【2014 新春特別番外編】
白うさぎを追って
弦一郎は、縁側で、兄の信一郎と並んで座っていた。
庭はいつもどおりだだっ広くて誰もおらず、ラケットや竹刀を振り回すのに最適で、眺めているとうずうずしてくる。
しかし法律の難しい本を読んで勉強している兄の邪魔をするのは憚られ、弦一郎はただじっとしていることしかできない。
しかし、そんな弦一郎の退屈は、突然打ち切られることになる。
なぜなら、敷地を囲う塀の向こうを、なにか白くて長いもの──、うさぎの耳のようなものが、ひょこひょこと横切ったからだ。
弦一郎は目を丸くして、一心不乱に本を読んでいる兄に「ちょっと行ってまいります」とだけことわって、門を出るべく駆け出した。
信一郎は本に夢中になっていて、返事をしなかった。
「……む?」
勢い良く門から飛び出した弦一郎であったが、さっそく立ち尽くすことになった。
なぜなら、門の外はいつもの見慣れた道路ではなく、黒い町家が立ち並ぶ、真っ直ぐな石畳の道だったからだ。
鎌倉の町並みとも違う、整然とした風情の古都。どの曲がり角もきっちり直角、上空から見れば碁盤の目のように整然と区切られているのだろうこの町並みを、弦一郎は直接は知らないが、よく知っている。
──京都だ。
少なくとも明治時代から神奈川にあるはずの自宅を出たら、突然行ったこともない京の町に来てしまったということに、弦一郎はぽかんとして立ち尽くし、しかしとにかく誰かいないかと、きょろきょろと辺りを見回した。
しかしこれまた奇妙なことに、町家の風景には、人どころか、猫の子一匹見当たらない。僅かな生活音さえなく、耳鳴りがしそうなほどの静寂にぞっとした弦一郎は、とにかく誰か探そうと、もう一度辺りを見回した。
「ふむ……、このままでは遅刻してしまうかもしれんな……」
すると、五つほど向こうの路地から、背の高い紳士が歩いてきた。仕立ての良さそうな象牙色のスーツを着ているが、襟元はネクタイではなく、寛げたシャツの中にスカーフを巻いている。
ジャケットの内側から取り出した金色の懐中時計を眺め、何やらぶつぶつ言っている彼はとても姿勢が良く、顔立ちも整っていて、まるでハリウッド映画でクールな悪役を演じていそうな感じだ。
しかし、弦一郎が彼にすぐ声をかけられなかったのは、その見目の良さが原因ではない。
──紳士の頭に、長くて白い、どう見てもうさぎの耳にしかみえないものが、ぴんと上を向いてくっついていたからだ。
いい年の男性がうさぎの耳のカチューシャなど──、と思ったが、よく見ると、その耳は装飾品によるものではなかった。
かっちりとセットされた薄茶の髪の間から、うさぎの耳が直接生えているのを見た弦一郎は、更に目を丸くする。
「いかんな。急がねば」
しかし、紳士がそう言って懐中時計の蓋をぱちんと閉めるや否や、今までよりも更に足早に歩き出したので、弦一郎は慌ててそれを追った。
だが碁盤の目のような町並みは方向感覚を狂わせ、しかも誰も居ないので、なおさら自分がどれだけ歩いてどこにいるのか、すぐにわからなくなってくる。
「あの! 申し訳ありませんが! 道を……」
走っているわけでもないのに、その長い脚の歩幅のせいかやけに速いうさぎ耳の紳士の背中に向かって弦一郎は声を張り上げたが、紳士は全く振り返らない。
それでも見失うことだけはすまい、と、弦一郎は必死で走り、紳士を追いかけて、直角の道を曲がった。
「──ひゃ!」
「うわ!」
角を曲がった途端、何かやわらかいものにどーんとぶつかり、弦一郎と、そしてぶつかって跳ね飛ばされるようになった相手は、同時に声を上げた。
「……紅梅!?」
「えっ、弦ちゃん!?」
尻餅をついた姿勢のままの紅梅は、目をまん丸くして、なんでこんなとこおるん、と続けた。
「いや、それがどうも、わけがわからんのだが──、ああ、でも、そうか。京都だから、お前がいるんだったな」
知った顔に会えたことで、弦一郎はいくらかほっとしつつ、尻餅をついた紅梅に手を貸して立ち上がらせた。
紅梅は浅葱色の着物に、なぜか、大正時代のカフェの女給のような、肩紐や前垂れの縁に大きなフリルのある白いエプロンをつけていて、後ろで大きな蝶結びになっている。つやつやの黒髪は下ろしたままだが、カチューシャかヘアバンドのように、黒いリボンを結んでいた。
そしてふと気づけば、弦一郎も、全く同じような浅葱色の着物に、白い袴。そしてなぜか同じくフリルのエプロンをしていたので、度肝を抜かれて目を丸くした。
──いつからこの格好をしていたのか、弦一郎は全く思い出せない。
「うん──、うちも、よぉわからんのやけど」
紅梅も困惑顔をしながら、それでもなんとか落ち着いて、事情を話し始めた。
「ええと、お座敷でお姐はんらァとおって、そやけどえろぅ退屈やったから、お外出たん。そしたらなんや、たろセンセが」
「太郎先生……とは、お前の英語の先生だったか」
「そぉ、榊太郎はん。いっつもえろぅちゃんとしてはるお人なんやけど、なんや、……さっき、頭にうさぎのお耳つけてはってな?」
「……それはもしや、象牙色のスーツにスカーフを巻いた、背の高い人か」
「そのお人」
紅梅は、こくりと頷いた。
そして彼女が言うところによると、そのまま太郎を追いかけていたらなぜかすっかり人の気配がなくなってしまい、おまけに元いた『花さと』の場所もわからなくなってしまったのだ、という。
「うち、京都の町で知らんとこなんそうそうあらへんのに、おかしいわぁ……。なんや、どないなっとるんやろか……」
「む」
もともと下がり気味の眉を更に下げる紅梅に、弦一郎は胸を反らせた。
先ほどまで、弦一郎も困惑と不安でパニック寸前であったのだが、こうして紅梅と会ったことで、随分落ち着くことが出来た。
そして、京の町のエキスパートであるはずの紅梅があてにならないという事実を知らされても、弦一郎はがっかりしなかった。むしろ、知っているはずの町でこんなことになってしまった紅梅を支えてやらねば、という思いが、強く沸き上がってくる。
そして、その思いを確かにすると同時にフリルのエプロンをそっと外し、しかしそのあたりに捨てるのもなんなので、ねじってフリルがわからないようにすると、帯のように腰に括りつけた。
「とりあえず、その、榊先生を見つけよう。そう遠くには行っていないはずだ」
「へぇ」
しっかりした弦一郎の提案に、紅梅はこくりと頷いた。
騒がしい声を水の中で聞きながら、弦一郎と紅梅は、お互いの手を握りしめた。
誰もいない京の町はどうにも不安を煽り、二人はどちらかが言い出したわけでもなく、自然に手を繋いで、太郎の姿を探した。
そして、町並みはたしかに京都らしいのだが、どれもこれも紅梅の知っている場所ではないらしい。何度か適当な家の玄関を叩いてみたり、大声で呼んでみたりもしたのだが、ただシンと静まり返るばかりで、何の返事も返ってはこなかった。
「あっ! たろセンセ!」
紅梅が声を上げ、指差した方を見ると、確かに、象牙色のスーツの後ろ姿があった。やはり頭には、白いうさぎの耳がある。
そして太郎は、少年少女の声にまったく反応することなく、足早に、黒い町家の並びから少し外れたところにある赤い鳥居の中に消えていく。
「たろセンセ、待って!」
「待ってください!」
二人は手を繋いだまま、太郎の背を追いかけて、赤い鳥居に飛び込んだ。
すると、先程まではさっぱりわからなかったのに、鳥居は伏見稲荷の千本鳥居のごとく、同じものが数えきれないほど並べられ、トンネルのようにずっと続いている。
いくら呼びかけても太郎がさっぱり反応してくれないので、二人は仕方なく、歩く度に揺れている白いうさぎ耳を目印に、ひたすら赤い鳥居を潜り続けた。
右へ行ったり、左へ行ったり、昇ったり、降りたり、さらには逆さま、ぐるりと一回転して──?
あれ? と思ったその時、数本向こうの鳥居をくぐった太郎の姿がふっと見えなくなったので、二人は慌てて全速力で走り、太郎が消えた鳥居を、同じように潜った。──が、
「ひっ、きゃ──!!」
「うわ……!!」
突然地面がなくなり、真っ暗な空間に投げ出された二人は、思わず、繋いだ手をお互いに引き寄せ合って、しがみつくようにして抱き合った。
どれだけの高さかはわからないが、下に落ちる衝撃を覚悟し、ぎゅっと目を瞑る。
しかしその衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
「ん……?」
弦一郎がそっと目を開けると、薄暗い視界の中、岩の壁が見える。そしてその壁は、ゆっくり目のエスカレーターくらいの速度で、ゆっくり上に向かっていた。
「弦ちゃん、なんや、……浮いとるえ?」
弦一郎の耳元で、紅梅が、呆然とした声を上げた。
「そのようだ、な……?」
そして弦一郎は、紅梅の指摘によって、岩壁が動いているのではなく、自分たちがまるで落下傘のように、大きな縦穴に、ふわふわ、ゆっくりと落ちているのだ、ということを理解した。
二人は抱き合ったまま周りを見渡して、何か手がかりとか、とにかく頼りになるものがないかどうか目を光らせた。
しかし見えるのはひたすら岩壁ばかりで、結局、今落ちている縦穴の直径がだいたい六メートルくらいであるようなことしかわからない。
浮いているのはどうにもこうにも不安なので、二人はがっちり抱き合ったまま、泳ぐようにして壁際に寄り、いつでも壁の出っ張りに手をかけられるようにしながら、慎重に気を張りつつ下に降りていった。