【if/許嫁ルート】
もしも真田弦一郎が国語辞典を引いていたら
(七)
 約一時間の舞台だったが、結局、弦一郎は一度も眠くなることなどなかった。それほどに、紅梅の祖母・紅椿の舞台は凄みがあり、魔力といえるほどの何かが溢れだしたものだったのだ。
 意識はぎらぎらと覚醒し、軽い興奮状態にある。心臓は常時より早く大きく鼓動し、少ない瞬きで少し目が痛いが、それもまた興奮状態に拍車をかけている。
 それは他の観客も同じだったようで、盛大な拍手の嵐が巻き起こり、血が巡った体が更にびりびりと痺れた。

 そして公演が終わり、解説用の展示品、記念のお土産品の販売カウンターなどが並ぶ受付ロビーにて、弦一郎の予想外のことが起こる。

「じゃあ、ここで待っていてくださいね」
「うむ」
 佐和子が、楽屋に挨拶に行くというのである。──紅梅を連れて。
 しかも、紅梅はそのまま戻ってこない。そのまま京都に帰ってしまうというのだ。

「弦ちゃん、あの、」
 紅梅は何か言いたそうに弦一郎を振り返ったが、佐和子にやんわり手を引かれ、奥に連れて行かれてしまう。角を曲がって見えなくなるまで、何度もこちらを振り返っていた。

 しかし、孫である紅梅を既に見送りがてら連れて行くのは当然として、なぜ祖母だけなのか。
 素直にそれを口に出せば、弦右衛門はとても困ったような、もっと言えばばつが悪そうな顔で顔を逸らし、理由は言わず、ただ「だめ」と言った。
 結局、楽屋に行ったのは佐和子と紅梅だけで、ロビーには男三人、つまり真田家だけが残された。

 非常に納得がいかない弦一郎は割にしつこくどうしてですかと祖父に詰め寄ったが、祖父は珍しくのらりくらりと躱すだけで、相手にしてくれない。
 ついには、「ちょっと向こうに行ってくる」と言い、さっさとどこかに逃げてしまった。

 ──困った。

 弦一郎は顔を顰め、辺りを見回す。
 紅梅たちは、今日、いやもう一時間、長くても二時間そこらで帰ってしまうようだ。その前に、弦一郎は彼女の祖母に会い、手紙を出しても良いという許可、いや、結婚の許可を取り付けなければならない。

 何故ここまで必死になっているのか弦一郎自身よくわかっていないのだが、非日常的極まる舞台を見たことによる高揚感、そしてそれがもたらす根拠のない無敵感が、元々エネルギーの有り余った少年を、我武者羅に突き動かしていた。
 しかし、辺りを見回しても、特に糸口になりそうなものはなにも見当たらないし、いい考えも思いつかない。もう、三十分は経っているのに!

「……兄さん」
「ん? 何だ?」
 弦一郎から目を離さないようにしつつ、適当に展示品などを見ていた信一郎は、ジャケットの裾を引いて声をかけてきた弟に振り向いた。
「なぜ俺達は、楽屋に行ってはいけないのですか?」
「……なぜだろうな?」
 誤魔化されている感じはしない。
 本当に知らないようだ、と判断した弦一郎は、少し考えてから、もう一度兄を見上げた。

「俺、紅梅のおばあさんに会いたいのです」

 はきはき、きっぱりと述べた弟を、信一郎はきょとんとした、いや、驚いた顔で見下ろした。
紅梅ちゃんのおばあさん……。人間国宝・上杉紅椿に?」
「はい」
 兄が腰を屈め、ひそひそ声の音量で返してきたので、弦一郎も同じ音量で返事をする。

「なぜ? そんなに舞台に感動したのか?」
「それは、ありますけど。でも、そうではなくて……」
 珍しく言葉を濁した弦一郎に、信一郎は驚きの表情をさらに大きくした。
「一体どうした」
「……その」
「うん」
 顔を上げて、完全にしゃがんで近くなった兄の顔を、まっすぐに見る。

「結婚の許可をいただきに」
「は?」

 かくん、と、信一郎の顎が落ちた。

「いま、何て?」
「結婚の許可をいただきに……」
「誰と」
紅梅と」
「誰の」
「俺ですが」

 奇しくも昨日も祖母とやったやりとりに、弦一郎はやはり淀みなく、そしてきりりと答えた。その表情は、どこまでも堂々としている。
「えーと……、お前、紅梅ちゃんの事好きなのか?」
「はい!」
「一日で完全に開き直ってる……。ていうか結婚って、早っ……展開早っ……」
「何かいけませんか」
「……いや、いいと思うぞ。とりあえず、男らしくはある」
「そうですか!」
 兄に肯定してもらえたので、弦一郎はぱっと表情を輝かせた。
 そしてそんな弟に信一郎は苦笑しつつ、まだ小さい頭をぐりぐりと撫でた。
「で、紅梅ちゃんはどう言ってるんだ」
「えっ」
「えっ」
 虚を突かれたような顔になった弟に、信一郎もまた目を丸くする。

「……おい。もしかして、紅梅ちゃんに何も言ってないんじゃないだろうな」
「し、しかし、まず親や後見人に話を通すのが手筈であると」
「いつの時代の話だよ」
 呆れ果てたような声で、信一郎は言った。十中八九、情報源は時代劇であろう。これからは時代劇ばかり見るのは少し考えものだな、と信一郎は主な原因である祖父に進言することを決めた。
紅梅ちゃんの同意が得られていないのに結婚の申し込みは、ちょっとまずいんじゃないか?」
「う……」
 正論に、弦一郎はじりりと後ずさりかける。しかし、奮い立たせるように言った。
「も、問題ありません! 紅梅も、俺を好きです」
「そうなのか?」
「そうです! か、」
「か?」
「かっこいいと言われました!」
「ああー……」

 弦一郎の言葉に、信一郎は、微笑ましいような、憐れむような、いたたまれないような、生暖かい目をした。
「そうかあ……かっこいいって言われたか……そうか……」
「はい!」
「そうか……まあ思っちゃうよな……それ言われると思っちゃうよな……好きじゃなかったら言わねえだろって話だよな……わかる。わかるぞ弦一郎」
「は? はい」
 妙にしみじみと言う兄に、弦一郎は疑問符を浮かべて首を傾げつつ、こくりと頷いた。

「……まあ、どっちにしろ、いい経験になるかな。──弦一郎」
「はい!」

 きり、と、表情を引き締めた小さな弟から、兄もまた、目を逸らさない。
紅梅ちゃんが好きか」
「はい」
「爺ちゃんと婆ちゃんから、行ってはいけないと言われていても、行きたいか」
「はい」
「怒られるぞ」
「はい! 怒られます!」
 きゅっと眉尻を跳ねあげて、元気よく、まるで新兵のような凛々しさで弦一郎が返事をすると、信一郎はますます目を丸くし、そして一拍の後、破顔した。
「兄さん?」
 下を向いて肩を震わせ、大きく笑いたいのを堪えているような兄に、今度は弦一郎がきょとんとした顔になる。俯いた信一郎からは、クックッ、と、喉が鳴るような笑い声が漏れていた。

「よし、よし、よし。いいぞ弦一郎」
 一頻り笑ったらしい兄は、やがて顔を上げると、満面の笑みで、弟の頭をぐりぐりと撫で回した。
 一応怒られるようなことを言ったはずなのだが、なぜか褒めるようなことをする兄に、弦一郎は疑問符を幾つか飛ばす。しかし、力になってもらえるに越したことはない。

「よし、弦一郎。兄さんが手を貸してやろう」
「ほんとうですか!」
「うん、うん」
 弦一郎の頬も紅潮しているが、信一郎はそれ以上のいい笑顔である。ここまで煌めく笑顔の兄を、弦一郎は久しぶりに見た。
 味方をしてもらえた、それだけでも嬉しかったが、あの複雑でどこか気まずい表情を何かと向けてくる兄が、こうして満面の笑みでもって協力してくれたことが、弦一郎はことのほか嬉しく、そして心強かった。

「こっちだ」
 危なげなく人々の間を歩いて行く信一郎を、弦一郎はなるべくこっそり、人目につかないように気をつけながら小走りに追う。
 来た時はあれだけ目立っていたはずの弦一郎だが、あの舞台を見た後の人々は、その余韻や展示物に夢中で、足元を忍者よろしくうろちょろする小さな少年には、見向きもしない。まるで魔法がかかっているようである。

 信一郎は、楽屋までの道のりをだいたい知っているようだった。
 背が平均より高いため、この人の多さでも紅梅たちが消えた方向を確認することができていたし、前にコンサートで来たことがある、と言ってすいすい歩いて行く兄は、この上なく頼もしい。

 あそこの通路の奥だな、と兄が示す奥まった通路には、簡易礼装にもなる無地の着物を着た、若い女性が立っていた。そのまっすぐな立ち姿から、催側の人間であろうことがわかる。

「ここにいろ。合図をしたら、あのお姉さんの後ろから行くんだ。こっそりな」
 ブロンズのオブジェの陰、通路の状態がよく見える位置に弦一郎を待機させた信一郎は、そう言って、通路からやや外れた方向に消えていった。弦一郎は頷き、息を殺して合図を待つ。

 やがて、きゃっ、わあ、という小さな声が聞こえ、辺りの人々の注目がそちらに集まった。
 弦一郎も思わずそちらを向いたが、その軌道上、ちょいちょいと小さく指を動かしてこちらを見ている兄に気付く。通路の女性は、騒ぎの方を見るどころか、四、五歩そちらに歩み寄りさえしていた。
 機を見た弦一郎は、なるべく静かに駆け出した。幸い、敷き詰められた絨毯が、足音を完全に消してくれている。

 兄が何をしたのかはわからないが、きっとあの素晴らしい頭脳でもって、自分が考えもつかないことをしたに違いない。
 いつか兄が困ったときは全力で味方をして差し上げなければ、と弦一郎は心に固く誓いつつ、一度も振り返らず、一目散に通路を駆け抜けた。



 通路の奥は、段ボール箱やおそらく衣装や小道具の入った葛籠、分解された大道具、また独特の雰囲気の人々で溢れていた。

 殆どの人が和服で、弦一郎よりは年長だが、少年少女の姿も少しある。
 弦一郎はなるべく壁際の荷物の影を縫うようにして移動したが、少年ながら着物に慣れており、和礼装に違和感のない弦一郎の姿は、うまい具合にこの場所に溶け込んでいるようだった。
 ロビーより狭い通路ではもちろん見つからないわけはなく、時折見られるが、なんでもないように振舞われるし、時に微笑まれすらする。

 そして目当ての場所は、全く苦労せず見つけることが出来た。
 なぜなら、通路の壁に添って、絢爛豪華な紅白台の花輪がいくつも立てかけられており、それを辿ればいいだけだったからだ。

 花輪が作る花道の奥、その扉はあった。
 さすがに有名人の控え室だけあって、人が多く詰めかけている。多くは花束を持っており、明らかにプロ仕様の大きなカメラを担いだ者や、必死に何らかのメモを取っている者、また扇を持って嬉しそうにはしゃいでいる者もいた。
 彼らが壁を作っているせいで、弦一郎は扉に近づくことができない。どうしたものかと角から様子をうかがっていると、ふいに、彼らが揃ってぞろぞろとこちらに向かってきた。

 弦一郎はサッと荷物の影に隠れ、談笑しながら引き返す人々をやり過ごす。彼らが通りすぎてからもう一度覗きこむと、もうそこには誰もいなかった。
 小走りに扉に近づき、ゴクリと固唾を呑んでから、扉を二度叩く。しばらくしても返事がないので、今度は強めにもう一度。

「………………誰や」

 魔女の声だ、と、弦一郎は直感的に思った。
 これは、紅梅が真田家にやってきた時、玄関先で聞いたあの声だ。決して音量は大きくないのにはっとする、響くというよりは染み渡るような、侵食してくるような声色。

「弦一郎といいます」
 息を思い切り吸い込んで、弦一郎は名乗った。出来うる限りはっきりと、堂々と。怖気など、全く見せないように。
「……入り」
 許可が出たので、ノブを回し、扉を開ける。
 途端、更にむせ返るような、攻撃的なまでの花の香が、弦一郎を襲った。

「弦の字、いうことは」
 足元から、首の後から、肌に染み込み、侵食してくるような魔性の声。
 舞台の最初で受けたものと同じ、ぞわりと登ってくる震えを感じながら、弦一郎は、後ずさりそうになるのを、必死で堪えた。
「……真田のぼんかえ*真田家の息子(坊ちゃん)か

 ──大妖怪である。

 壁が見えなくなるほどの、切花の山。
 控え室は靴を脱ぐ所以外、一段上がって畳になっている。しかし弦一郎は一歩も動くことが出来ず、灰色の絨毯の上で、金縛りにあったように突っ立った。
 そしてその畳の上に、先ほど、妄執のあまり呪詛とともに壮絶に焼け死んだ大蛇の化身、清姫がそこにいた。

 鬘は取っているものの、衣装はそのままで、白塗りの化粧は一部の隙もない。
 これが、現役の芸姑にして、京舞の重要無形文化財保持者。男の歌舞伎役者とてようよう演じ切らぬ道成寺を、たったひとりで舞い尽くした舞踊家、重要無形文化財保持者、人間国宝・上杉 紅椿、そのひとである。

「……はい。真田、弦一郎です」
 扉が、自重でバタンと閉まった音。退路を断った弦一郎は、密室でかのひとと二人きりになり、緊張で変な汗をかきながら、それでもなんとか名乗り上げた。
「ははあ、また見事に真田の顔や。こら厳つうなるえ」
 弦一郎を上から下まで舐めるように眺めると、そう言う。蛇の舌で顎の下を舐められたような気がして、弦一郎は、ぞぞ、と肌を泡立てた。

「なんの用や」
「お願いがあって、きました」
「ふん」
 恐ろしい大蛇は鼻で笑うと、帯に挟んだ黒骨の扇を抜いて、顎を逸らして弦一郎を見下ろした。
 まさに蛇に睨まれた蛙の気分を味わいながらも、続きを話せと言われていることを察し、弦一郎は口を開く。
紅梅と結婚させて下さい」
「は?」

 老いてなお美しい繊手に握られた扇が、かくんとずれた。

「いま、何ちゅうた」
「結婚させて下さい」
「誰と」
紅梅と」
「誰を」
「俺です!」

 なぜ誰もかれも同じことを確認するのだろう、と思いつつも、言った、という達成感で、弦一郎の表情は晴れやかである。
 紅椿はしばらく無言だったが、やがて丸く見開いた目を細め、まじまじと弦一郎を観察し始める。弦一郎はその蛇の舌のような目に怯むも、しかし胸を張って口を開いた。

「舞妓や芸妓は結婚できないですが、紅梅は親がいないのと、日舞をやるのにかかるお金がチャラになるから舞妓になると言っていました。なら、俺がお金を沢山稼げれば結婚できますか!」
「まあ、そやな」
 紅椿が肯定したので、弦一郎は頬を紅潮させた。
「精進いたします!」
「待ちぃ。早い、早い」
 気が早い子供を、老女はゆったりとたしなめた。

「……坊、うちの紅梅に惚れたんかいや」
「惚れ? よくわかりませんが、好きです」
「ほぉう。どういうところが」
「美人だし、性格もいいのでかわいいです。運動神経もあるし、根性があるし、料理もできるし。味噌汁が美味しかったです」
「割と具体的やなあ……」
 やはりすらすらと淀みなく応える少年に、老女は半開きにしていた舞扇をパチンと閉じた。そしてやがて、にやぁと笑う。弦一郎はびくりとしたが、その笑みは、弦一郎に向けられてはいなかった。

「そやて、紅梅。どないする」

 弦一郎は、思わず振り向いた。
 すると、わずかに開かれた扉から、真っ赤になった顔が見えていた。
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BY 餡子郎
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