【if/許嫁ルート】
もしも真田弦一郎が国語辞典を引いていたら
(二)
──次の日。
弦一郎が早朝四時からの朝稽古を終え、郵便受けから新聞を取って母屋に戻ってくると、寝間着、部屋着であるらしい浴衣を着た紅梅が、朝飯の支度を手伝っていた。
「あ、弦ちゃん、お早うさん」
「お……、お早う」
昨日引いた辞書の項目がずっと頭のなかにある弦一郎は、どぎまぎと返事をした。
紅梅は浴衣にたすきを掛けて、その上から祖母の割烹着を着けている。祖母は小柄なほうだがそれでも紅梅には大きいので、帯に挟んで丈を調節したり、ゴムひものついた袖口をたくしあげたりしていた。
「弦ちゃん、ほら」
紅梅が手招きして呼ぶので、土間に降りる。
弦一郎は、紅梅が指で示す先、包丁を使う祖母の手元を覗きこんだ。
「な?」
「ああ、本当だ」
弦一郎は、納得して頷く。
昨日テニスを教えたとき、弦一郎が教えた基本のコンチネンタルグリップを、紅梅は「包丁の持ち方と同じ」と言った。弦一郎はその時はそうなのかとしか思わなかったが、実際こうして見てみると、なるほど同じである。
感心した様子の弦一郎の何が面白かったのか、紅梅がくすくすと笑う。
その笑顔を弦一郎はふわふわした心地で眺め、次いで、きゅうりを切り始めた紅梅の手元を見た。
「お前、……料理ができるのか?」
割と手慣れた手つきで包丁を使っている紅梅に、弦一郎は尋ねた。
「へぇ、お手伝いはするえ」
聞けば、紅梅とともに暮らしているという“お母はん”や“お姐はん”は料理があまり得意ではなく、だいたいは近所にある料亭の仕出しや惣菜を利用するのが主であるらしい。しかし紅梅は料理が好きで、簡単な朝食を作るのはもうすっかり紅梅の役目になっているし、そんな紅梅に興味をもった件の料亭の者が、時折紅梅に料理の手ほどきもしてくれるのだという。
「ここのお台所、おもろいなァて言うとったんよ」
紅梅が、にこにこと言った。
真田家の台所は昔ながらの、というか、今時滅多に見ない土間で、竈もある。
さすがに毎日薪を割るのは手間だし経済的ではないので、これを使うのは正月や行事ごとの時だけだ。普段は、後付のコンロとガス釜を使っている。──といっても、ガス釜も最近ではレトロな部類に入るのだが。
真田家では、誰かが料理を手伝うことはない。
それは男子厨房に入らずといったことではなく、単に佐和子意外、壊滅的に料理が出来ないからだ。
だからというわけではないが、真田家にはいくつか家訓というか、特徴的な家風がある。
まず、男子もある程度家事をする。皿も洗うし、洗濯もするし、掃除もする。しかしこれは、道場の掃除は門下生の仕事、という一般的な武術の風習が、家にもしっかり伝導しているだけだ。つまり自分で使うところは自分で管理する、というシンプルな理由でのことである。
そのため、真田家に生まれた以上、整理整頓と掃除洗濯に関しては、男子も女子も徹底的に躾けられる。
そしてもう一つが、道場や土地の収入に頼らず、手に何らかの職をつける事だ。
古くから続く家や技を受け継いでいくことは大事だが、その都度その時代の社会に溶け込んでいけなくては伝統を守ることも出来ない、という考え方からである。
嫁いできた者に関しては強制ではないが、働いても、感心こそされ、非難はされない。外で働かない場合は、主婦としての家事能力の高さを問われる。
鍛錬、精勤、刻苦勉励を愛し賛美し推奨する一族、それが真田家であった。
だが唯一例外なのが、料理なのである。
述べたように、勤労に関して性差別を一切しない家なので、男尊女卑からくるものではない。
──不思議なことに、真田家の人間には、料理をする能力が尽く欠損しているのである。
味覚が鈍いわけでも不器用なわけでもないのだが、真田家は歴代、料理に向いた性格の者がとても少なかった。
弦一郎の母である諏訪子はまさにその典型で、壊滅的に料理ができない。
いざ挑んでみた結果、講師の佐和子曰く「根っから向いてない」という評価が下された。
諏訪子は、一人娘であるにもかかわらず、厳しい父親への反抗の延長で母親の女らしさにも反発し続け、料理も一切して来なかったという背景があるのだが、あまりの素養の無さに、むしろ時間を無駄にしなくてよかったのではないか、と家族全員が納得したほどであった。
このように、真田家の料理下手のDNAは、その真田家お得意の超根性論で持ってしても、もう諦めの境地に至るしかない代物なのだった。そのくせ、真田家の台所は素人お断りの竈であり、さらに舌が悪いわけではないから始末に終えない。
「そうか……料理ができるのか。すごいな」
「簡単なのだけやけど……」
紅梅はサラダと、味噌汁を任されているようだ。サラダは今切ったきゅうりで出来上がりで、人数分盛りつけられており、いつも使う和風ドレッシングが用意されている。今は味噌汁の出汁をとっているところのようだ。沸騰するかしないかの鍋の中で、鰹節が泳いでいる。
「いや……凄い。料理は難しいんだ」
「そやろか?」
紅梅が首を傾げると、弦一郎は、やたら重々しく頷いた。
弦一郎も真田家の人間の例にもれず、決して不器用なわけではないはずなのに、芋の皮を剥くだけで随分時間がかかり、調味料の量から実際に出来上がる味を予想させる能力に欠け、火加減が下手だった。そしてある意味不幸なことに、自分の作ったものはもはや食べ物ではない、とはっきり断じられる舌も持っていた。
味噌汁を本当に味噌の味しかしない汁にし、目玉焼きをフライパンと一体化させ、ホットケーキミックスから炭を作りだした弦一郎は、料理とはこうも難しいものか、と嫌というほど思い知ったため、真田家の人間が概ねそうであるように、「料理ができるのは特別なこと」「料理ができる人間が側にいるのはありがたいこと」と刷り込まれている。
だから佐和子に言われるまま、すいすいと同じ薄さにきゅうりを切り、サラダを綺麗に盛りつけ、味噌汁を作っている紅梅の姿は、弦一郎には、とても希少で、まぶしいものに感じられた。
「そうねえ、お梅ちゃんはお料理が上手だわ。センスがあるもの」
佐和子が、にこにこして言った。こちらは、メインのおかずである魚を焼き、何やら煮物を作っている。曰く、紅梅が二品作ってくれたので、いつもより豪勢な朝食が作れるらしい。
「基本ができているから、練習すれば、もっと凝ったものが作れるようになるわ」
「ほんまどすか?」
「ええ」
きらきらした目で問う紅梅に、佐和子は頷いた。
「いいお嫁さんになれるわねえ」
佐和子がそう言った途端、弦一郎が挙動不審になる。
しかしちょうど鍋が沸騰しそうになったため、誰もそれに気づかなかった。
「なんだか、やたら躾けられた子だな」
丁寧に洗った漆の椀を弦一郎に渡しながら、信一郎が言った。
六人分ともなれば、食器も多い。真田家では、食事の後片付けは佐和子以外の家族の仕事。今日の当番は、信一郎、弦一郎、そして二人の母・諏訪子である。
「俺、弦一郎より古風な子って初めて見たよ」
「礼儀作法に関しては、相当本格的に躾けられてるみたいね」
「そうだな。なんたって、“おねえはん”だもんなあ」
信一郎が吹き出して、食器についた洗剤の泡がわずかに飛んだ。
先程の朝食の際、紅梅は弦一郎の父母──信太郎と諏訪子と初めて顔を合わせたのだが、その時、諏訪子を「おねえはん」と呼んだのである。
家族全員が面食らい、結局「諏訪子おばさま」と呼ぶことになったが、紅梅の方はお世辞を言ったわけでもなんでもなかったようで、ただキョトンとしていた。
剣道七段、陸上自衛隊隊員でもある彼女は年齢を感じさせない力量に溢れてはいるが、実年齢は四十二歳、化粧もほとんどしておらず、「おねえさん」という風貌ではない。
「馬鹿。あの子は仕込みのおちょぼさんだから、他に言い方を知らなかっただけよ」
パン、と手首のスナップを効かせた裏拳で長男の脇腹を叩いた諏訪子は、きびきびと言った。
「痛い、母さん」
「痛くなく叩いて、意味があるの?」
「おお怖。……で、“しこみのおちょぼさん”って何?」
「舞妓さんになる前の修行中の子の事を、仕込みとか、おちょぼさんって言うのよ」
「へぇ、あの子、舞妓さんになるのか」
「置屋の家娘だからね。多分、身内か女将さん以外の女の人は全部とりあえず“おねえさん”って呼ぶように躾けられてるんでしょう」
弦一郎が拭いた食器に雫が残っていないかチェックしながら、諏訪子が答える。合格を貰えたらしい皿は、丁寧に重ねられて食器棚へ仕舞われた。
「置屋? 何それ、京都の古い家とか、そういうもの?」
弦一郎が聞く前に、信一郎が尋ねた。きびきびと作業に没頭したまま、母は答える。
「違う違う。まあ古いといえば相当古いだろうけど、置屋っていうのは、芸妓さんや舞妓さんを抱える仕事のこと。屋形ともいうわ」
そのため、芸妓や舞妓を呼ぶ時、置屋なんたらの某さん、という感じになる。芸妓の給料の管理やお座敷の派遣の管理などもするし、舞妓になる前の女性を育成・研修する場所でもある、と母は説明した。
「アイドルとプロダクション……事務所とか、マネージャーみたいな?」
「ああそれ、まさにそれよ。普通は舞妓さんになりたい子が屋形に入って、おちょぼさんっていう仕込み、修行期間に入る──まあ弟子入りというか、昔で言う丁稚奉公にも近いわね。普通は中学を出てからじゃないと、置屋に入ること自体ないんだけど」
「へぇ……」
「あの子は外から入った子じゃなくて屋形で生まれた子、家娘だから、今からがっつり躾けられてるのよ。あんな小さい頃から仕込むなんて、それこそ大昔しかなかったんだけど。そうね、多分、大正時代ぐらいまでじゃない?」
「母さん、詳しいな?」
「お母さん──おばあちゃんが大好きなのよ。若い時にさんざん憧れたとかで、嫌というほど聞かされたわ。特にあの子のおばあさん、私はよく知らないけど、『花さと』の紅椿さんっていえば、京都一の芸妓さんって有名で、夫婦揃ってファンなの」
ふう、と、諏訪子はため息をひとつついた。
「だからあの子、ものすごくおばあちゃんの好みの子なのよ」
「……やっぱり?」
「お人形とか、お着物とか、きれいでかわいいもの大好きなのに、一人娘の私はこんなのだし、孫も男ばっかりだし。だからあんたたちのお嫁さんは、自分の好みの子に来て欲しいんでしょう」
「そんなこと言われたってなあ」
仕方がない、というふうに言う諏訪子に、信一郎もまた、苦笑を返す。
「朝ごはんの支度の時なんか、わざわざ台所に入れて、何が出来るのか根掘り葉掘り聞いてたのよ、あの人」
「ええ? 何それ、ばあちゃん本気じゃないか」
信一郎が、驚きとともに僅かに怪訝な表情を見せたその時、弦一郎は、拭いていた皿を取り落としそうになった。
「弦一郎、気をつけなさい」
「申し訳ありません」
母に謝罪してから、弦一郎は、辛うじて落とさなかった皿を丁寧に重ねた。
(……お祖母さまは、本気)
弦一郎は、ひとり密かに、やはり、と思った。
お見合いという言葉を使ったのも佐和子であるし、さきほどは「いいお嫁さんになる」とも言った。そもそも紅梅の祖母とつながりが深いのはどうも祖父ではなく祖母の方であるようだし、そんな祖母が“お見合い”として自分と紅梅を引きあわせたのだとしたら、筋が通る──、弦一郎は、そんなふうに思っていた。
そして、祖母も紅梅に会うこと自体は今回が初めてだそうだが、彼女の見た目や性格、さらに彼女が料理ができることから、祖母は紅梅を気に入ったに違いない、とも思っていた。
救いようのない料理下手揃いである真田家が嫁を望む基準として、「料理ができること」「できれば竈で飯が炊けること」というのが強くある。
しかし、諏訪子の時代にいわゆる主夫というものはほぼ存在せず、入婿の信太郎は、一人暮らしの経験からシンプルな食事が作れる程度の腕しかない。──それでも、真田家の基準からするとなかなかなのだが。
よって現在、真田家の炊事の全ては佐和子に託されて随分長い。そして佐和子は、自分の後に真田家の食卓を任せられる孫嫁が来ることを、心から切望している。
その点、“基本ができている”らしく、“練習すれば凝った料理も作れる”紅梅なら、何の問題もないだろう。
「……おいおい、ばあちゃん、あの子を許嫁に、とか言い出さないだろうな」
信一郎が、食器を洗う手を止めて振り返る。
同時に、弦一郎は、再度びくりと反応した。昨日辞書を引いた時、関連語句や隣接した項目も目を通した──そのせいで寝るのが遅くなったわけだが──弦一郎は、『許嫁』が何かということを知っている。
いい‐なずけ〔いひなづけ〕【許=嫁/許=婚】
《動詞「いいなづく」の連用形から》
(1)双方の親が、子供が幼いうちから結婚させる約束をしておくこと。
(2)結婚の約束をした相手。婚約者。フィアンセ。
「多分あの人は大いにそうしたいだろうけど、それはないわね」
弦一郎が国語辞典の記載を脳内で反芻していたその時、母があっさりと答えた。
「何故?」
「舞妓さんや芸妓さんは、結婚してると出来ないのよ。途中で結婚することになったら、必ず辞めなきゃいけない決まりなの」
へえ〜、と頷いている慎一郎だが、弦一郎はといえば、限界まで目を見開き、硬直していた。驚き、というよりも、もはやショックといったほうが近い衝撃を末っ子が受けているとも知らず、二人は話を続ける。
平成の世になり、舞妓、芸姑のなり手は非常に少なくなっており、常に人材を求めている。
現在、京都全体の芸妓の人数は二百人前後といわれている。しかしこれは、数え切れない淘汰の果てにある数字だ。美しい舞妓姿に憧れて仕込みに入る子女の数はなかなか多いのだが、非常に厳しい稽古に耐え切れずにリタイアする事も非常に多いのである。
舞妓や芸妓は日本を代表する生きた文化であり、観光の目玉だ。
京都観光局は当然のこと、いや日本全体が彼女らの存続を望んでいることは、日本人ならだれでも理解していることである。
そこの所、置屋で生まれ、物心つく前から芸妓になる教育を施されて育てた娘など、貴重も貴重。しかも紅梅には、名妓・紅椿の孫という血筋もある。
そんな娘を易々、神奈川くんだりの剣術道場の息子の嫁に出すなんてことはとてもあり得ない、と諏訪子はきっぱりと言った。
「だけどまあ、礼儀作法があれほどきっちりした子が知り合いにいるっていうのはいい経験になると思うし、いいんじゃないの」
「ふうん、なるほど。……弦一郎、あの子、どうなんだ?」
信一郎が、泡を流した皿を弦一郎に渡しながら尋ねた。何か自分の中で納得したらしく表情は元に戻っており、いや、むしろ面白がるようににやりとしている。
「どう、とは」
非常にぎこちない様子で、もう水気のない皿を延々無意味に拭きながら、弦一郎は返事をした。
「ずいぶん仲良くなってたじゃないか。ああいう子、好きか?」
「す」
途端、弦一郎は、湯気が出そうなほど、耳から首から真っ赤になった。
そしてその反応に、尋ねた信一郎だけでなく、諏訪子も目を丸くし、手を止めて弦一郎を見る。
「すっ、すすすすす、す」
「ええ……何だその反応……」
予想外すぎる、と、信一郎は、未だかつてなく挙動不審になっている弟を、珍獣でも見るような目で、しかしなんだかワクワクした様子で見た。
「弦一郎はそういうところ遅い子だと思ってたのになー。意外だなあ」
「……信一郎、あまりからかうのはよしてあげなさい」
諏訪子が、珍しくも柔らかい声で言う。しかしその目はずっと弦一郎を見ており、信一郎と同じく、とても珍しげで、興味深そうな様子である。
「しないよ。大事な弟の初恋だし」
「はつこい!?」
「え、違ったか?」
「ちが……ち……、え……」
初恋。生まれて初めての恋のこと。恋、恋とは──と、弦一郎は、半ばパニックに陥った頭で、昨日仕入れた語彙をぐるぐるとさせた。
「弦一郎。とりあえず、お皿を仕舞ってきなさい」
「はい……」
「……落とさないようにするのですよ」
知恵熱を出しそうな次男に、諏訪子は未だかつてなく優しく言った。
──ちん、とん、しゃん。
皿洗いを終え、落ち着くためもあってテニスラケットを持って庭に出ようとした弦一郎は、居間から聞こえてきた三味線の音に足を止めた。
音はやや擦り切れており、カセット・テープによるものだとわかる。だが真田家で大きな音で音楽を聴く者はおらず、さらにこのような三味線、鼓、唄いの音楽など、テレビの時代劇でしか聞いたことがない。
何だと思い、ラケットを持ったまま足を向ける。暑いからか障子は開いていた。
──ちん、とん、しゃん。
初めに見えたのは、祖父の広い背中。そして更に一歩踏み出した視界に入ってきたのは、ひらひらと翻る、白に花柄の袖。
時折ぱらりと開いたり閉じたりする扇の柄は、白地金砂子に井菱の紋。くるりと回ると、腰の後ろの金魚帯が、ぽんと跳ねる。
古い言葉の歌にあわせて舞う童女を、弦一郎はぼんやり、というよりは、ぽーっとして見つめた。
「まあ、上手、上手」
ぱちぱち、と佐和子が嬉しげに手を叩く音で、弦一郎ははっとした。
舞っていた紅梅は、既に座って頭を下げ、三つ指ついた先に閉じた扇を差し出している。弦一郎が入ってきたのは曲の最後のほうだったらしく、あっという間に終わってしまったようだ。
「おや弦一郎、いたのか」
「何じゃ、見るなら座って前で見れば良かっただろうに」
同じく小さく拍手をしていた父、信太郎と弦右衛門が声をかけてきたので、弦一郎は会釈にも見えるような、小さな頷きを返した。
「何をしているのですか」
「お梅ちゃんが日舞の稽古をするというので、披露して貰っとったんじゃよ」
祖父が答えた。
紅梅は本人もよく覚えていないような頃から舞扇を持たせられ、日舞──日本舞踊をやっているという。毎日の稽古は必須で、それは出先であっても変わらない、と祖母に言いつけられているそうだ。
「ねえ弦一郎、上手だったわねえ」
「はあ」
やや興奮気味の祖母がにこにこと言うのに、弦一郎は生返事を返した。それは踊りの良し悪しがわからなかったからというのもあるし、踊りそのものよりも、くるくると動く紅梅ばかり見ていたから、というのもある。
「お梅ちゃん、上手だったわ。すごいわねえ」
だが弦一郎の言葉をさほど期待していたわけではないらしく、佐和子はすぐに弦一郎から紅梅に目を向けてそう言った。
その視線につられて舞っていた当人を見れば、既に頭を上げてはいたものの、少し俯いて、弦一郎と目を合わせようとはしなかった。弦一郎は怪訝に思って、僅かに眉をひそめる。
「ねえ、お皿洗いも終わったのだったら、皆呼んで、みんなにもう一回見てもらいましょうよ」
「えっ」
紅梅が顔を上げて、困ったような顔をした。
「とってもかわいらしかったもの、みんなに見て貰いたいわ。ねえ、信太郎さん」
「そうですねえ」
はしゃぐ義母に、信太郎はおっとりと返事をし、さらに「やっぱり女の子がいると華がありますねえ」と、ややずれたことをのたまった。
「お梅ちゃん、今のとは違うのがいいわねえ」
どれがいいかしら、と矢継早に尋ねる佐和子に、へえ、はあ、と小さく頷く紅梅の表情は、弦一郎の位置からははっきり伺えない。
「紅梅」
佐和子が喋り続けていたというのに、弦一郎が呼んだ声は、決して大きくなかったが、まるで空気をすとんと切り裂いたように、不思議とまっすぐ通った。
ぱっ、と、紅梅が顔を上げる。黒い目が、はっきりと弦一郎を見た。いや、紅梅だけでなく、座敷の大人の目も全て、弦一郎に集まっている。
弦一郎は、持っていたテニスラケットを持ち直し、トン、と肩に担ぎ、極力何でもないように言った。
「今からテニスをするが、お前もするか?」
「──する!」
紅梅は軽く目を見開き、笛を鳴らすような返事をすると、飛び上がったのかと思うような動きで立ち上がった。丸い頬が、やや赤い。
「ラケットを取りに行くぞ」
「へぇ」
紅梅は慌てて帯の間に扇を差すと、踵を返して障子の向こうに歩いて行く弦一郎を追いかけた。
礼儀作法も何もなく、飛ぶようにして駆け抜けていった少女に、大人たちが目を丸くする。
「……あらまあ」
佐和子が、片手を頬に当てた。驚きの表情に、だんだんと笑みが混ざる。
「あら、あらあらあら」
「ほほう」
連れ立って駆けてゆく二人の子供を、大人たちは、少し意外そうに見送った。