始まるための物語(2)
 紫乃のお腹が鳴ったので、今日はもう遅いと判断したのか、「続きは後日改めて」とばかりに席を立つ藤宮一家に、浮足立ったのは手塚一家である。
 息子・国光の魔法力を安定させるには、その力の扱い方を学ばせなければならない、というのは理屈として理解できるが、まだたったの10歳の子供を遠く離れた海外の学校────しかも全寮制────に転校させることに、躊躇が無いはずがない。きっと日本中探しても、躊躇いを持たない親はいないはずである。
 貴重な情報を知るお向かいさんには申し訳ないが、このまま帰ってもらうには、なかなかに心細い。それは国晴だけではなく、手塚の祖父も同じであった。
 どうやってお向かいさんを引き留めようか、とあれやこれや考えあぐねていると、にこにことした彩菜が手塚家での夕飯を一緒にどうかと提案してくれた。空気の読める上に控え目で謙虚、才色兼備のこの嫁は、国晴には勿体ない日本一の嫁である! とは、国晴が彩菜と結婚してからの、国一の常套句である。

 とにもかくも、彩菜の気の利いた誘いに、これ幸いと国一と国晴が藤宮家に促した。「そうない機会ですからの」、「もっとお話を聞きたいですし……」等々。懇願するような表情と共に言われて、イヤ困りますと断る人間はそうそういまい。藤宮一家もその手のタイプで、「ではお言葉に甘えて……」と好意に甘えることになったのである。

「……食べられないのか」
「いくら、嫌い」
「好き嫌いはダメだ」
「でもプチっとした食感が苦手」
「…………半分だけ取ってやるから、きちんと食べるんだ」
「みっちゃんありがとう!」

 結局、夕飯は出前の寿司となった。先日、ご近所の奥様から“かわむらすし”という寿司屋がオススメだと教えていただいたので、かわむらすしの出前にしたが、これがとても美味しかった。
 傍らで仲良さそうに寿司を食べる国光と紫乃の二人の様子に、彩菜は微笑んで、「そのまま紫乃ちゃんと結婚しちゃいなさい、国光」なんて言って、息子から無視をされたが、照れてるのね、と微笑んだままだ。手塚母、強しである。

「……玉子、食べるか? 好きだろう?」
「うん、大好き」
「そうか」
「みっちゃん、うなぎ食べたい?」
「! いい、のか?」
「うなぎ、好きだよね?」
「……好きだ」
「はい」

 言いながら、お互いの好きな寿司ネタを交換し合う姿に、手塚家も藤宮家も、みな揃ってほっこりしていた。親馬鹿と言われても仕方ないが、可愛いなあと思ってしまう。特に爺二人は、珍しいくらいに笑顔である。

「美味しいね」
「……ああ」

 そんな大人たちを余所に、好きな物を交換し合った子供二人。手塚は紫乃から、うなぎと甘エビ、サーモンを貰ったし、紫乃は手塚から、玉子と鉄火巻、かっぱ巻を貰った。

 そこそこにお腹を満たした頃、再び国晴が切り出す。

「それで、藤宮さん……あの、ホグワーツってどういう学校なんでしょうか。本当に存在するんでしょうか。それに学費とか……」

 郵便受けに入っていた羊皮紙の封筒に、やたらと仰々しい蝋で封印が施された手紙を思い出す。すべて英字で書かれていたそれに、切手などなく、もちろん消印もない。手の込んだ胡散臭い演出と受け取れないこともないのだ。
 だのに、お向かいさんから「魔法使いの学校」だ、と言われ、魔法が存在すると断言されて、戸惑わない方が可笑しい。
 ちら、と息子を見た国晴は、超常現象やオカルト話を冷静にありえないと断言していたはずの国光が、まったく疑う素振りすら見せないことに、密かに驚いていたのである。

「お気持ちはわかりますとも。それがマグルであれば、当然の反応かと存じます」

 箸を置いて、宗一郎は国晴と向き合う。
 漠然とした不安を露わにする彼に、宗一郎は、父親なのだから当然の反応、と黙って頷いた。

「ホグワーツ魔法魔術学校は、文字通り、魔法使いや魔女を養成するための学校です。魔法を正しく扱うために、魔法を学ぶ」
「例えば?」
「そうですな。僕は通ったことはありませんので、息子から聞いた話ですが……」

 「息子」という言葉に、紫乃がぴくりと反応した。
 そして目をキラキラさせて、「パパの……!」と祖父を見つめる。孫娘からの視線に、宗一郎は嬉しそうに笑って、こくりと首肯した。

「例えば、守護霊を呼び寄せる魔法や、自らが動物に変身する魔法など多種多様なものがあると聞いております。もちろん、ドラゴンなどの魔法生物の飼育について、魔法植物や妖精にも触れる授業があったと聞いております」
「ど、ドラゴン……そ、存在するんです、ね……アハハ」

 当たり前のように登場してきたドラゴンの単語に、一瞬くらりと眩暈した国晴。
 父ほどではないが、手塚自身も内心で驚愕している。ドラゴンが普通にいるのか。恐るべし、魔法世界。
 安全面という観点でとても不安だが、「ホグワーツには腕の立つ魔法使い、魔女が何人もおります。監督者として申し分ないものばかり。なにより現校長のアルバス・ダンブルドアは魔法使いの中で最強の魔力の持ち主。大丈夫です」と太鼓判を押してくれたので、少しだけ安心した。

 しかし、そんな男連中などとは違った反応を見せる者が一人。

「藤宮さん。ドラゴンがいるくらいなのですから、ペガサスやユニコーンもいたりします?」
「え?」
「母さん?」

 にこにこしたままおっとりと訊ねた彩菜に、父子共にぽかんとした。

「おりますとも」
「あら、素敵。妖精も居るってことは、フェアリーやピクシーも? 人魚もいます?」
「もちろん。およそマグル世界で有名な童話に登場する空想上の生き物は、すべて」
「なんて素敵なの!」

 きゃあと、手を叩いて喜ぶ妻の姿に、国晴は顎が外れそうなほどに驚いた。「え、そこ? 彩菜さん、そこじゃないだろう? もっと気にするところがあるだろう?」あわあわとした様子で言ってみたが、きょとんとした様子で、「だって私、魔法にずっと憧れがあったんですもの」と一言。

「私の年代なら、魔法使いサリーに、女の子みんなが憧れたものだわ。ひみつのアッコちゃんだって。魔法のコンパクトを両親にねだって買ってもらったくらいだもの」

 「テクマクマヤコン、テクマクマヤコンって呪文を唱えたものよ」そう言って、うふふ、と頬を染める。今で言うところのアラフォーになっても美しいこの妻に、国晴はちょっと照れた。
 それは置いておいて、「魔法で変身できるだなんて……素敵ね」とうっとりしている妻は、結婚する前のお付き合いしていた時から知ってはいたが、かなり天然である。

「国光。入学しちゃいなさい。そしてお母さんに魔法を見せて。いい?」
「あ、彩菜さん! 落ちついて。まだ学費とか色々……」
「そ、そうじゃ彩菜さん。イギリスの学費は高いと聞く。第一、イギリスなんぞ日本と違って治安が悪いとも聞くし……」

 さすがの祖父・国一も、お花畑あふれる息子の嫁に危機感を覚えたのか、やんわりと待ったを掛けた。
 とはいえ、男二人の制止に動じるような彩菜ではない。

「大丈夫ですよ、お義父さん。国晴さん、お義父さんが思ってらっしゃる以上にお仕事を頑張ってくださってるので、貯金はかなりありますよ」

 「おかげで、私はパートも必要なく、主婦業に専念させていただいていますわ」と、夫を持ち上げる。妻のささやかなフォローに、国晴はじーんときた。
 だらしないと実の父からさんざん言われるが、こうして妻がこっそり立ててくれるのが、本当にありがたいのである。

「へそくりだってありますもの。これから通わせる塾の費用も不要になるんでしたら、それを代用すれば問題もありませんわ」

 さきほど宗一郎が、日本へ帰国しても日本の学校で困らないようにマグルの授業もする、と言っていた。息子のことだ、日本の学校の勉強以上に、勝手に青春学園入学のための受験勉強もするだろう。
 母である彩菜は確信していた。

「それにお義父さんが厳しく躾けてくださったおかげで、国光ったらある程度の護身術もありますから」

 「何かあれば、私直伝のシャドーボクシングだって」と、最近習いはじめたジムでのシャドーボクシングを披露する彩菜に、国晴と国一の二人は揃って、だらしない顔つきになった。
 「彩菜さん、本当に可愛いなあ……」「うちの嫁はほんに可愛い……」。料理の腕前がプロ級ということもあって、すでに手塚家は彩菜に胃袋を掴まれているが、この可憐さと愛らしさにも骨抜きなのである。
 
「学費面についてご心配されるのも無理はありません。なんせホグワーツはパブリック・スクールですからな」

 そっと会話に割り込んだ宗一郎に、国晴と国一が揃って首を傾げる。
 その様子を見た千代が、「パブリック・スクールとは、イギリスの私立学校の中でもエリート学校のことで、学費が高く、入学審査も厳しい学校のことですわ」と補足した。
 「やっぱり高いのか……しかも寮生活なら更にかかるよなあ……」ぼやきながら、国晴は自身の給与を頭の中で計算した。

「しかしそのご心配は無用ですぞ」
「それは、どういう……?」
「魔法省日本支部────ああ、魔法界にはマグルでいうところの官庁があるんですよ。その日本支部が、補助金を用意しておりましてな。日本の教育制度とイギリスの教育制度が違うことで生ずる格差是正措置、というわけです」

 「もともと、日本人の留学生受け入れは、今回が初の試みですからな。ホグワーツとしても、渡航させてまで入学させるわけですから、ある程度の金銭面で優遇するつもりのようでしたし……」言いつつ、宗一郎は苦笑して続ける。「なにより、いまの魔法省の重役が日本を代表する二大財閥で占めておりますからな。資金源として困るはずもない」ときっぱり。

「ええと、もしかして……」
「いま想像なされている財閥二家で間違いありませんぞ」
「あの財閥も魔法族なんですか……」

 もう何から驚いていいのかわからない、といった様子の国晴である。

「補助金制度に加えて、奨学金制度も用意しているようです。……国光君、こちらはどうするかね?」

 静かに問われ、手塚は逡巡した。日本の奨学金制度というと、卒業してから返済する義務があるはずだ。経済的理由から就学困難な学生に対し、その学生の能力に見合った額を支給される、というもの。
 「東京のジュニアテニスで有名な君なら、日本支部でもかなり優遇してもらえるはずだよ」と後押しされる。
 しばらく考えて、手塚は答えた。

「……プロになって、必ず返済します。ですから、宗のお祖父さん。申請をしたいと思います」
「うん、わかったよ。皆さんも、僕の方から申請をしますが……よろしいですかな?」
「お願い致します」
「お手数をお掛けいたしますが、宜しくお願いします」
「宗さん、わしからも……どうか宜しくお願い致します」

 家族全員が頭を下げる光景に、すぐさま手塚自身も大人にならって頭を下げる。
 すると、ハハっと宗一郎は笑った。このくらい、どうということでもないと一言添えて。
 「日本支部からすれば、将来優秀な人材であれば、投資は惜しまないという姿勢ですからな」
 今は特に人手不足で、日本支部の目下の悩みだ、との言葉に、どう反応を返すべきかわからなかったが、とりあえず頷いておいた。
 そうして、手塚は宗一郎へ向かい合っていた身体を、家族全員へと向け、丁寧にお辞儀をした。

「お祖父さん、父さん、母さん。これからも俺はテニスを続けたいと思っています。そのためには、この力をなんとしてでもコントロールしなければなりません。ですからどうか、入学させてください」

 畳に額が掠れるくらい、深く深く頭を下げる。
 そんな息子の姿を見ていた国晴は、海外の学校だとか学費がどうとか、そんなことはもうどうでもよくなってしまった。昔から、利発で才能に溢れ、学校の成績表が輝いていた国光。平々凡々で、本当に俺の子だろうか? だなんて首を傾げては、俺じゃなくてお父さんに似たのだなあと国一と見比べ、父親として情けないと、よく肩を落としたものだ。喜怒哀楽も乏しく、そんな息子に対してどう接するべきか悩めば「あら、国光はよく笑っているわよ」と妻が不思議そうにする。ますます、父親として息子のことを理解できていないと落ちこんだくらいだ。
 そんな息子の国光が、国晴に分かるほどに肩を強張らせ、懇願した。父として、こんな息子の姿を見たことが無かった国晴は、驚いた。こんなに感情を露わにした息子の姿は、つい2年ほど前に葬儀場で祖母の出棺を見送って、号泣していた時以来である。

 どうしても、テニスをしたい。強い思いを秘めた瞳。しかし、子供という立場から許しを得ることができるのだろうか、という不安も垣間見える。
 「クラスみんなのお手本のような存在」、「とても真面目で模範生です」などという美辞麗句が並ぶ成績表は、頭の片隅へと追いやられた。
 ――――まだまだ、国光も子供なんだ。
 そんなことを、初めて国晴は思ったのだ。

「国光」
「はい」

 ぴしり、と背筋を正す。
 どこまでも堅いな、本当にお父さんに似ているな、とやっぱり苦笑する。

「2年間、ちゃんと頑張るんだぞ」
「! はい!」

 いつものような温和な父のその笑みに、手塚は安堵する。
 しかし、隣の厳めしい祖父の姿を視界にとらえた瞬間、再び背筋は伸びた。

「……国光よ」
「はい、お祖父さん」
「お前の決めた道だ。必ずや成し遂げ、帰ってきなさい」
「はい」

 うむ、と重々しく頷いた祖父に、父に続いて祖父の了承を得られたのだと実感する。母である彩菜は、にこにこと笑って「私はもちろん反対なんてしないわ」と言ってくれたので、家族全員からお許しをもらえた、と胸が震えた。
 これでホグワーツへ入学できる。入学したら、必ずや魔法の扱いについて習得し、魔法に頼らないテニスが出来る。
 そう確信し、内から沸き起こる興奮を、そっと押さえ込む。

「みっちゃん」

 いつの間にか、隣へとやって来た紫乃が、にこっと笑う。「みっちゃんも一緒で嬉しい」その言葉に、そう言えばと気づき、頷く。この幼馴染は、魔法族であり陰陽師の子供なのだ。
 「そうだな」静かに答える。「紫乃が居るのなら、心強い」小さく微笑むと、いつもの気弱な姿からは程遠い、凛とした表情で紫乃は言った。

「みっちゃんは、私が守るよ」

 ────紫乃は、俺が守る
 いつも手塚が紫乃に言う科白。泣き虫な紫乃の手を繋いで、囁いてきた。
 いつだって、一緒。
 これから全く異なる世界、異なる価値観、異なる環境へ飛び込むけれど、変わらない存在が目の前にある。

「……俺の科白じゃないのか?」
「いつも、助けてくれてるから。だからね、私もがんばるの」
「そうか」
「うん」

 「みっちゃん、大好き」そう言って、あまりにも嬉しそうにするものだから、何と言えばいいのか分からずに苦笑する。嬉しくないわけではないけれど、どう反応すればいいのか悩むところだった。
 「知っている」とだけ言えば、「知ってるってこと、知ってるもん」と、にこにこされた。

「ホグワーツでも、よろしく頼む」
「うんっ」
「油断せずに、いこう」
「うん!」

 見つめ合って、手を取り合う。
 これからもよろしく、そしてずっと一緒に居ようと願いを込めて。

 そんな子供二人を、大人たちが笑顔で見守っていたのだった。


手塚家と藤宮家のお話。小学生の子供を海外に留学させるとなると、親ならこういうことに心配するかなと。