#191
「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」
「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」
「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」
「◯◯◯◯◯◯◯」
「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」

 ──何だ?

 ぼやけた視界にまず入ってきたのは、重厚なビロードの生地に覆われた己の膝。己が座っていることを頭の隅で理解した次に認識するのは、複数人がなにか話しているな、ということ。

「陛下」

 ──へいか。陛下?
 そう呼ばれているのは、もしや己か?

 そうして思い至るのがトリガーだったかのように、瞬間、凄まじい情報量が押し寄せてきた。
 大気の震えが伝わる、これは何だ? 音だ、音という、音がうるさい、これは何の音だ? 己の心臓、心臓とは何だ、己にはない部位だったのに、筋肉が収縮して周囲の大気を吸い込み、酸素を胸の臓器に──肺に送り、循環させ──二酸化炭素を排出している。常に。腹部に詰まった臓器も、血を巡らせ、各々の役割を果たしている。口腔摂取した朝食が必要な要素を搾り取られ、今は蠢く腸の中でぐちゃぐちゃと捏ねられながら、ガスと老廃物に変えられている。

 ──おぞましい、おぞましい、おぞましい!

「──はぁっ、ハァ、ハッ……!」
「◯◯◯◯!」

 肉体が裏返りそうな嫌悪感に藻掻けば、また声がかけられる。眼球が動き、周囲の光エネルギー屈折情報を送ってくる。
 大聖堂のごとく高い天井、壮麗なステンドグラス、継ぎ目がないのにとんでもなく長い豪勢な絨毯。甲冑を身に着けた騎士、毛皮を使った重厚かつ豪勢な衣装を纏った男、人形のように微動だにせず控える女中たち。

「……陛下はご気分が優れない様子。場を改めましょう」

 他と違って音の意味が理解できた“声”は、近くに控えた女によるものだった。眼球を動かしてみると、高級そうだがあまり装飾のないドレスの裾が目に入る。白い肌には、アクセサリーもほとんど身につけていない。ドレスの色がもっと地味なら、貞淑な未亡人のような出で立ちだ。しかし工芸品のように編まれた何よりも赤い髪は、じゅうぶんにアクセサリーとしての役割を果たしていた。

「◯◯◯◯、ミカエラ殿下」

 困惑した様子の人間たちが、ぞろぞろと退出していく。世話をしようと女中たちが近づいてきたが、結局ミカエラがやんわりと追い返した。
「立って」とミカエラが促すので、なんとか立ってその細い背についていく。肩にかけられたマントが重い。

 己が座っていた玉座をなんとなく振り返れば、その上には、巨大で壮麗なタペストリーが掲げられていた。図柄は、4つに分けられた盾のそれぞれに、剣、ゴブレット、金貨、杖、中央には、輝く星。そして周囲には、お互いの尾を食んで円環状になった2尾の蛇が描かれた紋章。

 あれは、セラフィムの輝き。未だ探し求める輝きの空想図。



「未だに肉体に慣れないのですか。困ったものですこと」
「な、な、慣れっ、る、る? おっおっお前たちっ、ふふふ風にいっ言えば、つつ常に、おおおおおお汚物にあ、ああ頭まっ、でで浸かっ、ていいいいいいいいるようなァッ、こっ、心地に?」

 ひどい吃音だ。煩わしい。気をつけて調整すれば流麗に話せるが、そもそもひどく萎縮したこの脳では、肉体の見た目を整えて通常の生態循環を行わせるだけでも一苦労だった。そもそもミカエラ相手に“人間”としての見栄を張ったところで、何の意味もない。

「いい加減になさい」

 ミカエラが振り向く。他にはない真っ赤な髪は異質だが、迫害の対象ではない。むしろ稀なるもの、この星の生物たちにとっての命の色として崇められてすらいる。つまり、馴染んでいる。受け入れられている。何の変哲もない茶色の髪と青い目をした己と違って。
 だがよく擬態してはいても、彼女の目は、よく見れば底の見えない穴に似ている。はるか遠くの宇宙の果てに繋がる、何もかもを吸い込むかのような引力は、己が彼女に対する懐かしさと慕わしさを捨てられない一因だ。あの目の奥に光るのは、懐かしい青白い輝き。あの穴の向こうに行きたい、帰りたい、そう思ってしまうことをやめられない。

「わたくし達は、もうここで生きていくしかないのです。あなたが彼らを統率する王というやり方ならばこの星に馴染めると言うので、わたくしもそうお膳立てをいたしましたわ」

 そうだ、確かにそう言った。
 この有象無象のひとつとして馴染むことなど到底無理だが、あれらを操り統率する個体ならばまだましであると思ったのは、今も変わっていない。しかしあれらはこちらの命令をそのまま受け入れることなど全く無く、命令を聞かないか、それぞれの考えを投影して勝手に改変して理解するかばかりで、まとまるどころか戦争を始め、いまこの有様だ。
 仕方がないので、現在は極力単純な命令しか与えない運用しかしていない。机上遊戯の駒たちがすべて勝手に動くキングでは勝てるものも勝てないが、駒のひとつひとつが戦略を理解している必要などない。それぞれ前に進むだけ、斜めにジャンプするだけという単純な能力しか与えなければ、自分がそれを上手く操ればいいだけのことだからだ。
 おかげで戦争には常勝で、領土はどんどん広がり、かの王は全てを見通す預言者のごとき、いや神のごときなどと言われている。あまりにも低レベルな称賛は、褒め言葉でもなんでもないが。そして同時に、暴君だの、人の心を持たぬとも恐れられている。しかし実際に人の心などないので、これはむしろ褒め言葉なのかもしれない。

「あなたは気が短すぎますわ。もっと長い目でみなければ」
「う、う、う、うううるさ、い。もも、もう、待って、いられるか。お、お、おおおおおまえのやり方はっ、悠長すぎ、ぎぎぎぎぎう」

 ミカエラは試行錯誤を繰り返してきたし、その中には己では考えもつかないような案もある。それは認める。そしてそのひとつが、未だ漂うままの“我々”の一部をこの星の生物に根付かせることで、己たちが彼らに擬態し近づくのではなく、この星の生物を将来我々に親しいものにしようという試みだ。
 侵略めいたその発想自体は、悪くない。だが時間がかかりすぎる。恐竜が絶滅し、人類が文化を持つようになるまでの時間よりももっと莫大な時間がかかるに違いない。
 ミカエラが撒いた“種”は、人類としては異質な特殊能力として発現する。しかし発現するものとしないものがあり、発現しないほうが圧倒的に多い。しかも、発現したところで肉体と合致せずコントロールできず、悪いと生命活動に支障をきたすことがほとんどだ。──今の己のように。
 更には能力を発現した者を魔女と迫害し、周りの者が殺してしまうという事象が大規模に起こっている。この騒ぎを鎮めるのが無理だと確信したからこそ、魔女狩りと称して能力発現者を集め、自分に合致する肉体を探した。
 今の所はハズレばかりで、そして“ハズレ”たちは奴隷になったり処刑されたりしているが、それはどうでもいいことだった。能力が高いので働かせるのは有用だし、死んでも我々の“一部”はまた元のように漂い、そのうち別の生命に介入するだろう。よくできたルーティンだ。

 そうこうするうちに、海を超えた大陸の果てにある半島に、魔女として迫害され追われた能力発現者たちが集まっていることを知った。
 調べてみれば、そこは己たちがこの星に“堕ちた”場所であることがわかった。ミカエラによって我々の一部を身体に宿し発現させた者たちだからこそ、彼らもあの場所に惹かれ導かれるのだろう。かつて己たちが、果てのない暗闇の旅の中で見つけたこの青い星の輝きに縋ったように。それを証明するかのように、彼らはあの半島をシュテルンビルト、星の街と名付けた。
 あの場所が欲しかった。今はもうない、遥かな故郷の名残、あるいはもういない仲間たちの墓として、あの場所を求めた。
 しかし厄介なことに、己たちが“堕ちた”影響を受け、長い時を経て地層が変化を起こし、人類文化において価値ある鉱物の一種である金を始めとしたレアメタルが豊富に採れるとわかったシュテルンビルトを、多くの国が欲しがった。
 建前は金脈の奪取、そして集まっている能力者たちを魔女狩りの名目で狩り尽くす。星の街に固執するあまりそのやり方が今までよりもさらに苛烈となったため、そもそも彼らに我々の一部を植え付けた、いうなれば彼らの母とも言えるミカエラにはいい顔をされていないが、それもまた知ったことではなかった。

「……あなたは、彼らに嫌悪感を表すばかりですね。いつまで経っても」

 ミカエラは、溜息を吐いた。ミカエラは殊の外演技や擬態が上手いが、今の動作は本当に人間のようである。
「お、お、お、おおおおまえは、ち、ちっちっちちがうと?」
「そうですね。いい友人になれればと思いますわ」
「ゆ……?」
 情報処理が出来ずにいると、ミカエラは頷いた。

「わたくし達にはひとつになるかならないかしかありませんけれど、この星の生命は違います。はじめは番になって新たな生命を生み出す関係性がそれに相当すると理解していましたが、そうではない。友愛、情愛、性愛、家族愛、あるいはどれにも当てはまらない愛によって彼らは寄り添う。わたくしたちは彼らとはどうしても根底から違いますから、全てを同じようには出来ませんけれど……。しかし友愛ならばわたくしにも理解し得る、そう“感じて”きたところですわ」
「ゆ、ゆゆ、友愛? だと? だだ、だだだ、だれ、と」

 ミカエラは、微笑んだ。己が未だ出来ない表情だ。

「ここに」

 細く白い手が、胸元を押さえる。心臓の位置。命はあっても意思はないはずのそこに、彼女は慕わしげに手を添えた。

「元の“ミカエラ”が残っておりましたの」

 驚愕して、声も出なかった。
 肉体に元々備わっている人格は、己たちと最も相容れないはずのものだ。精神分裂が起こす多重人格などとは根底から違う、全く異なる外部生命体との融合に、この星の肉体、精神、あらゆる構造は対応していない。ゆえに元の人格は誕生と同時に消去するのが常であったし、でなければ己の肉体のように、元々人格が育たないような脳・精神の持ち主でなければ肉体を得られない、そのはずだ。
「ゆ、ゆゆ、融合、を……!?」
「いいえ、融合ではありません。共存しているのですわ。別々のものでありながら、共にある。それがこの星の生命のあり方なのだと、わたくしは理解……いいえ、感じました」

 わからない。わからない。わからない!

「わからない、というのはわかります。わたくしも長くわかりませんでした」
 なんせ元々ないものですものね、とミカエラは苦笑する。
「不思議な生態ですわね。意思のない群体のようでいて、ひとりひとりと言葉を交わせば、同じ個体は一切ないわ。他者に対する行動や対応、その同期も千差万別。未だに全ては理解できませんわ。ただ、悪いものでないことだけはわかります」
 己たちにはあるまじき、漠然とした、曖昧な表現だ。なにひとつ具体的ではない、得体の知れない宗教のでたらめな聖書でも読み聞かせられているような心地である。大事そうに手が当てられた胸の中の臓器に、我々はいない。まさに頭がおかしくなっているとしか思えない。
「この子と言葉を交わすうちに、過去生まれる前にわたくしが肉体から消してきた子たちや、わたくしたちの欠片を与えた者たちのひとりひとりのことを考えるようにもなりました。その時痛んだのが頭ではなく胸であったことで、わたくしは思いました。……子を持つ母とはこんな風でありましょうかと。これが、我が子を食らってきた愚かな母の罪なのだと。そして、罪は償うべきであるのだとも」
 だがその言葉で連想されるのは、無数の菌に体の内側を寄生され、死してなお動く虫の姿。

 ──どっちがだ?

「そして、ミカエラと、毎日お喋りをしてわかりましたの。別にひとつにならなくても、仲良くすることはできるわねって。それに、ふたりいなければお喋りもできないものね!」
 ミカエラの口調に、幼い子供のようなものが交じる。

「はじめまして。おにいさまなのよね?」

 あきらかにミカエラ以外のものがその肉体に宿っていることを示すそれに、毎日寝ていたマットレスの裏側が黴と虫だらけだったかのようなひどい嫌悪感、おぞましさが湧き上がる。

「どこに行くの、ルシ……ルシウス! まあ、そんなに走っちゃ転んじゃうわ」

 ふたりぶんの同じ声から逃げるようにして、骨の曲がった足を動かした。




 ──ああ、ああ、ああ!!

 走っているがゆえに多く取り込まれる酸素に、肺の運動が追いつかない。呼吸器官が発作を起こす寸前で、出来損ないの曲がった脚が絨毯に引っかかり、盛大に身体が転がった。

「あら、まあ」

 部屋の奥から発されたのは、少女のように高い声。
 荒い呼吸の苦しさをこらえながら顔を上げれば、天蓋付きのベッドの薄布の向こうに人影。ふと床を見れば、裸の男が床に転がっている。恍惚の表情を浮かべ、白目をむき、涎を垂らして。その様子は、交尾とともに雌虫に捕食された雄虫の死体を彷彿とさせた。

「まあまあ、どうなさったの」

 レースの帳がめくられ、白いふっくらした裸の脚が姿を表す。
 小柄で華奢な、少女めいた女体。裸のまま、何の恥じらいも見せず、ただ長い赤い髪が僅かにその身体を隠すままに、彼女──ラファエラはこちらに歩み寄ってきた。

 ラファエラ。
 己たちの同類にして、異なる存在。

 ラファエラは、ミカエラが己たちと融合できる肉体作成を試行錯誤する中で生まれた。
 他者の生命エネルギーを粘膜接触で取り入れる永久機関を搭載した不老の肉体は完璧だったが、ミカエラにもルシフェルにも合致しなかった。しかし抜け殻のまま捨ててしまうには忍びないと考えたミカエラが、意思なく漂う我々の欠片を集めて詰めて出来上がったのがこの人形のような女である。
 自我があるのかないのかわからない、ただニコニコとしているばかりのこの白痴女は、そこらの人間をつかまえては粘膜接触で生命エネルギーを絞り、ただただ永久機関を稼働させている。いつまでも少女のようだが、肉体の稼働時間は現在のミカエラ、ルシフェルが使っている今の肉体よりもずっと長い。
 最初は絞り尽くして相手を殺すこともあったが、擬態上手のミカエラが「ほどほどに吸い上げること」「相手がいらないと思っている所を貰うこと」と伝授と躾けを行ったところ、生命エネルギーとともに相手の嫌な記憶や感情を吸い上げるラファエラは、今ではまるで聖女のように扱われている。
 やっていることは誰にでも股を開く淫乱女なのだが、彼女と接触した者たちが文字通り毒を抜かれていくうちに、心洗われる聖女という評判のほうが勝ったのだ。
 遺伝子情報をコピーして使った部分があるゆえに、ミカエラと瓜二つの顔つきのラファエラは、ミカエラと双子の姉妹、ということになっている。

「痛いの? 苦しいの? かわいそうに。おおよしよし、おおよしよし」

 甘ったるい声。苦しんでいる者が側にいると、彼女はもれなくこうして手を差し伸べる。なぜなら苦しんでいるということは、それを吸収して腹を満たせるということだからだ。目につく餌を手当たりしだいに口に入れ、目的もなくただ生きることに執心する暴食の女。

「よよ、よ、寄るな」
「かわいそうねえ」

 にこにこと笑みを浮かべて目の前にしゃがみ込む裸の女。裸体であることはどうでも良かったが、しゃがみ込むことで見える、粘液が滴るぬめった生殖器を侮蔑し、顔を反らす。と、ベッドの正面にあった巨大な鏡を見ることになった。映り込んでいるのは、絨毯に膝をつく己の姿。

(なんだ、これは)

 ぞっとした。
 妙に短い手足。幼児の手をそのまま大きくしたような、芋虫に似た指。肥満が原因ではない不自然な下腹。妙に大きいぶよぶよした頭部。耳の後ろが禿げ上がった茶色の髪と、左右で違う方向を向いたくすんだ青い目。
 確かにこの星の生物、しかしその中で忌み嫌われ嘲笑われる、出来損ないの歪んだ姿。

「あ、ああああ、あああああああああああああっ!!」

 ──こんなものは、自分ではない。こんな、おぞましい肉塊!



 ──……ああ、そうだな。俺じゃねえ。誰だこれ。

 急に、スッと頭が覚めた。
 鏡で見る“自分”は、どう見ても自分ではない。半ば容姿を売り物にしているプロなのだ。己の姿は常にメンテナンスし、誰よりも把握している。
 そもそもこんな時代錯誤なロケーションは全く覚えがない所だし、歴史ドラマの出演オファーを受けたこともない。

(ここは、どこだ? なんで俺は、こいつ──“ルシウス3世”を、“自分”だと思い込んでいた?)

 パニックと呼吸器の発作で苦しむルシウス3世の視界は、小さなシアターで古いフィルムを見ているようでもあり、あるいは話に聞いたことのある離人症の症状にも似ていた。

(俺は、ルシウス3世じゃねえ。俺は)
「つらいのね? かわいそうに」
 叫んだことでぶり返した呼吸器の発作で苦しむ傴僂ぎみの背を、白く柔らかい手が撫でた。

「怖かったのですね。それと、寂しかった。わかります」

 ぴくり、と短い指が震える。

「そう、本当のあなたは、そんな醜い姿ではありません。わかっておりますとも」

 すぐ耳元で聞こえた甘い声に目線を上げれば、白い顔がこちらを覗き込んでいた。はるか遠いどこかに繋がっているのではないかと思う、底のない穴のような、何もかもを吸い込むかのような目から視線が反らせない。

「誰も本当のあなたを見ない。誰もがあなたから目を逸らす」

 頭を過るのは、SS認定されて入所させられた監視付きの施設の部屋。恐れおののく同級生や教師、これからもよろしくと背を叩いたはずの芸能事務所の人々。

「でも私は違います。私は美しいあなたを知っていて、美しいあなたを愛している。あなたと私は同じもの。さあ、私とひとつになりましょう。そんな醜い姿は脱ぎ捨てて、一緒に、新しい星へ」

 そう言った女を、力任せにベッドに押し倒す。
 天蓋の布がびりびりと破れ、周囲の視界を遮るように落ちてくる。世界から遮断され、ふたりきりの世界。白い手が歪んで引き攣った頬に添えられ、その顔を優しく引き寄せる。
 唇を許そうとする赤い髪の女は、微笑んでいた。天使から黄金の槍を向けられ、私は選ばれたといわんばかりのその恍惚、法悦の表情は、しかし長くは続かなかった。



「──ふざけんなよ」

 吃音など欠片もない、低く滑らかな声。

「俺はお前じゃねえし、常にイケてるし、超人気者で注目の的だっつーの」

 常にセットされた、豊かなプラチナブロンド。恵まれた長身のスタイルを更に鍛え上げた体躯。健康的な肌、男らしく整った顔立ち。筋張った大きな手、長い指、そして金色の目。一分の隙もなく自信に溢れた完璧な姿が、目の前の相手を圧倒する。

「俺は俺。ゴールデンライアン、──ライアン・ゴールドスミスだ!」

 黄金の獅子が吼える。

「まあ、素敵。それが本当のあなたなの?」

 目の前のラファエラは、聖母の彫像のように微笑んで言った。重ならなかった唇が、艶かしく半開きになっている。

「おう、そうだ」
「そうね、あなたがあんな醜い姿であるはずがないもの」
「はっ」

 ライアンは、鼻で嗤った。

「こんな口説き方で、俺様がオチるって? 舐められたもんだ」

 自分はもっと魅力的な殺し文句を知っている、と彼は続けた。

 ──ゴールデンライアンは、這いつくばっていても格好いいと思います

 そうだ。初めてタンデムし、彼女のエンジェルライディングに絶叫し、みっともなく這いつくばって怒鳴り散らしたライアンに、彼女はそう言った。
 脳裏に浮かんだその声で、ライアンはピンと思い出す。そして、表情をなお一層険しくした。

「……あいつはどこだ」
「なんのことでしょう。わかりません。忘れました。あなたも」
「答えろ」
「そんなものはいません。いないでしょう? あなたの天使は私。私の選んだ」
「うるせえ!」

 嫋やかな手を掴んで引き剥がし、白く整った歯を獰猛に噛み締める。
 惑わされるな、混乱させられるな。自分を強く持て、頭のおかしい相手に引き込まれるな!

「……お前に同情するところも、多少はあった」

 寂しい、ひとりぼっちのエイリアン。誰も目を向けない、檻に入れられた獣。
 それはかつて、確かにライアンが自分に対して思ったことがあるものだ。

「俺とお前には、似てるところがなくもない。でも同じじゃねえ、似てるだけだし、言っちゃ何だがありきたりでチープな悩みだ。お前が知らねえだけで、大なり小なり同じようなことで悩んだ経験がある奴なんて山程いるだろうよ。むしろ、誰もが通る道ってやつ?」

 自分に惨めなところなどひとつもないし、悲劇のヒーロー気分に浸るような青臭い思春期はとっくに卒業した。
 自分は愛されるべき人間であり、生まれ持っての人気者。自分はヒーローになるべくして生まれた男なのだとライアンは感じているし、信じている。
 愛に飢えているのではない。ライアンは生まれてきてから両親に、家族に、友人に、恋人にペット、そしてファン、あらゆる人々に目一杯愛されてきた自覚がある。そして、彼はそれが大好きだった。尊いものだと感じてきた。人は皆それぞれ愛されていてしかるべきだと、愛され、困ったときには助けてもらってきたからこそ、ライアンは本気でそう思っている。

 だからこそ、ライアンはヒーローを目指した。応援してくれるファンを大事にしてきた。親兄弟も恋人もいない、もしくはどうしても間に合わない人たちを助けるのが自分たちヒーローだ。
 特別格好いい、ナンバーワンのオンリーワン。キラキラ輝くスーパーヒーローが、ライアンの目指すものだ。常に安泰で、余裕綽々、余計な力が入っていないスタイルが成せる、あらゆる意味でリッチだからこそ皆に平等に接することができる、人気者の俺様キャラ。

「俺はファンを大事にするタイプだ。そうしてきた。どんな奴でも平等に接してきたつもりだ。でも、もうお前には容赦しねえ。お前は出しちゃいけねえ所に手を出した」

 特別なものがある。自分だけのもの。
 彼女が惜しげもなく差し出してくる、受け止めるのがやっとの、無償の愛と言っても足りないような重量級の愛情。彼女の命を懸けた愛に見合う宝石などこの世のどこにもありはせず、人に与えることを好み、誰よりも得意としてきたライアンが初めて同じだけ返せる自信を失い、尻込みしたほどの愛をくれる恋人。

「そんなものはいません」

 汚い犬は追い出したとでもいわんばかりの冷めた声に、ライアンは激昂する。目の前が真っ赤に染まるほどの怒りは、今まで生きてきた中で初めてのものだった。

「どこにやった!? 返せ!」
「そんなものはいません」
「──ッガ、アアアアアアアアアアアアア!」

 絶叫し、白い首を掴む。女の首はライアンの指が余るほどに細い。
 ぎりぎりと首を絞めても、アルカイックスマイルは彫像のように崩れなかった。

「アンジェラ……」

 天使。そうだ、自分だけの天使の名前は何だった?

「──ガブリエラ!」

 名を呼ぶ。途端、その姿を鮮明に思い出した。
 細すぎる身体、ところどころにそばかすが浮いた白い肌。きつくウェーブした、うなじから下半分刈り上げた真っ赤な髪。きらきらとした灰色の目。
 いつでも蕩けたようにうっとりと、自分を世界で最上の存在であるかのように眩しげに見上げる潤んだ目を可愛いと思う。愛している。愛していると言った。言われた。嘘もおべっかもない、頭の足りない犬のように素直で正直な直球さでもって、誰より好きだと、何をされても許してしまうほどに深く愛しているのだと、彼女は告げてきた。

 お互いに子供だったなら、きょうだいのように転げ回って遊んだだろう。
 彼女が犬だったら、きっと一生の親友になった。
 もし同性だったとしても、最後にはどうでもよくなる想像がついてしまう。

 あんな女は、他にいない。
 愛していると、ただそれだけで意味もなく泣けてくるのだと、そんなことをライアンに言った女はいなかったし、そしてライアンも、そんなふうに女を想ったことなどない。──なかったのだと、滲む涙を感じながら歯を食いしばる。

「わ、だじは、あなだ、の、ォ」
「お前じゃねえ、クソ野郎!」

 首を絞められて舌を突き出す半開きの唇に、心底の嫌悪と憎しみを抱く。
 自分が求めているのは、キスをすると約束した唇は、こんなものではない。歯列矯正はしたものの、元々普通より長かったらしい八重歯の犬歯が歯列の背比べから少しはみ出している、子犬のようなかわいい口元が恋しい。

「お前なんか知らねえ、──ガブリエラ!」

 あらん限りの声で叫ぶ。呼ぶ。求めた。
 能天気かつ果てしなく前向きなメンタルの持ち主で、物事を深く考えないが同時に細かいことも気にしない。頭は悪いが生き残るガッツとバイタリティには誰より優れ、そして何より最もライアン・ゴールドスミスを愛し、それを第一に行動する恋人の名前を呼ぶ。
 彼女さえいれば、どこにでも行けるのだと。あいつが側に居さえすればどんな場所でも平気で、楽しんで、笑い飛ばしてやれるのだと。

「ガブリエラ! ガブリエラはどこだ、返せ、俺のあいつは、俺の」

 ライアンがその名前を叫ぶ度に、あれほど微動だにしなかった微笑みにヒビが入る。

「ガブ。ガブリエラ! 俺の、ガブ!」










 ──青白い光が、弾けた。










 急に目の前でフラッシュを焚かれたような、薄暗い映画館から突然真昼の太陽の下に連れ出されたような。
 ちかちかと白く点滅する視界に僅かな頭痛も感じながら、顔を顰めて薄目の瞬きを繰り返す。

「……あ?」

 歴史ドラマのセットのような先程までのロケーションと違い、今目に入るものは、これでもかと覚えがある。何しろ自分の部屋だったからだ。
 暗い。夜中だ。壁に元から備え付けてあるホログラム式の時計は、日付が変わるぎりぎり前あたりを示している。

 ──酒臭い。
 ぼんやりとそう思うと同時に、目線を下げる。途端、ざあっ、と、ライアンの顔から血の気が引いた。

 己が力いっぱい締めていた、白く細い首。
 くるくると癖のある、中途半端な長さの赤い髪が乱れ、目元は見えない。白く細い肩には、大きな歯型。肩だけではなく、色々な所に同じ大きさの歯型や、赤紫色の鬱血跡がある。
 細すぎる体躯に絡みつく、びりびりに破けた安っぽいTシャツ。中に着ていたのだろうブラトップから、薄いパッドがはみ出している。ろくに膨らみのない胸のピンク色の部分が、ちらりと見えた。

 皺になって、なんだかベタベタと汚れたリネンが肌に張り付く。

「ひ」

 慌てて首から手を離す。真紫に鬱血した細い首。赤い髪の頭が、ごろりと傾げた。口は大きく開けられ、犬歯の目立つ歯の間から、力なく舌がはみ出している。

「……ガブリエラ」

 おそるおそる、名を呼ぶ。許しを請うようにか、それとも許してくれるなと縋るようにか。
 だが彼女は、ぴくりとも動かない。死んでいる。犯されて死んでいる。死んだのだ。取り返しがつかない。もうどうしようもない。

「あ、ああああ、ああ」

 初めて出会った彼女の、正真正銘骨と皮だけになった姿を今思い出すと、ライアンは心の底からぞっとする。あの時、ガブリエラは死にかけていた。死んでもおかしくない状態だったのだと思うと、ライアンは今、心臓が潰れるような気がする。
 母に喜ばしく死ねと言われ、馬小屋に逃げ込み、誕生日を祝ってもらえず、蛇を炙って食べたという幼い彼女。黒い馬の亡骸に縋り、死にそうなほど泣き続ける彼女。たったひとりで荒野を歩いてきた彼女。暗いメトロの瓦礫の下、92人の乗客に己を切り分けて与え、骨と皮だけになって死にかけていた彼女。過去の彼女の全てに、ライアンは、もう手を伸ばすことができない。

 ──だというのに、よりにもよって。

 好きだとも言わず、想いを込めたキスもしない男に、乱暴に抱かれる彼女を作ったのは、自分だ。自分が犯した。俺が血を流させた。

「ガブ」

 酒に飲まれたことも、彼女が抵抗しなかったのも、彼女の能力の影響だって言い訳にはならない。自分がやったのだ。自分が彼女を犯し、傷つけた。ヒーローを名乗る自分の本性は、無力な女を傷つけて悦ぶ下衆。そしてのうのうと許されている。許されてしまった。そんな男が、どの口で愛しているなどと言ったものか!
 でも彼女は愛してほしいと言った。愛しているから許すし、愛しているから愛してほしいと。だから──

「──違う」

 贖罪で愛したのではない。ヒーロー・ゴールデンライアンを損なうから、下衆な本性を暴かれたくないから、責任をとったなどという陳腐な理由などではない。

 ──では、なぜ優しくしたのですか?

「……俺がお前に優しくなったってんなら、それはお前が」

 優しくしたのは、愛しているのは、本当に彼女を

「つまり能力に関係なく、お前が、……何だ。面白くて、イケてて、ぶっ飛んでて、他にないヤツで、……かわいいし、……好きだ、って、思っ」
「ほんと、う、に?」

 だらりとはみ出した舌が、動いた。
 声変わり前の少年のように高く美しいはずの声は、首を絞められたせいか、がらがらと割れて濁っていた。

「ごんな、に、しでおい、で、……ほんどうに、わたじを、あ゛ぃしで、いる゛?」

 傷だらけの、恋人ではなかった女、犯されてしまった女、死んでしまった女からの壊れた問いに、ライアンは何もかもを飲み込んで押し黙るしか出来ない。

「恋人? 俺の、ガブ?」

 せせら笑う声は、誰のものだろうか。

 ──そんなものは、いません。
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BY 餡子郎
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