【if/許嫁ルート】
もしも真田弦一郎が国語辞典を引いていたら
(一)
 一日が終わり、風呂に入って、あとは寝るだけ。
 小学校に上がってすぐに与えられた自室に戻り、布団を敷きながら、弦一郎は今日のことを思い出していた。

 今日、突然真田家にやってきた少女、上杉紅梅
 挨拶を交わした後、紅梅は弦右衛門に誘われ、道場での稽古を見学し、さらに兄の信一郎の提案で、庭で弦一郎とテニス──、のようなことをした。

 本格的で厳しいことで有名な真田剣術道場において、門下生たちの気迫に呑まれ、見学だけで泣き出す子供も珍しくはない。しかし、日本人形のような童女は、大きな音がするたびに目を丸くし、背筋をビンッと伸ばしすものの、猫を驚かした時とどこか似たその反応は、恐怖で縮こまるというよりは、単にびっくりしているだけのようだった。
 時間が経つごとに慣れたのか、まじまじと剣士達を見るようになり、にこにこと横に座った佐和子が、剣士達を時々示しながら何か説明しているのを、頻繁に小さく頷いて、熱心に聞く。

 テニスについても、初心者故に単にラケットにボールをあてて返すだけという“遊び”ではあったが、着物のまま走り回って転ばないという、なかなかの運動神経を見せた。さらに、ただ単にボールを追いかけるだけでなく、狙った所に上手くボールを返せないことに気づき、弦一郎に積極的に質問し、答えを返せば素直に従い、成果を見せる。
 弦一郎は人に物を教えるのは初めてだったが、その素直さと出来の良さは、なかなかに快いものだった。

(……楽しかった)

 見た目の淑やかさを良い意味で裏切り、確かに女の子らしくあるのに弦一郎についてこれるくらい活発な紅梅に、弦一郎は、改めて好印象を抱いていた。いつもは弦一郎と同じように、何かしらの習い事の稽古に精を出しているらしいということにも、親近感がわく。
 言葉遣いの古さ、行き過ぎなほどの生真面目さゆえに喧嘩になったり、怖がられたり、結果的に遠巻きにされやすい弦一郎にとって、ほとんど初めて感じる、まるで抵抗なく馴染む気安さ。
 しかもそれを女の子に感じるというのに弦一郎は驚いたが、同時に新鮮で、決して悪い気はしない。──どころか、なんだかうきうきした気持ちになった。弦ちゃん、という初めての呼び名も、慣れてしまえば気にならなくなる──、否、だんだん特別なふうに思えてきて、弦一郎はいつの間にか、紅梅に「弦ちゃん」と呼ばれる度、笑って返事をするようにさえなっていた。
 弦一郎、という名に対し、その呼び方自体は安直なものであろう。
 しかし生まれつき身体が大きい方な上に比較的発育が早く、身長もクラスで一番高く、極めつけに、顔つきも幼いながら祖父や母によく似て、良く言えば凛々しく、悪く言えば険しく、道場見学に来た未就学児に顔が怖いと泣かれたことすらある──さすがにこの時は、弦一郎のほうが泣きそうであった──弦一郎は、生まれてこの方、そんな風に可愛らしく呼ばれたことなどない。
 そのため、“弦ちゃん”などと呼ばれると、正直いって、むずむずと尻の据わりの悪い思いをした。──が、不思議と不快ではない。

 弦一郎のクラスメイトには日常的に和服を着る子など当然居ないし、きちんと三指ついて頭を下げられるような子もいない。
 だから、魔女のような客人とともに突然家にやってきた、赤い和服を着たおかっぱ頭の童女は、なんだかまるで現実感のない存在だった。「こちら今日からうちの座敷わらしになる子で」などとファンタジーな紹介をされたほうが、いっそしっくり来る気がするほどだ。
 だが当然そんなことはなく、先ほどの魔女のような客人は紅梅の祖母であり、弦右衛門と佐和子が結婚するときに大層世話になった人物で、京都で芸妓をやっているらしい。
 彼女は日本舞踊においては一角の人物で、こちらで開催される公演で舞を披露するために上京してきた。
 その際、どうせなら顔を見せに来てくれと二人が請い、更に孫娘を連れてきてはどうか、と提案したのだという。
 公演の打ち合わせやリハーサルが終わるのが、明日。明後日が公演日なので、紅梅は真田家に二泊したあと東京で舞台を見て、そのまま京都に帰る、という予定だ。

 明日も彼女はここにいる。明日はどう過ごそうか、と弦一郎は考えながら、ふと、祖母の言葉を思い出した。
(オミアイ、だったか)
 そう思いつつ、弦一郎は、まだ新しい国語辞典を自分の本棚から引っ張りだした。
 弦一郎は実際の年齢にしては語彙が多い──ただし、かなり偏っている──が、それでも、知らない言葉がたくさんある。大人の話す言葉で知らない言葉はすぐに聞いて学習するが、今回のように尋ねそびれてしまった時は、こうして辞書をひく。
(『見合い(2)』の美化語)
 お、の項目で探した該当語句の説明に、弦一郎は、『おみあい』の“お”が丁寧語による装飾であることをまず学習してから、“み”の項目のページをめくり始めた。
(あった──)
 そして、『みあい』の説明文を黙読した弦一郎は、目を見開く。

 み‐あい〔‐あひ〕【見合(い)】
 [名](スル)
  ・
 (2)結婚の相手を求めて、男女が第三者を仲介として会うこと。
  ・
  ・
  ・

 何やら多くの意味がある言葉で、囲碁や建設においても使う言葉であるらしい。しかし“お”の装飾があり、更に何より状況からいって、祖母が使ったのはやはり(2)の意味で間違いないだろう。
(結婚の、相手を──)

 ──結婚?

 その言葉の意味は、辞書を引かずとも知っている。知っているが、自分自身にあまりにも遠い言葉すぎて、弦一郎は、ほとんど呆然としたような心地で、なんとなく辞書をめくった。

 けっ‐こん【結婚】
 [名](スル)
  男女が夫婦になること。→婚姻(こんいん)
 「お見合いでーする」「ー式」「ー生活」

 ばっちりと「お見合いで結婚する」と使用例が載っているその項目を、弦一郎はまじまじと見た。やはり意味はこれであっているようだ。一応、類似語として紹介されている『婚姻』の項目も調べてみたが、柳田国男の引用だの、「男女の継続的な性的結合と経済的協力を伴う同棲関係で、社会的に承認された──」などと難しい説明が並ぶので、そちらはとりあえずおいておくことにした。

(結婚)

 弦一郎の脳裏に、ぽわん、と、少女の顔が思い出される。
 きれいな子だ、と思う。髪の毛はつやつやで、肌は白く、少し眠そうな目の睫毛は長い。一緒に遊んで、話をして、良い子だとも、今までにないほど親しみを持てる子だとも思った。声も鈴の音のように高いのにうるさくないし、京ことばだという古い言葉遣いは、聞いていて面白い。

 自分は、彼女と、お見合いをした? ──結婚する?

 そこまで考えた弦一郎が直感的に抱いた感想は、決して悪いものではなかった。
 むしろ全く抵抗なく、胸の中にすとんと落ちてくるような心地で「そうなのか」と思ったし、そして落ちてきたそれをまじまじと見つめると、じわじわとこみ上げるものがある。

 ちりん、という風鈴の音にはっとする。弦一郎は、自分の頬や耳が、僅かな風でさえ涼しく感じるほどに赤く火照っていることに気づいた。実際に顔に触れてみると、にんまりと口角が上がっていたことも自覚する。

(──紅梅と、結婚する?)

 その夜、弦一郎はなんだかどきどきして、少し眠るのが遅くなった。
−  / 目次 / 
BY 餡子郎
トップに戻る