始まるための物語
 藤宮紫乃という少女は、手塚家の向かいの家の子供だ。60代後半の祖父母と一緒に住んでおり、両親は交通事故で他界した、と手塚は聞いている。
 物心つくかつかないか、といった頃からの付き合いであり、幼馴染であり兄妹のような関係でもある二人。間違いなく互いが互いにとって最も大切だと断言できる間柄だ。
 家族同士も交流が深く、特に手塚家は紫乃を、まるで我が子のように可愛がっている。手塚が一人息子であることもあって、「女の子も欲しかったのよ」と手塚の母・彩菜は言う。手塚の祖父・国一にいたっては、目に入れても痛くない程の猫可愛がりぶりであった。

 そんなお向かいさんが、魔法族であったというカミングアウトは、少なからず手塚家を驚かせたわけである。

「そうか。国光君にも魔法力が発現したのだね」

 年の頃は60代後半であるにもかかわらず、見た目は壮年を少し過ぎたような、年の割に若々しい紫乃の祖父が、穏やかに笑った。白髪まじりの髪は、頭髪の後退もなく、50代にすら見える風貌だ。深緑の和服姿の彼の名は、藤宮宗一郎。口許の髭をそっと撫で、鷹揚に何度も頷く。
 一方、紫乃の祖母・千代は、落ちついた縹色の和服に、長い髪をお団子にして一つにまとめており、彼女もまた、とても60代には見えない若々しさだった。彼女は、「国光ちゃんがねぇ……」と驚いているようでもある。
 そうか、そうか、と酷く愉快そうな紫乃の祖父の声音は、どこか懐かしい誰かを思い出すかのようでもあった。
「すっかり忘れていたよ。入学許可証はこの時期だったね」
「二人とも、もう10歳になるんですものねえ」
「そうだよ。僕たちが老けるのも、無理はないよ」

 感慨深そうに言った千代に、彼は苦笑してみせた。
 手塚の向かいで微笑み合っている二人の間には、紫乃がちょこんとお行儀よく正座している。

 そんな穏やかな空気の向かいとは反対に、机を挟んだ手塚家一同は衝撃のあまりにぽかんとした表情である。2週間ほど前から続いていた手紙攻撃という怪異は、嫌がらせでもなんでもなく、まさか魔法学校の入学許可証だとは。

「被害届は取り下げた方がいいんでしょうかね……」
「うぬぅ……すでに警察庁のOBに話してしもうたしのう……」
「マスコミ沙汰になるかと思って、お洋服も買っちゃいましたものね」

 警察への手続について頭を悩ませる手塚の父・国晴に、国一は唸り、彩菜はうふふ、と微笑んだ。
 彩菜だけは、今回の怪異について「ちょっと不思議な出来事」くらいにしか思っておらず、フクロウの来襲についても、フクロウたちにパンくずを与えていたくらいに、肝が据わっている。
 「ご近所さんとのトラブルになる前に、解決してよかったですねえ。ほら、フクロウのフンとか……」と、にこにこしている彩菜に、夫の国晴は、「ええっ!? いやっ、それどころの問題じゃなかったと思うよ!?」と、仰天していた。

「それにしても、国光にまさか魔法の力がある、なんて……」

 とてもじゃないが、信じられない、と言いたげに、何とも言えない複雑な表情になる国晴。父親の渋い表情に、手塚ですら何も言えない。なんせ、未だに半信半疑なのは手塚本人である。
 だが、紫乃が言うのだから間違いない────そんな絶対の信頼があるから、いまこうして座っていられるのである。これが他人の言であれば、はなから相手にしていなかった。

「信じられんのも無理はないさ。しかし、国光君自身、おそらく思い当たる節はあったはず」
「と、いうと?」

 手塚家を代表し、国晴がおそるおそる質問する。

「国光君の周りで不思議な事が起こったり、あるいは不思議な体験をしたり……そういった出来事があったはずです」
「……そういえば」
「心当たりがあるのかい?」

 ハッとした様子で口を開いた息子に、手塚家一同が驚いた。

「そんなに力を入れていないにもかかわらず、サーブを打ったボールが金網を突き破ったり、ボール自体が破裂したり……パワーコントロールが上手く出来ないからだと思っていたのですが」

 違うんですか? と、視線で問えば、ゆったりと宗一郎は頷いた。
 「それこそ、国光君の制御できていない魔法力が暴走した結果だよ」髭を撫でていた手は、紫乃の頭を撫でていた。

「この子もね、怖い夢を見て大泣きすると、箪笥やら机やらが宙を舞うことがありましてね」
「まあ、うちはそういう家系ですから、さほど驚きはありませんでしたけれど、手塚さん家はマグルでしょうから、さぞや驚かれたことでしょう」
「ええと、すみません、マグルって……」
「ええい、国晴! 人様の話を遮るとはなんたることか!」
「いやでも、お父さん! わからないことは全部聞いておかないと……」

 弱弱しく反論する国晴に、「その弱腰では敵に背後を取られるだろうが!」と国一が一喝する。
 旧ソ連に日本兵士として第一線を戦いぬき、戦後のシベリア抑留という過酷な仕打ちをも乗り越え、帰国したこの祖父の考えることは、必ず「敵と如何に戦い、勝つか」である。警察官で柔道教官をしていることも大きな理由かもしれない。
 長くなりそうな説教に、やんわりと割って入ったのは宗一郎だった。国晴は歓喜した。

「わからないことはすべてお聞き下され。マグルとは魔法族はない、非魔法族のことです」
「けれど、諸外国と違って日本は少し特殊ですのよ」
「特殊、ですか」
「昔から日本には陰陽師や巫女といった神職の人間がおりましたでしょう。いまも普通に生活しています。天皇陛下に至っては、そのやんごとなきお血筋を遡れば、神様と日本神話に明記されております」

 出されたお茶を飲み、ふうと一息吐いて。宗一郎はゆっくりと語りだした。

「そういった具合に、実は魔法族としての力を持っていた者が大勢おったはずなんですよ。しかし、彼らはそれをうまい具合に活用し、時には隠し、長いことこの世を渡って生き抜いた。陰陽師などは、きちんとした官職として政治にも関わってきましたからな」

 「ちなみに、我ら藤宮家は、陰陽師の家系でしてね」のほほんと言った宗一郎に、二度目の衝撃を受けたのは他ならぬ手塚家である。数年前に定年退職して、この地へ越して来たと聞いていたので、手塚以上に衝撃が大きいのは国一だった。
 「隠していたつもりはありませんでしたが、少々込み入った事情がありましてなあ」と嘘を詫びた宗一郎に、「いやいやお気になさらず……!」と、国一本人が庇うように慌てて言った。他人の家の事情について、深く追究しないのは日本人の礼儀の鉄則である。

「中には、天草四郎のように尊い命を散らす者もおりましたが、大半は上手いことマグルと関わってきたわけです。昨今であれば、心霊番組などで活躍する霊能者も、一部は魔法族の人間がおりましてね」
「はあ……」

 歴史の授業を受けている心地であるのは、手塚だけではなかった。
 ぼんやりと言った国晴に、隣の国一がキッと睨みつけていた。

「日本の魔法族は、こうした具合にマグルと生活しておったもんですから、いまとなっては誰が魔法族で誰がマグルかなど、気にする者はおりません。マグルの中にも先祖を辿れば魔法族かもしれませんし、逆の場合もまた然り」
「海外では、マグルと魔法族の区別が明確だと聞いておりますわ」

 合いの手を入れるように、千代がそっと発言した。
 頷き、宗一郎は出された茶を飲み干す。

「つまり、まあ、国光君がマグルであるのに魔法の力があった、といっても、もしかすると手塚家のご先祖を辿れば、魔法族の人間がいたかもしれない、ということですよ」
「宗さん、わしの母方の実家が、甲賀だったそうなんじゃが……」

 まさか、という一抹の可能性から、国一が問うた。

「ああ〜、でしたら可能性の一つとしてありえますな」
「えっ、どういうことですか、お父さん」

 やはり控え目に質問する国晴に、今度は国一も怒鳴らなかった。
 重々しく頷いた後、「甲賀とは、滋賀の一地域のことよ。しかし、かつての忍の里もあった。甲賀忍者ならお前も知っているだろう」と答えた。
 つまり、国一の母親の先祖に、もしかすると甲賀忍がおり、その甲賀忍が魔法族だったかもしれない────ということである。

「あくまでも可能性ですがな。もちろん、完全にマグルであっても突然に発現するケースもありますから、気にすることもありませんよ」

 ほけほけと笑って話し終えた宗一郎であるが、やはり手塚家、中でも国晴には衝撃が大きすぎて、未だに受け止め来ていないでいる。
 とはいっても、息子本人の口から不思議な体験を語られた上、この2週間の怪異を考えると、国光は魔法の力を持っているのだ、と納得する他はあるまい。

「ええと、何度もすみません。国光は今後、どうすれば……?」
「とりあえず、ホグワーツ魔法魔術学校に入学した方が手っ取り早いでしょうな。許可証が来ているなら、そこにサインをして……ああ、ちょうどいい。そこで待っているフクロウに渡せば、届けてくれるでしょう」
「ほ、ほぐわーつ……?」
「イギリス北部にある全寮制の学校です。そこでは17歳までに完全に魔法力をコントロールできるようなカリキュラムが組まれておりますし、何より世界で最も安全な学校と言われおります」

 「世界で最も安全」とは、一体どういうことか国晴は疑問だったが、入学する当の本人はそれどころではなかった。

「待って下さい、宗のお祖父さん」
「どうかしたかね、国光君」
「つまり、今から入学して17歳までずっといなければならない、ということでしょうか?」
「さよう」
「その学校に、テニス部は……」
「魔法族はマグルのスポーツを知らないからね……箒を用いてのスポーツならあると聞いたことがあるが、間違いなくテニスはしない」

 はっきりと断言した宗一郎に、手塚は絶望した。テニスというスポーツすら存在しないだなんて!
 将来、テニスのプロ選手になるという目標を持つ手塚としては、テニスができない生活など考えられなかった。できればこのままテニスの名門と言われている青春学園に入学し、そこのテニス部に入部するつもりなのだ。
 7年間もテニスのない生活をすれば、大事な成長期においては、無駄な時間の浪費としか言いようがない。
 ────しかし、そこに入学しなければ、魔法力をコントロールすることはできない。
 究極の運命の選択を強いられ、呆然とした────が。

「だが、朗報だ、国光君」
「え……」
「魔法省日本支部から、一人の魔法族が日本人留学生の監督者としてホグワーツに派遣されることが決定している。その人物は、元プロテニスプレイヤーだった人物で、とある日本の学校でマグルとして教師をしておる」

 魔法省? 日本人留学生? 次から次へともたらされる事実に、いかに聡明な手塚といえども、情報処理が追いつかない。
 理解できていない様子の手塚に気づき、宗一郎は「すまない、分かりやすく説明するよ」と前置きして、続ける。

「君以外にも、紫乃ちゃんとその他数名の日本人の子供が、ホグワーツに入学することになっていてね。しかし、日本人生徒の大半が、テニスができないならば入学を拒否すると入学許可証に書いて送り返したんだよ。今まで入学拒否されたことがなかったホグワーツ側にとっては、前代未聞の大事件ときた」

 くっく、と笑う宗一郎。
 「あのタヌキ爺もさぞ驚いたことだろうさ」と、タヌキ爺が誰かはわからないが、手塚は自分以外にもテニスに関わっていて、しかも同じ日本人の子供が入学することに驚いた。紫乃だけだと思っていたからだ。

「しかも7年間などとんでもない、と条件を付けた生徒側の訴えを汲み、ホグワーツ側は、日本人学生を「留学生」という形で2年間の入学に変更した。さらに、テニス部の創部も決定している」
「!」
「テニスに詳しい監督者が、テニス部顧問にもなる。その上、2年後、日本へ帰国しても、日本の学校に困らないようにマグルの勉強も教えてもらえるそうだ」

 輝きを取り戻した瞳を見た宗一郎は、相好を崩す。
 ずっと正座をしていた手塚だったが、与えられた情報にいてもたってもいられずに、立ち上がる。そして。

「俺は、たとえホグワーツでも、テニスが出来るのですか……!」

 震える声の手塚に、宗一郎は微笑んだ。「ああ、出来るとも」
 眩しい何かを見つめる彼は、次いでそっとだけ寂しそうにも笑った。「君を見ていると、切なくなるよ。僕の知る男にとてもよく似ているからね」よくわからない言葉だったが、打ち消すように「忘れなさい」と笑って、宗一郎は唇を緩めた。

「聞いたところ、入学予定の日本人留学生たちは、どの子もテニス選手として将来有望な子たちだそうだよ」

 テニスが強い子供たちがいる。それは手塚にとって何よりも魅力的な誘い文句だった。
 魔法の力をコントロールして、魔法に頼らずにテニスをしたいという思いを、さらに後押ししたのはもちろん、手塚のホグワーツ行きを決意させるほどの魅力を持っていた。
 入学したい。
 その思いを両親に告げようと振り返った時。
 ────ぐー。
 なんとも間抜けな音が聞こえた。

「ご、ごめんなさい……っ」
「ああ、もう8時じゃないか」

 恥ずかしそうに俯いた紫乃の耳は、これ以上ないくらいに真っ赤だ。再度、ぐうと鳴ったのは、どうやら腹の虫のようである。逃げ出したいほどの羞恥心に駆られる紫乃の頭をぽんぽんと撫で、「いつもの6時の夕飯を大幅に遅刻しているね」と宗一郎はハハっと笑った。
始まるための物語(1)(2)