【if/許嫁ルート】
皇帝の嫁ごはん
 三連覇こそ成らなかったものの、二連覇に加えて高い戦績を残し、高校に上がってからは汚名返上とばかりによりすさまじい気負いで快進撃を続け、とどめにレギュラー全員がタイプ違いの優れた容姿を持つ立海大テニス部は、はっきり言って、非常にもてる。
 女人禁制の決まりから、例えば氷帝学園のように集団で黄色い声を上げる女生徒のファン集団などはいないが、ファンの数自体は非常に多い。

 そして、気軽にきゃあきゃあと声を上げられないために抑圧されたファン心理は、よく“差し入れ”という名の形になって、彼らの元へ届く。

 “差し入れ”の品は様々であり、受け取る彼らにとっても、有難いものと、素直に喜べないものが存在する。
 無難かつ素直に有難いものといえば例えばスポーツタオルなどで、何枚あっても困らないし、実際に部活で使用するものであるため、応援としてまっとうかつ好意的な贈り物と捉えられていた。ブランドものなどでなければ、値段も学生の小遣いに無理がない程度の手頃さの品なので、贈り手としても贈りやすく、貰った方も気負いが少ない。

 こういった実用品の類は、いい。中には数人で費用を出し合って、立派な救急箱のセットを贈ってくれるという、差し入れというよりは寄付に近いことをしてくれたファンもいた。これは非常にありがたく、全員で礼状を書いて返した。

 扱いが難しいのが、食べ物である。
 差し入れ、という名目としては、食べ物というのはむしろ無難というかベタな選択だ。
 実際、市販のものであれば彼らも有難いと感じる。最も嬉しいのが水で溶かして作るスポーツドリンクの粉や、プロテイン系ドリンクの素、ブロックタイプやゼリータイプなどの、各種栄養補助食品類。実用品に近いが、激しい練習の合間や練習試合の時などに地味に重宝するし、よく面倒がって食事を取らずにフラフラしている仁王雅治の口に、部員の誰かが栄養バーやプロテインドリンクを突っ込んでいる。

 次が、やはり市販の菓子類だ。どれもこれも糖質の塊なのでスポーツマンの補助にはならないが、燃費の悪い男子高校生の胃袋は補助してくれる。可愛らしくラッピングされたりしているといかにも女の子からという感じで、士気が上がったり、ということもある。
 消費しきれなかった場合は、自宅に持ち帰って家族のおやつになることもあった。
 ただし、生クリームなどが使われた生菓子類については、傷んでいるとまずいので避ける傾向がある。

 ──そして、最も困るのが、手作りの食べ物、である。

 同じ手作りでも、口に入らない品なら、まだいい。
 具体的には、手編みのマフラーやら、名前とハートの刺繍入りのタオルなど。時に引いたり重すぎたりということがあるが、正直、使わなければいいだけだ。気持ち自体は有難いこととして、部室のロッカーのひとつがその重量級の“気持ち”を保管するための収納にされている。
 おいそれと処分は出来ないが、最長でも三年後には贈った側も贈られた側も双方卒業してしまうので、後から入ってきた後輩たちが何とかするだろう。例えば、年末の大掃除などで。

 だが、手作りの食べ物、となると、話が違ってくる。
 食べ物であるので、消費せず置いておけば当然腐る。そして手作りであるがゆえに防腐剤の類が入っていないそれらは足が早く、特にケーキ類や弁当などは当日に消費しないといけない。
 だが、問題はそれ以前のところにあった。

 要約すれば、つまり。
 ──そもそも、よく知らない者からの手作りの食べ物を口に入れるのは、抵抗がある。

 個人の感覚にもよってくるところであろうが、少なくとも、立海テニス部の面々の感覚は、『手作りは無理』ということで、全員一致していた。差出人が匿名などであれば、もう完全にアウトである。

 仮にそうでなくても、女子高生が全員料理上手というわけではない。可愛らしいラッピングのセロファンの内側にべったりと張り付いている生焼けの様相のパウンドケーキや、明らかに食べられないものが混じったクッキーなど、ひと目で“やばい”と感じる品も多いのだ。
 その原因は単なる料理下手、更にその上での蛇足以外のなにものでもないアレンジであったり、若い娘にありがちな“おまじない”やらによる異物混入であったりしたが、もし見た目や材料がまともであっても、何の保証もない素人の手作りである。下手に口にして体調を崩したり、もっと悪ければ選手生命にも関わってくる可能性がある。
 そしてあまり疑いたくないことではあるが、最初からそれを狙っての差し入れがある可能性も否めない。立海大テニス部は、そういう卑怯な手段でもって王者の玉座から引きずり降ろそうとする輩がいないと断言できない程度には注目されており、ファンが多いと同時に敵も多かった。

 よって、もし手作りの食べ物が届いた場合は、例によって「気持ちだけは受け取る」ということで、品は全て処分することになっている。
 様相としては、お焚き上げに近い。

 そういうことなので、一時期手作りの食べ物の差し入れが殺到したことをきっかけに、立海大テニス部は「生物、および手作りの食べ物による差し入れは、選手の口に入ることはありません。お気持ちだけ受け取り、焼却処分とさせていただきます。ご了承ください」というなんとも事務的な告知を発表し、以来、手作りの食べ物が差し入れとして届くことは、ほぼなくなった。






 ──春の選抜大会、選手控室。

「うおー、大会になるとスゲーなやっぱ」
「おお、いつもよりだいぶ多いな」

 試合を終えて戻ってきたブン太とジャッカルが、差し入れ、と書かれた大きなダンボール箱、七つ余りを見ながら言った。
 それら全てに溢れんばかりに入っているのは、まず目立つのが市販の菓子、次いでタオルや栄養補助食品など。どれもこれも、可愛らしいラッピングがしてあったり、リボンがかけてあったり、またいかにも女の子の字で『〇〇くんへ♡』というメッセージカードがついていたりする。

「ふむ。我が立海大付属の生徒からでなく、大会参加校に所属する生徒のうち、我々を応援する者達からも届いているようだな」
「有難いことですねえ」
 蓮二が冷静に言い、比呂士が穏やかに言った。
「ああ、栄養補助食品とプロテインゼリーがたくさん。しばらく仁王君の食事には困りませんね」
「……犬の餌みたいに言うんじゃなか」
「似たようなものじゃないですか」
 嫌そうに言った雅治に、君の偏食っぷりを心配しているのです、と、比呂士はそれこそ駄目な犬を叱る飼い主のような声色で言い、逆光で光る眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

「後で仕分けをせねばならんな」

 蓮二が言った。差し入れの仕分けは恒例のもので、予め用意されているダンボール箱に分類してゆくのだ。おおまかに、手作りの食べ物などを含む処分用の箱、個人宛てのものに分ける。立海大付属テニス部宛、とされているものは部室に置き、平部員でも好きに消費してよし、という扱いになる。
 個人ごとの品はそれこそ個人宛てなので、どう扱うかはそれぞれの自由だ。

「うーん、お菓子が多いなあ」
 箱の中から、おそらくデパ地下系のかわいらしいクッキーの詰め合わせを持ち上げながら、精市は苦笑交じりの声を上げる。
「消費に困るんだよねえ。お菓子って」
「そーか? あるだけ食えんだろぃ」
「それはお前だけだよ」
「そもそも丸井は菓子の食い過ぎだ。カロリーオーバーにも程がある」
 データマン・柳蓮二が苦言を呈すると、ブン太はぎくりとした。
「た、食べただけ練習してんだろぃ」
 満腹中枢が狂っているのではないかと疑われるほどのブン太の大食い加減に、彼には、摂取カロリーによって練習量が課されるようになっている。言い出しっぺは精市であるが、それにはダブルスの相方ジャッカルも大いに賛同し、他の面々も妥当だと頷いたし、何よりデータマンが「それしかないな」と断言したので、本人の意見は華麗に無視されている。──これが立海大付属テニス部だ。
「確かにそうだが、これ以上食べるとお前は寝る間も惜しんで練習することになるのだが」
「うっ……」
 蓮二が告げたそれに、ブン太は呻き、他の面々は、呆れ返った顔をした。
「現実的に可能な運動量を摂取量が凌駕するとは、この柳蓮二も予想外だった」
「そろそろ節制しようか、丸井」
「……了解、幸村クン……」
 にっこりと微笑んだ精市の圧力に、ブン太は肩を縮こませて、弱々しい返事をした。

「だけどまあ、マジで消費に困るよな」
 有り難えんだけどよ、と、非常に困ったような様子で、ジャッカルが言った。
「お菓子ってなあ……ウチは俺と親父だけだし、そんなお菓子って食わねえんだよなあ。女の家族がいたら違うのかもしんねーけど」
「そうでもありませんよ。最初こそ喜ばれましたが、随分前に私は母と妹に“もう持って帰ってくるな”と釘を刺されました」
 そう言って、ふう、と、比呂士はため息をついた。
「そうなのか? じゃあどうやって消費してんだ」
「せっかく私宛に頂いたものなので多少心苦しくはありますが、ご近所の方に配ったり、妹が通っているピアノ教室の子供たちに差し上げたりしています。……というか、そうでもしないと追い付かなくて」
「あー、うちもうちも。妹の幼稚園のおやつにしてもらったり、子ども会とかの配り物にしてもらったりしてる」
「幸村くんもですか」
 小さい妹のいる二人が、頷き合った。
 そんな二人を見て、なるほど、ウチも近所に幼稚園あるんだよな、聞いてみっかなあ、と、ジャッカルはスキンヘッドの頭を掻いた。

「実はちょっと小腹空いてるんだけど……。お菓子はねえ。食べた気しない割に胸焼けするし……」
 胃のあたりをさすりながら、精市が唸る。
「確かに、こういった洋菓子の類はエネルギー補給としてあまり適したものではないな。食べるならこちらの栄養補助食品だが……」
「それもお菓子みたいなもんだろ、味的に」
 蓮二がつまみ上げたスピードカロリー摂取云々と書かれた小箱──ブロッククッキータイプのそれを見て、精市はげんなりした顔をした。
 そして提案はしたものの蓮二も同じ気持らしく、「まあ、そうだな」と苦笑し、栄養補助食品の小箱を元に戻した。

「む……、何だ、ものすごい量の差し入れだな」

 ガチャリとドアを開けて入ってきた弦一郎は、七つ余りのダンボールに詰め込まれた差し入れの山を見て、まずそう言った。
「おや、真田君。上杉さんはどうなさいました」
 微笑みながら、比呂士が言った。
 弦一郎が遅れてやってきたのは、試合後、所謂恋人である上杉紅梅に会っていたからである。

「む? どう、とは……?」
「いえ、こちらに連れてこられるのかと」
「あいつは部員ではないだろう」
「本当に、そのあたりはきっちりしていらっしゃいますねえ」
 比呂士は感心したように言ったが、弦一郎は「当然だ」と厳格な態度で頷いた。
「ま、真田もだけど、嫁さんもきっちりしてるよな。部室来たいって言い出す女、多いだろぃ」
「あいつはそのような差し出がましい真似などせん」
 ブン太の指摘に、弦一郎はまたも厳格な返事をした。──が、表情が些かご満悦気味である。自慢の“嫁さん”を褒められて、満更でもないらしい。

 真田弦一郎の恋人である上杉紅梅だが、特に弦一郎の知人友人らからは、「真田の彼女」ではなく、「真田の嫁さん」と呼ばれることが多い。
 高校生であるのでもちろん結婚などしていない彼らであるが、結婚前提だと公言している上、彼らの有り様が今からまるで夫婦のようであるので、すっかりそう呼ばれているのだ。
 最初こそからかい半分でそう呼ばれていたのだが、例えば紅梅がナチュラルに弦一郎の上着を脱がして当然のようにハンガーにかけたり、あれ、これ、それ、で会話がすっかり成り立っていたりといったすっかり夫婦前としたその様子に、呆れも込め、今ではもうほぼ当然のように、彼らは周囲から夫婦扱いされていた。

「毎度いいご身分で何よりだけど。……何、その包み」

 精市が指さした先は、弦一郎が片腕で抱えている、四角い風呂敷包みである。
「……差し入れだ。紅梅から」
「え、ちゃんから?」
「うむ。……しかし既にこれほど差し入れがあるのでは……」
 弦一郎は、ダンボールに詰まったお菓子の山を見渡した。

「まあ、いい。もし不要であれば中学の後輩らに分けろと言われている」
「ちょっと待て、弦一郎」
 言葉通り、応援に来ている中学の後輩──、赤也らに持って行こうとしてか踵を返した弦一郎の肩を、蓮二が掴んで引き止めた。
「せっかくのおからの差し入れだ。見るだけでもさせてもらおう」
 その言葉には、全員が頷いた。
「む、そうか? ……しかしだな」
「何か問題が?」
「うむ……俺が伝え忘れていたのが悪かったのだが、その……、手作りなのだ」
 気まずそうに、弦一郎は言った。
「手作り」
 ぴくり、と、蓮二の眉が動いた。
 そのリアクションに、弦一郎はやや申し訳無さそうな様子で頷く。

 ──立海大テニス部は、手作りの食べ物の差し入れお断りである。

「どうも、俺に作る感覚のまま作ったらしい」
「あー、よく弁当作って貰ってるもんな」
 ジャッカルが言った。真田家の台所は弦一郎の兄嫁が担っているのだが、真田剣術道場の師範である上、つい最近二人目の子供──弦一郎にとっては姪っ子を出産した彼女は多忙で、義弟の弁当をわざわざ作る暇がない。
 よって、弦一郎に弁当が必要な際は、紅梅がその役目を請け負っているのだ。弦一郎の家族から委任され、当然のように弁当を作る紅梅とそれを受け取る弦一郎はやはり恋人というよりは夫婦のようで、もはや弦一郎が紅梅の弁当を食べているのを、「愛妻弁当」などと言ってからかう者ももういない。

「先ほど手渡されてな。申し訳ないが食べんかもしれんとは言ってある」
「言ったのかよ。すげえな」
「何がだ?」
 ブン太が引いた様子で言った言葉に、弦一郎は不思議そうに首を傾げた。
 一般的な高校生の“彼氏彼女”なら、せっかく彼女が作ってきた差し入れを受け取るなり“食べないかもしれない”と告げるなど修羅場の取っ掛かりとしては十分だが、どうも、夫婦であればそんなことは起こらないらしい、と面々はいつものことながら呆れ半分に思った。
 ──とはいえ、それもこの二人ならではなのかもしれないが。

「……いや。しかし、作ったのはおなのだろう?」
「無論だ」
 蓮二の問いかけに、弦一郎はこくりと頷いた。
「今朝、俺の弁当を作ると同時に作ったと言っていた」
「そうか。……保冷剤も入っているな。ならば問題ないだろう」
 弦一郎が手に持つ包みからわずかに感じる冷気に、蓮二は数度頷く。

「弦一郎。我々が生ものや手作りの食品をことわっているのは、よく知らない者、しかも素人の手作りの品を口に入れるのに抵抗があるという生理的な心理要因と、万が一の食中毒などを警戒してのことだ」
「うむ」
「だがしかし、おは知らない相手ではないし、彼女は幼い頃から一流料亭で料理を習い、しょっちゅうお前にも弁当を作っている。お前がおの弁当で食あたりを起こしたことはない、どころか、栄養バランスの整えられた弁当で、お前の健康状態はより万全なものとなりつつある」
「う、うむ」
 弦一郎は、またご満悦気味に頷いた。
 蓮二の言うとおり、紅梅は幼い頃から京都の一流料亭『瓢屋』に出入りして、料理を習っている。名目は舞妓修行のための行儀見習いであったのだが、彼女自身料理に興味があり、また筋も悪くなかったので、板前らと仲良くなったと同時に、彼らから手ほどきを受けていたのである。
 更にその上で、全国大会にも出場できるレベルの高いスポーツマンが食べるものなのだから、と、紅梅は栄養学を素人の範疇ながらも勉強し、とてもバランスの良い弁当を作っていた。元々美容にうるさい姐芸妓たちらに食事を作っていた経験も長いので、そう難しいことではない、と本人は言っている。
 もちろん、冷凍食品など一切使われていない。

「よって、それを俺たちが口に入れるのに、何の問題もない」
「そ、そうか?」
「そうだ」
 蓮二があまりにもきっぱり断言するので、弦一郎はやや押され気味に軽く仰け反った。

「……まあ、そうだね。ちゃんが作ったものなら、俺も食べるの抵抗ないけど。食べないにしたってせっかく作ってくれたんだし、見せてよ、中身」
 精市が、再度風呂敷包みを指しながら言った。
「そうですねえ。実は、真田くんがいつもお弁当をとても美味しそうに食べていらっしゃるので、少し気になってはいたのですよ。料理上手な方だというのは聞いておりますが」
「料亭で修行したっちゅーのは、聞いたことあるのう」
「へー、スゲーな」
「ってことは、和食か。他の差し入れ洋菓子ばっかだし、いいじゃん」
 他の四人も、口々にそう言う。

「む、そうか。ならば、まあ、食べられそうなら是非食べてくれ」

 やはりご満悦そうな表情で、弦一郎は机の上に風呂敷包みを下ろすと、結び目をほどいた。



「なにこれ超おいしい」

 頬を膨らませながら、精市が真顔で言う。

 風呂敷包みの中から出てきたのは、二段の重箱。
 そして上の段には、ぎっしりとおにぎり──いや、天むすが詰められており、下の段には三種の漬物と、小さめのサイズの豆大福が、ラップと仕切りできちんと分けられて入っていた。手で食べるものばかり入っているため、人数分のお手拭きもちゃんと入れてある。
 なぜか自分の手柄のようにドヤ顔の弦一郎によると、天むすはもちろん、漬物も大福も出来合いのものはひとつもなく、すべて紅梅が作ったものである、ということだ。

「……うめえ。天むすってこんなウメーのな」
 天むすを初めて食べたらしいジャッカルは、感動した様子である。天丼をおにぎりにしたようなもの、と説明された彼は、「ああなるほどそりゃうめえわ」と頷き、からっと揚げられた海老の尻尾までぺろりと平らげた。
「なんだこれうめえ。味噌かこれ? 味噌味……どうやってつけてんだ? 揚げる前か?」
そしてブン太は美味いと賞賛したあと、そのレシピについて推測を始めた。よく食べると同時に自分でも大いに料理をする彼なので、美味いと感じた分、その作り方が気になるらしい。
 天むすは普通塩味、あるいは天丼風味でめんつゆなどを味付けにして作られるのが一般的だが、紅梅が作ったというそれは、めんつゆ味と味噌味があり、特に味噌は甘すぎず辛すぎず、麹の風味がよく効いていた。

「女子高生が差し入れに天むす……。色気がないのう」
「そう言いながらふたつ目ではないですか、仁王君」
 やや意外そうに、比呂士が言った。雅治は少食な上に偏食なので、手を付けた上にふたつ目も食べるというのは、とても珍しいことだった。とはいえ、焼肉やハンバーグなど、一般的な男子的味覚は備えているため、天ぷらも好物のうちには入る。
「天むすが嫌いな男なんぞおらん」
「まあ、そうですが。……しかし、本当に美味しいですね。この漬物がまた絶品で……、箸休めをすると何個でも食べられそうです」
 比呂士はぽりぽりと音を立てて漬物を食べ、お茶を飲んでから、次の天むすに手を伸ばした。

「天むすって、海老が普通だよね? 魚の天むす初めて食べた……。まあ天ぷらのおむすびで天むすなんだからアリだよね、っていうか超おいしい。なんで今までなかったんだ」
 魚が大の好物である精市は、海老だけでなく、白身魚の天ぷらを使った天むすがあることに感動と衝撃を受けている様子だった。
「鱚の良いものが入ったので使ってみた、と言っていた」
 精市の絶賛に、やはりドヤ顔で頷きながら弦一郎が言う。
「あ、やっぱ鱚か。鱚の天ぷら、俺大好きでさあ」
「鱈なども美味いな。あと、紅梅はイカやタコ、アナゴやイワシの天ぷらでも天むすを作るぞ。イカは紫蘇で巻いてから揚げていたので、さっぱりして美味かった」
「なにそれ食べたい!」
 いつもならドヤ顔の弦一郎にローキックのひとつでも入れているはずの精市が、目を輝かせて反応した。

「そういう真田は全然食べてねえけど、いいのか?」
 気遣うようにジャッカルが言うと、弦一郎は好意的な表情で頷く。

「うむ。俺は弁当に同じものが入っていたからな」

 その言葉に、他の全員は、正真正銘遠慮無く、天むすと漬物を食べ尽くした。



 そしてそう時間も経たないうちに、重箱にぎっしり詰められていたはずの天むすはひとつ残らずなくなり、箸休めの漬物も、三種とも全てなくなっていた。

「餅は手軽かつ効率よく炭水化物を摂取できる優秀な食品として、マラソン選手などを中心にアスリートによく愛用されている。更に小豆は筋肉の中に疲労物質がたまることを防ぐビタミンB1が豊富だし、大豆は良質なタンパク質などを多く含む。よって大福は非常に」
「……蓮二、薀蓄垂れるか食べるかどっちかにしなよ」
 豆大福を頬張りつつ喋るという行儀の悪いことをする珍しい蓮二の様子に、精市が呆れたように言った。しかもそう言われ、薀蓄を垂れるのをやめてもぐもぐと食べることを選んだデータマンにも、全員が驚くことになった。

紅梅の作る漬物と豆大福は、蓮二の好物でな」
 デザートは弁当に含まれていなかったらしく、これはひとつ頂こう、と豆大福を頬張りながら、弦一郎が言った。
「漬物はあまり味が濃くなく野菜の味がちゃんとしていて、大福は甘さ控えめで、豆が多めなのがいいらしい」
「ああ、漬物も相変わらず絶品だった」
 そう言って頷く蓮二は、漬物は最も量を食べていたし、既に大福はふたつ目である。

「豆が多めなのは嬉しいよな。しかもこれ、塩茹でしてあんだろぃ。地味に手ぇかかってんな」
 小さめとはいえ、ひとつの大福をふた口程度で豪快に頬張ったブン太が言った。
「でも、豆に塩がきいてるぶん、もうちょっとアンコが甘くてもいいぜ、俺は」
「お前はな。俺はこのぐらいがちょうどいいぜ。和菓子ってあんまり得意じゃねえけど、小さめだから俺でもひとつ全部食べられるな」
 ジャッカルが、有難そうに言った。
「そうですね。私もあまりアンコぎっしりなものはつらいのですが、このくらいならちょうどいいです。ほら、仁王君もこれぐらいならひとつ食べられるでしょう」
「おまんは俺の保護者か」
「似たようなものじゃないですか」
 文句を言いつつも、しかし雅治は指でつまめる程度の小さめの大福を受け取ると、おかわりこそしなかったが、ひとつまるごと食べきった。

「うん、アンコもおいしい。ちゃんと豆の味がする」
 にっこりと笑みを浮かべ、精市も豆大福を咀嚼する。
「おは缶詰などの出来合いを使わず、小豆から作るからな。先日良い大納言と黒大豆が手に入ったと言っていたので、大福を作るだろうと踏んでいたのだ。この差し入れに大福が含まれている確率も、87パーセントだった」
「……あー、だからちゃんの差し入れって聞いて引き止めたのか」
 三つ目の大福に手を伸ばしている蓮二を見て、精市は納得して頷いた。

 ──こうして、なんだかんだ言いつつ、紅梅からの手作りの差し入れの重箱は、ひとつ残らず空になってしまったのだった。






 非常に喜ばれた、と弦一郎から報告が行ったせいか、それからというもの、紅梅はしばしば差し入れを作るようになった。
 とはいえ、相変わらず、弦一郎いわく「よく弁えている」彼女は部室に直接それを持ってくることはなく、いつも弦一郎にそれを託してくるので、弦一郎が四角い風呂敷包みを持って現れると、皆の目の色が変わった。

 だいたいはおにぎり類と、漬物、そして和菓子があったりなかったり、といった様子。それは女の子からの差し入れ、というよりはお母さんかお祖母ちゃんから持たされた感のあるものばかりだったが、どれもこれも、文句の付け所なく美味しかった。
 炊き込みご飯のおむすびと、鶏の竜田揚げ。稲荷ずし、かと思いきや、中身のご飯は栗おこわ。鶏そぼろのおにぎりは、ゆず風味と生姜の味付けの二種類。生姜焼きを具にした、スタミナのつきそうなおにぎり。他にはスタンダードな塩おにぎりと、重箱の一段ぎっしり詰まった筑前煮、という時もあった。

 食べるのが運動部の高校生男子たちということで、紅梅もそれを考慮してボリュームの有るメニューを選んだり、考案したりしているようだった。
 そしてそれは大成功で、すっかり胃袋を掴まれた彼らは、練習試合などがあるごとに弦一郎に「今日は嫁さんからの差し入れねえの」などと聞くようになった。
 弦一郎いわく「控えめで奥ゆかしい」彼女は最初、あまり毎度作るのも差し出がましい、と思っていたようだったが、差し入れがないときに弦一郎の弁当が強奪されかけてからというもの、公式試合と、県外の学校への遠征練習試合の時と決め、必ず差し入れを作るようになった。

「……すまんな。お前にいらん手間をかけさせることになってしまった」

 重箱の風呂敷包みを受け取りながら、弦一郎は紅梅に申し訳なさそうに言った。
 ただでさえ普通より忙しい紅梅に、自分の弁当のみならずこうして定期的に差し入れまで作らせることになってしまったことに、弦一郎としても心苦しい気持ちはあった。友人らが紅梅の作ったものを絶賛するたび、そうだろうそうだろうとご満悦な気持ちを味わっていたということも、彼の罪悪感に緩やかに拍車をかけている。
 しかし、文字通り味をしめた彼らは紅梅の差し入れを楽しみにしており、特にブン太などは差し入れがないとわかると、あからさまに士気が下がってしまうのだ。
 更には、男の胃袋を満足させるメニュー、なおかつ蓮二からも助言を受けてスポーツマンのための栄養バランスが整えられた差し入れは実際に試合中のエネルギー補給として、大いに役立ってもいる。

「大事おへんえ。京都に居るときも、お姐はんらァによぅ作っとったし」

 穏やかに微笑んで、紅梅は言った。
 元々、天むすは手で食べられるし腹にたまるので、よく時間のない姐芸妓らに作っていた定番メニューだった、と彼女は言う。さらに、エビで塩だけだと飽きるので、具と味付けを数種作ったのだ。大福が小さめなのは、舞台や座敷の間に素早くつまめるようにという配慮である。
 ちなみに漬物は単に紅梅の趣味でもあるので、いつも作って置いてある。真田家も弦一郎経由でよくお裾分けを貰っており、小茄子の漬物などは人気で、軽く取り合いになるほどだ。

「そうか。あくまで厚意だとは伝えているので、無理はするな」
「へぇ、おおきに。そやけど、こんなもんで勝てるんやったらお安いご用や」
「……うむ、助かっている」

 弦一郎が、しっかりと紅梅の目を見て頷くと、紅梅はとても嬉しそうに、ふにゃりと微笑んだ。

「ええんよ。ちゃぁんとお礼も貰とるよってな」
「む、そうなのか?」
「へぇ」
 具体的には、主に蓮二がスケジュールを調整し、紅梅と弦一郎の休みを合わせて一緒に過ごしやすくしたりという融通を利かせてくれているのである。
 私的なことで部活の予定を変えるなど立海大付属としてはもっての外であるが、部長の精市が呆れた顔をしつつも何も言わないし、他の面々も、いつも世話になっているのだから、と何も言わない。──物理的に、紅梅の作ったもので口を塞がれている、と言ってもいいが。

「……最近」
「へぇ?」
 指先で頬を掻き、少し照れくさそうに、しかしご満悦気味の表情で、どこか内緒話をするような声色で言った弦一郎に、紅梅は首を傾げた。

「良い嫁を貰ったな、と言われることが多い」
「ふぇ、っへ」

 親密な距離でささやかれた言葉に、とても嬉しげに、紅梅は珍妙な笑い声を上げる。
 風呂敷包みから、さわやかな柚子の香りがした。
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BY 餡子郎
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