【if/許嫁ルート】
collaboration:R.INDICUM『かっこいいもの、寄っといで!』
皇帝の許嫁2
合宿、そして最後の試験も終わり、あと大きな節目といえば卒業式のみ、という時期。
最後の臨時マネージャーの仕事として、莉子は、立海大附属中学、男子テニス部の部室にいた。
ちなみに、今ここにいるのは彼女に手伝いを頼んだ蓮二と、親切にも更に手伝いを名乗り出たジャッカルの三人だ。まず莉子が日付や内容ごとに記録を選り分け、要不要を蓮二が取捨選択し、不要と判断されたものをジャッカルがホッチキスの針を抜いてばらしたり、シュレッダーにかけたりする、という作業手順である。
「……前から思ってたんだけど」
黙々と作業をしていた莉子が、ふと、しみじみした様子で言った。
「真田君って、字、すごいねえ」
莉子が見ているのは、弦一郎が担当した日の合宿の日誌である。ボールペンで書かれているが、難しい漢字も完璧に表記され、修正液は一度も使われていない。そして何より、素人目で見ても上手い字であった。
「字がきれいな人はそれなりいるけど、真田君のは、きれいっていうか……、お見事! って感じ」
「ああ、書道やってっからな、真田は」
同じく感心した様子で、ジャッカルが頷いた。
いまだに漢字はあまり得意ではないのだというジャッカルは、弦一郎や蓮二に時折読み方や表記を習うこともあるのだ、と話す。
「柳とか柳生も字はキレーだけど、真田はもっとこう、プロっぽい感じするよな」
「わかる。字も全然中学生とは思えない!」
「……それは、褒めてんだよな?」
生ぬるい顔で、ジャッカルが一応尋ねる。
「もちろん! あ、そういえば、前になんかのコンクールでなんか賞獲ってたよね!」
「全国学生書写書道コンクールの、中学生の部、文部科学大臣賞」
あやふやなデータを、向かいに座っていた蓮二がきっちり補足する。そうそうそれ、と莉子は頷いた。
「そういえば柳君、真田君に書道習ってるんだっけ?」
「時折な。まあ、最近は習うというより批評して貰うような感じだが」
莉子が整理整頓したデータの取捨選択をしてさらにまとめる、という作業を平行して行いながら、蓮二は穏やかな口調で答えた。
「ふ〜ん、すごいねー。真田君ちって、みんな書道やってるとか?」
「……いや、弦一郎以外で書道を嗜んでいらっしゃる方はいないが……」
莉子の発言に、蓮二はわずかに不思議そうな顔をし、作業の手を止めた。
「なぜそんな発言になる?」
字が上手い、本格的に書道をやっている、イコール家族みんなやっている、と考えるのは、おかしくもないが、自然でもない。そう思った蓮二は、データマンならではの感性で、莉子に疑問をぶつけた。
「へ? あ、いや、真田君が読んでた手紙がさあ」
「手紙?」
「うん、合宿中に。ほら、例の話で、柳君たちの部屋に行った時あったじゃん」
「ああ」
「柳君に氷貰って、頭冷やしてる時、真田君がなんか手紙読んでて。ちらっと見ただけだけどすんごいキレーな字の、縦書きの手紙。あれ真田君のお母さんじゃないの?」
無邪気な様子で、莉子は首を傾げる。
そんな彼女を前に、ふむ、と、蓮二は手元の紙束を置いた。
「……なぜ、弦一郎の母君だと?」
「ん? 手紙に“弦ちゃん”って書いてあったから」
ブフォ、と、ジャッカルが噴出した。しかしそれを気にせず、莉子は続ける。
「お父さんとかお祖父さんなら、男の子をちゃん付け呼びはしないかなーって。男の子が家でお母さんにカワイイ呼び方されてるのって、微笑ましくていいよね! 柳君は、家でそういう呼ばれ方とかするの?」
「ふむ」
げほげほと咳き込むジャッカルを横目に、蓮二は顎に手を当てた。
「……もしやその手紙は、白い封筒で、薄桃色の便箋ではなかったか?」
「封筒は見てないけど、便箋は確かに薄いピンクだったよ。それも女の人っぽいから、お母さんかなって思ったんだけど」
違うの? と首を傾げる莉子に、咳込みが収まったジャッカルはちらりと目線を向けてから、次いで蓮二を見る。
「……なあ、柳、それって」
「まあ、100パーセントそうだな」
「え、なになに、二人だけでわかるやり取りしちゃって」
ぶー、と口を尖らせる莉子に、蓮二が口の端を上げる。
ああこれ面白がるつもりだ、と懸命にもすぐに察したジャッカルは、蓮二から指示されずとも、それ以上何か言うのをやめた。──彼自身、これは黙っていたほうが面白そうだ、と思ったというのも多少あるが。
「まず、その手紙の差出人は、弦一郎の母君ではない」
「そうなの?」
「そうだ。そもそもこの歳になって、母親からの手紙を後生大事に合宿にまで持ち込んでニヤニヤしながら読むなど、気色が悪いだろう」
「ま、まあそれもそうかもしれないけど……。って、何、ニヤニヤって」
「していなかったか?」
「別にしてなかったと思う。どちらかというとリラックスした感じっていうか……油断しきった感じっていうか……」
私がすぐ後ろまで来てたのにも気付かなかったし、と莉子が言うと、そうかそうか、と蓮二は頷いた。
「ちょっと何その反応」
柳君のほうがニヤニヤしてるよ、と怪訝な顔で言う莉子だが、蓮二はその表情を改めることはなかった。
「いや、そういえば小嶋は彼女のことを知らないのだったな、と思ってな」
「かのじょ、ってことは、やっぱ女の人ではあるんだ?」
「そうだな」
「で、お母さんではないと」
「ああ」
「……じゃあ、おねえさん?」
確かお兄さんの奥さん、と思案する莉子だが、蓮二はニヤニヤ笑いを崩さないまま、「違う」と返答した。
「えー! じゃあ誰!?」
「当ててみろ」
「何それ! ……ジャッカル君、知ってるんでしょ! 教えてよ!」
「俺かよ」
いつもの返しをしたジャッカルであるが、彼はちらりと蓮二を見て、一瞬のアイコンタクトを受け取ると、わかった、とでもいうふうに頷いた。
蓮二の何らかの悪巧みにノるつもりのジャッカルに、莉子が「むー!」と頬を膨らます。
「もー! 何なの! 気になるじゃん!」
「はは、いや、でも知ったらびっくりすんじゃねえかな」
「びっくりするような人なの!?」
「おう、俺も初めて知った時は超びっくりしたぜ」
「どういうこと!? もしかして有名な人とか!?」
「うーん、よく知らねえけど、そういう専門の……業界? では有名なんじゃねえの?」
「業界ってなに?」
「なんていうか、伝統的なっていうか……。おう柳、俺からのヒントここまででいいか?」
ジャッカルが尋ねると、蓮二は「まあ、そんなものだろう」と頷いた。
「うぐぐ、全然わかんない、くやしい……。でもだからこそ、その挑戦、受ける!」
「うむ、そのノリの良さ。さすが小嶋」
仁王立ちをして宣言した莉子に、蓮二は小さな拍手とともによくわからない賞賛を贈り、ジャッカルは「がんばれよー」と呑気な声援を送った。
「で! 柳君からのヒントもちょうだい!」
「そうだな……」
メモまで取り出した莉子に、蓮二はわずかに思案するような仕草を見せる。
「先ほど、自宅で母親に可愛らしい呼ばれ方をする云々と言っていたが、俺は特に母や祖母からそういう呼ばれ方はしていない。だが──」
「うん?」
「その手紙の主は、俺のことを“蓮ちゃん”と呼ぶ」
「れんちゃん!?」
莉子が、大きめの目をさらに大きくし、驚きの声を上げた。
「柳君がそんな呼ばれ方してるの、初めて聞いた」
「まあ、彼女しかそう呼ばんがな」
「……なるほど。じゃあ彼女は柳君とも親しい間柄ってことね!」
「ああ、家族ぐるみの付き合いと言ってもいいだろう。時折、お互いに親戚などではないのを忘れるというのをネタにする程度には親しいと思うぞ」
「そうそう。俺らも、初めて見た時はフツーに柳の親戚だと思ったもんな」
「ほほう、柳君に似てると……じゃあ美人さん確定ね!」
興味深そうな顔で、莉子は何やらファンシーな柄の、キャラクターもののメモ帳に彼らからの情報を書き付けていく。
「……って。今更だけど、知らない子のことこんな根掘り葉掘り聞いていいもん?」
「本当に今更だな」
蓮二はやや呆れた様子を見せたが、コミュニケーション能力が高いと同時に他人に対する礼儀にも細やかな気遣いを見せる相変わらずの莉子の様子に、それなりに感心したように頷いた。
「構わないだろう。どうせ、そのうち紹介することになる」
結局、蓮二はそれ以上のヒントを発さなかった。
そのかわり、「テニス部レギュラーは全員面識があるから、皆からヒントを貰って答えを当ててみろ」と指令を寄越したのだった。そして、最後に弦一郎に答えを言ってもらう、という流れである。
「というわけで、ヒントください」
「推理ゲームですか。面白いですね」
「なるほどのう」
メモ帳を構えた莉子を前に、雅治は「どんなヒントにしようかの」と、椅子に逆向きに座って投げ出した脚をぶらぶらさせた。こういう催しが決して嫌いではない彼は、何やら機嫌が良いようだ。
「むう。柳生君はともかく、仁王君は余計混乱させるイジワルなヒント言ってきそう……」
「失礼じゃのう」
「まあまあ。では私から先にヒントを言いましょう」
「お願いします!」
真剣な目でメモ帳を構える莉子に、それでは、と、比呂士もまたきちんと姿勢を整えた。推理小説好きなせいか、彼もどこか楽しそうである。
「彼女と我々が最初に出会ったのは、大阪です。去年の全国大会に応援に来てくださって」
「ふむふむ」
「京都にお住まいの方なのですよ。試合の後、祝勝会ということで京都の料亭に招いて、丁重にもてなして下さいました」
「京都! ということは、京都弁話したりする?」
「もちろん。あちらのイントネーションですと、最後が“う”で終わる名前は発音しづらいようでして、私は“やぎゅはん”と呼ばれます」
「へえ〜、なんかイイね、その呼び方! 古風っていうか、風流っていうか」
「そうでしょう。なかなか気に入っています」
本当に気に入っているようで、比呂士は満足気に数度頷いた。
「最後が“う”……ってことは、仁王君は」
「俺は“におはん”じゃな」
やけにぶかぶかなサイズのセーターの袖を余らせながら、仁王が言った。その仕草に、「なにそれ仁王君カワイイ! カワイすぎて気が散る!」と恒例の脱線をしてから、莉子は次いで仁王に向き直る。
「そうじゃの〜。……あいつは俺には当たりが厳しゅうてのう」
「そうなの?」
「おうよ。扇子で脇腹ドスッと、何回かやられたことあるぜよ」
「まさかの物理的な厳しさ!」
「見た目はホワーっとしとるくせに、中身はさすが真田のアレじゃ」
「アレ?」
「それを言うたらヒントにならんじゃろ」
「むむむ」
それはそうなのだけど、と、莉子は唸りつつメモを取っていく。
「柳君と家族ぐるみの付き合いで、蓮ちゃんて呼んでて、京都の人で伝統的な業界で有名人かも……って、あっなんかここらへん繋がった感じ! で、仁王君に物理的に厳しくて見た目はホワッとしてる……」
メモに取った項目を睨み、莉子は情報を整理した。
だが“彼女”そのものの情報はそれなりにあれど、弦一郎に繋がる何かは見えてこず、首をひねる。
「うーん、わかんない。親戚のおねえさんとか? でもなんかみんな話し口が年上の人に対する感じじゃない気がする……」
軍隊並みに部活が厳しいせいか、そのあたりは礼儀正しい立海である。それを思うと、彼らの話口は明らかに目上に対するものではないだろう、と莉子は当たりをつけた。
「どういう人か、より、真田くんとどういう関係なのかって話だからな〜。よし、次はそういうとこ聞き出せるようにしてみよ」
「あ〜、あのよめさ……ってヤベ」
莉子に呼び止められ、話を聞いたブン太がまずしたのは、その発言を自らの手で口を覆って止めることだった。
「あのよめさ?」
「いや何でもねえ。そーだな、真田と柳と幸村君はともかく、俺らはそこまでよく知らねえしな」
「そうなの?」
「去年の全国で始めて会ったってのは聞いたろ。それからも俺らが関西方面に遠征行ったり、向こうがこっち来る時しか顔合わせる機会ねえしな。しかも三強は絶対会うだろうけど、俺らはわざわざ会う感じでもねえし」
「なるほど、……って、柳君は聞いたけど、幸村君とも仲良いの?」
「仲良いかどうかはともかく、付き合いは長えはずだぜ。幼馴染っつってたし」
「幼馴染!」
初めて関係性と呼べる情報が出現し、莉子は勢い良くメモを取った。
「……ん? これ、答えじゃないの? 京都に住んでる幼馴染、でファイナルアンサーじゃないの?」
自分は、手紙の差出人である謎の“彼女”と真田弦一郎の関係性を探っているのだから、これでも答えになるはずだ、と莉子は首をひねる。
「……あー。まあ、それもそうだけどよ。幸村君に関してはそれでいいと思うけど、真田は違うな」
「幼馴染、じゃないの?」
「そうだけど、それだけじゃねえっていうか」
頬を掻いたブン太は、「これ以上言うと答え言っちまいそうだから、カンベン!」と降参のポーズを取った。
「ああ、確かに梅ちゃんは幼馴染だよ」
「梅ちゃんとな」
精市が誰かをちゃん付けで呼ぶのを初めて耳にした莉子は、もはやメモも取らずにぽかんと口を開けっ放しにした。
「小学校二年生の時に会ってね。まあ初対面が早かったってだけで、今まで実際会ったのは片手で足りるぐらいではあるけど。今となっては蓮二のほうが付き合いは深いしね」
「へー……、でも、幼馴染、なんだよね?」
「まあ、そうだね。“せぇちゃん”って呼ばれてるんだ。まあ初めて会った時がアレだったせいだけど」
「アレって?」
「いや何でもない」
何かを誤魔化すように、精市は笑顔のまま微妙にそっぽを向いた。
その様子に、莉子は、もや、としたものが胸の内にわずかに湧き上がるのを感じた。それが何なのかどころか、そんなものが湧き上がった自覚すら、実際彼女には殆どなかったが。
「……ここまで結構ヒント出てるみたいだけど、わからない? まあわからないよねえ、だって真田だし。真田のくせにまさかって感じだよね」
「ゆ、幸村君?」
「しかも料理が上手くて美人とか、いちいち自慢してきやがって。爆発すればいいのに。真田だけ」
「へー……」
精市がぶつくさ言うのを、莉子は何やら呆然とした様子で聞いている。
「料理が上手くて、美人、……なんだ?」
「ん? うん。……あー、やっぱり料理が上手いっていうのはポイント高いよね」
何やら俯きがちの莉子をちらちら見ながら、精市は言った。その視線に、莉子はまるで気づいてはいないが。
「そ、そうだ。それとは別の話だけど、この間作ってくれたクッキーほんと美味しかっ……」
「あ! 莉子センパーイ!」
もじもじと切り出した精市の台詞を遮ったのは、赤也の元気な声だった。
廊下の曲がり角から顔を出した彼は元気よく走り寄って来たが、近づくことで遮蔽物の影になって見えなかった精市の姿を確認するなり、「げっ、部長」と後ずさった。
「………………やあ、赤也」
「しゃ、しゃーっす、部長……」
何やらどんよりとしている精市に、赤也は首を縮め、まるで蛇に睨まれた蛙のように縮こまっている。
「フ、フフ……」
「ぶ、部長?」
「なんだい赤也。……そうそう、今日やる予定の引き継ぎ作業だけど」
「あ、ハイ」
「楽しみにしときなよ」
「ど、どういう意味っすか……」
やたら恐ろしい笑みを浮かべる精市に、赤也は青くなってガタガタ震えている。
「と、ところでっ! 莉子先輩、何してんスか!」
精市が醸しだす不穏な空気を振り切るように、赤也はわざとらしい笑顔で莉子に向き直った。
「ん? ああ、ちょっとね」
「何スかこのメモ。“蓮ちゃん”、“柳くんと親戚みたいな”、“京都”、“やぎゅはん・におはん”……、って、紅梅先輩のことっすか? これ。莉子先輩、会ったことありましたっけ」
「こうめセンパイ?」
莉子が首を傾げると、赤也は「ッス!」と頷いた。
「真田副部長の、いーなずけ? カノジョさんッス」
「どういうこと──!!」
「うお!? 何だ、どうした!?」
勢い良く部室の扉を開けると同時に大声で叫んだ莉子に、さすがに驚いた弦一郎は肩を跳ねさせ、目を丸くした。
そんな彼のリアクションなど全く無視し、莉子は大股でずんずんと弦一郎に近づいてゆく。来る卒業に対し引き継ぎの打ち合わせをしていたらしい彼は、書き込みをしていた書類を前にしたまま、目を白黒させていた。
そしてそんな彼と莉子を見て、弦一郎に話をしていたらしい蓮二を筆頭に、集まっていた現レギュラー全員がどこかにやにやした顔をしていた。
「何だ、じゃないよ! 真田君、彼女どころか許嫁がいるってホントなの!?」
「あ、ああ、その事か」
「ホントなの!?」
「む、いや、まあ、……本当だが」
「マジで!!」
やや照れくさそうな様子で答えた弦一郎に、莉子は両手で顔を覆い、まさに膝から崩れ落ちた、といった様子でしゃがみこんだ。
「お、おい。何をそんなにショックを受けとるんだ」
彼女に続いて部室に入ってきた、何やら不穏なオーラを纏った精市と彼女を怪訝な顔で見比べながら、弦一郎は困惑して問うた。
「だって水臭いじゃん! 真田君とは友だちだと思ってたのに!」
「そ、そうか」
「友だちなのに、そんなおもしろ……たのし……大事な事教えてくれなかったなんて!」
「おい今妙なことを言いかけなかったか」
「私だけ知らなかったとかー! ひどいー!」
何やら気になる発言も聞き取れたものの、わー! と、泣き声にも聞こえるような声を上げてうずくまり、地面をバンバン叩く莉子を持て余し、弦一郎はおろおろとした挙句に「す、すまん」ととりあえず謝罪の言葉を口にした。
「うう……ひどい……私も真田君の恋バナ聞きたいのに……」
「そ、そう言われてもだな。そんなに面白いものでは」
「いや、お前ほど聞き応えのある恋愛をしている者もそういないぞ、弦一郎」
そう言ったのは、無論、蓮二である。しかも、他の面々も同意を示し、うんうんと頷いている。
「まあ、確かにねえ。真田の話だと思うと壮大な惚気けすぎてムカつくけど、小説とかだったらと思うとなかなか出来た話だと思うよ」
「──幸村!」
やれやれ、といった様子で莉子を立ち上がらせ、そっと椅子に座らせた精市は、もちろん弦一郎の怒鳴り声を無視した。
「そんなにドラマチックなの!? 聞きたい! 聞きたーい!」
「そうかそうか、なら話してやろう」
子供に話を強請られた翁のように鷹揚に応えた蓮二に、弦一郎は「は、話さんでいい」と顔を赤くしてむにゃむにゃ言ったが、もちろん、全員に黙殺されたのは言うまでもない。
「──マジでドラマみたいじゃん真田君!」
「そ、そうか……?」
「そうだよ! なんていうか、朝ドラ系だよ!」
これ以上なく目を輝かせて興奮を露わにする莉子に、弦一郎は照れと困惑とどや顔が均等に混じった、締まりのない顔をした。
ちなみに、それを見て精市は「小嶋さんが楽しそうで何よりだよ」とニコニコしつつ、地を這うような声でぼそりと「真田は爆発しろ」とつぶやいている。
「なーるほど! ということはつまり、真田君は彼女と文通するのにキレイな字が書きたくて、書道を始めたと……!」
「は、はっきり言うな馬鹿者」
今ではそればかりでなく、単なる趣味としてだな……と弦一郎はモゴモゴ言うが、まったくもって無駄な言い訳だった。
「あーでも許嫁……許嫁かあ……まさかの……」
「でも、有名だろぃ? 許嫁の話」
ブン太が、ガムを膨らませながら言った。
確かに、弦一郎が女生徒から告白された時に「結婚を決めた者がいるので」と断るというのは、有名な話であった。
「有名だけどさ! まさかホントだとは思わないじゃない!」
「まあ、そうじゃなあ」
俺も信じとらんかったナリ、と、雅治が頷きながら言った。確かに、この年齢、そして何よりこの時代で、文通で仲を保っている許嫁がいるとは誰も思わないだろう。
「……特に隠しているわけでもないのだが」
「じゃあ、合宿でその手紙ナニって聞いた時、教えてくれたら良かったじゃん!」
「う、うむ、まあ、そうなのだが……」
「ああ、それはな」
頬を膨らませる莉子と、目を泳がせる弦一郎。そこに口を出したのは、やはり蓮二であった。
「合宿などで数日間に渡り遠出をする際、お守り代わりか、弦一郎はお梅から届いた一番新しい手紙を携帯する習慣がある。彼女からの手紙をわざわざ持ち込んで読み返しているのがバレるのが恥ずかしかった確率100パーセント」
「蓮二ィイイ!!」
「うっわ、真田そんなことしてんの?」
今まさにその恥ずかしいことをバラした蓮二を怒鳴りつけた弦一郎は、気持ち悪、とでもいわんばかりの半目の精市を続けて睨む。が、その顔がいくら険しくとも耳まで赤い顔色のせいで、まったくもって恐ろしくはなかった。
「そういえば、弦一郎。お梅は志願した学校には全て受かったそうだな?」
場を仕切りなおすようにして、蓮二が発言した。
いつものことだが、不思議なもので、彼の静かな声が通ると、一瞬場がシンと静かになる。
「……ああ、そのようだ。氷帝に行くのか、最後まで迷っていたようだが」
「結局、どうすると?」
「そ、そのことだが」
いつの間にか注目が集まっているのに気づいた弦一郎は、ゴホン、と、どこかわざとらしい咳払いをした。
「高校からは、その、……立海に来ることになった」
弦一郎がそう発言すると、全員が声を上げた。
「し、静かにせんか!」と弦一郎が注意するが、その声が妙にへろへろとしていることもあってか、まったくもって静かにはならなかった。
「マジか!」
「いよいよ嫁入りかよ!」
「ま、ままままだ嫁入りではない!」
「まだ」
どもる弦一郎の発言に、雅治がぬるい顔で小さく突っ込む。
「ははあ、それは楽しみですねえ。大学も立海のご予定なのですか?」
「う、うむ」
茶化すようでもなく、ただ喜ばしげに話しかけてきた比呂士に、弦一郎は頷いた。
「その予定だ。べ、別に、俺がここにいるから立海を選んだわけではないのだぞ! 氷帝や立海は伝統文化特待生制度があるので、舞台活動もしやすいというから候補に入ってだな……」
伝統文化特待生制度とは、神楽や能、日本舞踊、三味線や華道・茶道など、日本の伝統文化芸能類の校外活動経験者で、なおかつその活動に対し何らかの賞を受けており、また出来れば級、段、資格類を有し、入学後もそういった活動に取り組む意欲のある者を、特待生として迎える制度のことだ。
ちなみに、島根県出雲市、また京都府など、そういった歴史、文化的な特色の濃い場所には、同じくこの特待生制度を導入している学校がある。そして立海もまた、鎌倉幕府があった場所と近い立地で学校の歴史も古く、また海外留学生を多く迎えるため、正しい日本文化を知ってもらう必要がある、と、伝統芸能や歴史・郷土関係に力を入れる傾向が色濃いため、この制度を設けていた。
とはいえ、そうそうそんなスキルを持った人材自体がいないため、数年ぶりの伝統文化特待生でもあるらしいが。
「そっかあ、舞妓さんだったんだもんね。貴重なスキルは生かさなきゃね」
「うむ。舞妓にはもうならんが……、流派の名取であるし、日舞は一生続けるだろうからな。なるべく良い環境があるところのほうがいい」
感心した様子の莉子に、弦一郎はいかにも尊重すべき大事なところである、という様子で、重々しく頷いた。
「なるほどね〜。大学も、その理由で立海なの?」
「いやそれもあるが……」
「はい?」
「……ス、スポーツ栄養学科が有名だろう、立海は……」
ぼそぼそと言った弦一郎の発言に、シン、と一瞬場が静まる。そしてその意味を一拍遅れて理解した面々は、総勢、砂を吐きそうな顔になった。
──お前のためじゃねーか!
全員の心の声がひとつになったと同時に、部室のそこいらにあった古いテニスボールやら、ちびた消しゴムやらが一斉に弦一郎に投げつけられた。
弦一郎が高校からいよいよプロを目指して活動していくことは、全員が知っていることだ。そして彼が学生ではなくなりプロとなった時、最も側にいるであろう彼女は、アスリートとなる夫予定のために、本格的なスポーツ栄養学を学ぼうとしている、というわけだ。
──つまるところ、弦一郎限定の花嫁修業である。
「なるほど。氷帝は伝統文化特待生制度に関してより手厚い部分はあるがその分学費も高額。スポーツ栄養学科に関しては、断然立海に軍配が上がるからな」
蓮二は、納得して頷いた。
「立海ならば、希望すれば高校二、三年次から栄養学の基礎やスポーツマネージメントの授業が学べる。高校を出たら結納の予定なら、それならちょうどいいだろう」
若手日本舞踊家として活動していく自分の将来と、弦一郎の妻となるであろう将来の予定をすりあわせた結果、氷帝ほど手厚くはないが十分な伝統文化特待生制度があり、スポーツ栄養学科が国内随一のネームバリューで、なおかつ今まで長く離れて暮らしていたのもあり、最も弦一郎の側にもいやすい立海を、彼女は選んだわけである。
「ゆ、結納……。はー、真田君、ほんとに結婚するんだ。すごいねえ」
彼氏彼女という間柄ならともかく、許嫁。具体的に結婚することを予定に入れて進路を決める者が同級生に居ることに、莉子は呆けているようだった。
「それにしても、真田君、相当彼女のこと好きなんだねえ。あんなに締まりのない顔の真田君、初めて見た。今なら私がたるんどるって言っても許されるレベルだよあれは」
「確かに」
「ねー。ラッブラブぅ」
「小嶋」
ヒューヒュー、と口を尖らせて下手な口笛を吹く莉子に、ふと、蓮二が言った。
「なに?」
「お前の言うとおり、弦一郎とお梅はそれはもう仲睦まじい。何しろ結婚する仲だ」
「うん」
「だから、余計な心配などは一切しなくていいからな」
「うん?」
頭に疑問符をたくさん浮かべて首を傾げる莉子であるが、その胸の内には、先ほど湧き上がったもやは一切残っていない。子犬のようになんのてらいもないきょとんとしたその顔に、蓮二はふっと笑みを浮かべた。
「いや、わからないならいい」
わからせるのは俺の仕事ではないしな、とは言わず、蓮二は、ちぎった消しゴムをしつこく弦一郎に投げている精市を、温かい目で見守ったのだった。
「そ、そういうわけでだな。その、俺達はいるが、同性の知り合いは確か居らんはずなのだ。だから小嶋……」
「まーかせて! 真田君のお嫁さんか〜、仲良くできるといいなー!」
「そ、そうか、そう言ってもらえると……。あ、いや、まだ嫁では」
モゴモゴ言っている弦一郎に、莉子はにこにこと微笑む。そんな笑みを向けられて照れくさいのか、弦一郎がぽりぽりと頭を掻くと、その拍子に、まだ髪の隙間に引っかかっていたらしい、消しゴムの欠片がころりと落ちた。
後ろで、消しゴムを投げつけた張本人である精市が「小嶋さん、惚気には付き合わなくていいからね」と冷めた声を発している。
「楽しみだねえ!」
来る卒業。
別れの季節である。だが、出会いの季節でもある。
大切な友だちの大切な人との出会を控え、莉子は暖かなもので胸を満たしたのだった。