二人は順調以上、頻繁に一年間文通を続けた。
よって、翌年の夏にまた会った時には、正式な許嫁として女将からも正式に認められることとなる。
そうして初恋を貫き通そうとしている二人を、周りの者達は、微笑ましく、そして驚きを持って常に見守り続けるのであった。