変身術と魔法の呪文
昼食というよりは、お菓子の盛り合わせ、といったほうが良いようなメニューの昼食の後。
変身術の教室は、横長に大きめの机を二人ずつ共同で使う仕様になっている。
今回の授業はハッフルパフとレイブンクローとの合同授業で、早めに来た弦一郎と紅梅は一番前の席に座り、次に来た蓮二と貞治がその隣、また彼らと同時に来た国光がその後ろ。そして、最後にやってきた清純が国光の隣に座った。
朝練での“杖を変身させる”という課題でまさかの最下位になってしまった国光は、この変身術の授業にたいへん緊張しており、眉間の皺も五割増しになっている。
しかし、他寮であるにもかかわらず、あっけらかんとした調子で隣に座り、「マグル同士、よろしくねー」と明るく言った清純に、多少は気が楽になったようだった。
清純が一緒に教室に来た女の子のグループの誰かではなく、わざわざ他寮の国光の隣りに座ったのは、彼がひどく緊張して不安がっているのを察知したからだろう。
なんだかんだ言って、こういうところで一番気が効いて、なおかつ分け隔てなく親切なのは、間違いなく清純である。
グリフィンドールだが、とか、スリザリンだが、と言われつつもハッフルパフに来た自分たちと違い、根っこからハッフルパフの素質にあふれた清純に、弦一郎と紅梅は顔を見合わせ、こっそり微笑んだ。
「変身術は、ホグワーツで学ぶ魔法の中で、最も複雑で危険なものの一つです。いい加減な態度で私の授業を受ける生徒は出て行ってもらいますし、二度とクラスに入れません。はじめから警告しておきます」
きっちり時間通りに教室に現れたマクゴナガルは、厳格極まりない態度でまずそう言った。
弦一郎と紅梅は「あの厳しそうなマクゴナガル教諭の授業なのだから、より気を引き締めていかねば」と思ってこの『変身術』の初授業に挑んだわけだが、その心構えはまったく正しく、直前、図書室で更に予習を重ねたのも間違った行動ではなかった、と二人は確信する。
そしてマクゴナガルはなんと机を生きた豚に変え、また元の姿に戻してみせたので、二人は心底驚いた。──といっても、こればかりは、感動しているのは二人だけではなかったが。
二コマの授業のうち、前半は丸々講義だった。
『魔法史』の授業とは全く違う、マクゴナガルの話を隅から隅まで聞いて、なおかつ一を聞いたら少なくとも二か三くらいは理解しないと追いつけないような授業で、皆必死にノートを取った。
そして、理解すればするほど、それが、マクゴナガルが意地悪いからではなく、単にそうせねば使いこなせない魔法なのだと知ることが出来る。
そして、さんざん複雑なノートを取った後、後半で実技に入った。
課題は「マッチ棒を針に変える」というもので、ひとりひとりにマッチ棒が配られる。これは魔法界独自のものではなく、ごく普通のマッチ棒のようだ。
魔法界は、マグルとは全く違う異文化を築いている異世界のようでいて、こうしてマグルと同じ道具が時々出てきたりする。──火をつける魔法が使えるのに、マッチも一般的に使うのだろうか。基準がよくわからない。
「呪文は、“mutatio figura”です」
マクゴナガルが流暢に言って杖を振ると、彼女のもう片方の手に摘まれたマッチ棒が、みごとに、銀色の縫い針になった。
そしてその針を今度はチョークに変え、黒板に、呪文の綴りを書きつける。皆、素早くノートに書き写した。
「みゅ?」
「みゅーたしお、ふぃぐら……か?」
「聞き慣れん響きやねえ」
少なくとも、英語ではない。
二人は教科書を全て一度は読んでいるが、それでわかったのは、魔法の呪文は英単語そのままのようなものもあれば、いわゆる『かばん語』のようなものもあり、そして今回の呪文のように、まるきり聞いたことのない、それこそ魔法の呪文そのものでしか無いタイプのものがある、ということだった。
弦一郎が試してひどい目にあった、トランクに荷物を詰め込む魔法である“pack”は、そのまま英語で「詰め込む」とか「梱包する」という意味なのでわかりやすかったが、今回の呪文は、さっぱり耳慣れない響きだ。
──しかし、やるしかない。
「みゅーたしお、ふぃぐら」
「みゅーたしお、ふぃぐら!」
それぞれ、机の上に置いたマッチ棒に向かって、片や扇子、片や十手を振り下ろす。
「……あら? ……あらぁ」
「む……」
しかし、マッチ棒はなにひとつ変化しなかった。
そのかわり、弦一郎の十手の先が物騒にも鋭い針状になり、紅梅の扇子が、大ぐけの縫い針になっている。
「ちゃうちゃう、あんたとちゃうえ」
紅梅がまるで人に言うように言うと、和裁用の長い縫い針は、しゅるんと元の扇子に戻った。弦一郎の十手も、そうではない、と念じると、元の丸い先に戻る。
「……難しいな」
「そやねえ。なんや、うまいこと伝(・)わ(・)ら(・)ん(・)わ」
杖を変身させるのは朝散々やったが、そうでないものを変えるのがここまで難しいとは、と、二人は首をひねりあう。
「ふむ。──“mutatio figura”」
「わ! 柳君、すごい! 成功したじゃん!」
清純が声を上げたので、全員がそちらを見た。
蓮二が振り下ろした黒骨の扇子の先、机の上のマッチ棒は、みごとに銀色の針に変わっていた。
「──素晴らしい! この輝き、尖り具合。非常にまっすぐで硬い。良い針です」
蓮二が変えた針を手に取ったマクゴナガルは、その針を眺めたり、定規に当てたり、力を入れてみたりしてから、蓮二ににっこりと微笑みを向けた。
「ミスター・ヤナギ。すばらしい出来です。レイブンクローに5点」
「ありがとうございます」
レイブンクローの生徒たちから、拍手が上がった。
「では、ミスター・ヤナギは、同じ呪文で、元のマッチ棒に戻すのをやってご覧なさい。他の人は、引き続き針に変えるように」
「さすが、蓮ちゃんやなあ」
また自分の扇を針にしてしまった紅梅は、感心して言った。ちなみに弦一郎は、また十手の先が尖っている。今度はより殺傷力がありそうで、まるで『必殺仕事人』の武器のようになっているが、──そうではない。
「お梅も、杖が針にはなるのだろう?」
すぐさま針をマッチ棒に戻してしまった蓮二が、隣の座席に顔を向けた。私語厳禁の『変身術』の授業だが、蓮二はすっかり課題をこなしてしまったし、話の内容も授業に関係するものなので、マクゴナガルは特に何も言わなかった。
「へぇ」
「いいか、マクゴナガル教諭が前半の講義で言った通り、変身術の要は、イメージと、魔力の正しい伝達、そしてなるべく発音のいい呪文だ。お梅の場合、イメージはよくできているが、魔力が杖から先に出て行かないからそうなる」
「魔力を、杖から、出す?」
「そうだ」
蓮二は、頷いた。
「イメージは得意だろう? 自分が、魔力の源。その魔力に“針に変われ”というイメージを乗せて、腕を通り、杖を通って、その先から魔力が出ていって、マッチに当てる。そんなイメージでやってみろ」
紅梅だけでなく、ほとんど全員が、蓮二の話に耳を傾けていた。
すると、なんと、後ろのほうから何人か、「きゃあ! できたわ!」「やった! できた!」と声がする。マクゴナガルが近づいて確かめると、蓮二のものほどではないにしろ、きちんと針の様相になっているらしく、「よろしい」と非常に満足そうに頷いていた。
「ミスター・ヤナギ、とても的確なアドバイスですね。──そう、彼の言うとおりです。魔力は基本的に目に見えませんが、我々の身体の中にあり、それを対象に当てることで、魔法は成ります。杖が棒の形をしているのは、魔力を対象に当てやすくするためという説もありますからね」
朝練の時の話と少し関わることを言い、マクゴナガルは、紅梅の方をちらっと見た。
「でたらめに杖を振らず、振った先にきちんとマッチ棒があるように振ること。つまり、魔力の射出先の方向を定めること。また、イメージをしっかり固めてから振ること。そして、呪文を間違えず、しっかり発音すること。このみっつがポイントです」
あとは対象に当てる魔力の量というのもありますが、ホグワーツは大きすぎる魔力の発動には制御がかかっていますので、安心して全力でおやりなさい、とマクゴナガルは続けた。
全員が真剣に聞いているが、特に弦一郎、そして国光は、もはや鬼気迫る勢いでマクゴナガルの話を聞いている。
「ふぅ、できた」
その時、ずっとシャープペンシルでキャンパスノートにがりがりと何か書いていた貞治が、そう言って顔を上げた。
後ろの席からノートを覗きこんだ清純が、首をひねる。ノートにびっしり書き込まれていたのは、何やらアルファベットの羅列やら、何かの計算式やら。
「乾君、さっきから何書いてたのさ。うん、見てもわかんないけど」
「マッチ棒の成分を、針の成分に変換する際の計算式だよ」
貞治は、逆光する黒縁眼鏡を、くいっと指先でずり上げた。
「俺はイメージが苦手だが、そういう切り口での理解は出来る。その上で完璧な魔力伝達と、完璧な呪文の発音を行えば、成功する確率は100パーセント……!」
ふっふっふっ、と怪しい笑いを浮かべ、貞治は杖を振りかぶる。
「──“mutatio figura”!!」
自信満々だけあって、本当に完璧な発音だった。振り下ろした杖の先も、ぴたりとマッチ棒に向けられている。──だが。
「……貞治」
「あ、あれ?」
貞治の机に乗っているのは、銀色に輝く──マッチ棒だった。
「成分の理解は完璧でも、形状の理解が全くできていないようだな、博士」
「くっ……なるほど! それならば……!」
そう言って、貞治は再びノートにがりがりと何かを書き付け始めた。「マッチ棒の長さが50mm、針の長さが……先端のカーブの角度が……」と呟いているので、その形状ですら数値で理解しようとしているようだ。完全なる理系脳である。
「イメージ、魔力の方向、呪文の発音……。イメージは、多分出来とぅ……?」
紅梅はぶつぶつ言いながら頭を捻り、目を閉じて、むー、と唸った。
そして何か思いついたのか、ふとマッチ棒を手に取ると、ぱらりと開いた扇の上に、そっと乗せた。
「──“みゅーたしお、ふぃぐら”」
すると、マッチ棒がぶるっと震えるようにして、姿を変える。
「それは、……爪楊枝か?」
弦一郎が、首を傾げて言う。
紅梅の扇の上に乗っているのは、片側が鋭く先細った、小さな木の棒だった。
確かに爪楊枝に見える──が、持ち手のところに滑り止めの凹凸がなく、そのかわり、縫い針と同じように穴が空いている。そしてその穴を開けるためか、爪楊枝よりもだいぶ太い。
「爪楊枝というよりは、黒文字。いや、木で出来た縫い針、という感じだな」
蓮二が言う。そのとおりであった。
むう、と、紅梅が唸って首をひねる。
「魔力が上手いこと当たっとおへんのやったら、杖とくっつけたらええんちゃうか、て思たんやけど……」
「その発想はなかなか良いと思うぞ。実際、形はずいぶん近づいた。……となれば、問題は呪文か」
「“みゅーたしお、ふぃぐら”」
「“mutatio figura”」
紅梅が丁寧に言うが、蓮二の発音とは、やはりどこか違う。しかしどこが違うのかわからず、弦一郎と紅梅、そしてまだ成功させていない面々は、舌が攣りそうになりながらも、何度も呪文の発音を練習した。
そして紅梅は何度か同じように試したが、針はまち針の形になったり、ちょっと細くなったりもしたが、やはり木のままだ。
「お梅は京訛りが強いからな。こればかりは練習しかあるまい」
「うー……」
紅梅は、日本ではむしろ標準語や若者言葉は一切使わないよう、そして古い京ことばの中でも更に古語に近い花街ことばを徹底して仕込まれている。英語もその抑揚のまま話していて支障なかったし、むしろ割と評判が良かったため、全く矯正を試みたことがなかった。
しかしそれが思わぬところで弊害を生んだことに、紅梅は眉を寄せ、小さな唇を尖らせる。
「……これ、日本語やったらあかんのやろか?」
「なに?」
ぽそり、と言った紅梅に、計算に熱中している貞治以外の日本人組が注目する。
そして紅梅は再度開いた扇に爪楊枝もどきを乗せ、一度深呼吸すると、意識を集中させて、言った。
「──“こないなっとおくれやす”」
完全に日本語。しかも、いまどきはもう、花柳界の奥深くでしか使われないような、古い京ことばでのそれである。
鋭い促音や濁音のない、するりとなめらかに流れるような音は、日本人組が辛うじて聞き取れたのみで、そうでない者には、音の一つ一つの区切りさえわからない。
そして、紅梅の扇の上には、銀色に輝く、大ぐけの長針があった。