かっこいいもの、寄っといで!/14
(Remake)
じめじめとした水分が、どっしりとした蒸し暑さになってのしかかる、梅雨の初め。
夏用とはいえ、ポリエステル混の制服のシャツが肌に張り付く不快さを感じながら、莉子は学校からの帰り道を歩いていた。
──ぴろぴろぴっ!
気の抜ける電子音。
メールだ、とも特別思わず、ほとんど条件反射に近い手慣れた素早さで、莉子は通学カバンの外ポケットから携帯電話を取り出し、二つ折りのそれを開いた。
「んっ?」
莉子は、思わず足を止める。歩きながら携帯電話をいじるのはよくない、と模範的なことを思ったからではない。メールの差出人が、あの、幸村精市だったからである。
幸村精市は、同じ立海大附属中学に通う同級生で、莉子が知る中でも飛び抜けての美少年だ。強豪、王者と名高い立海大付属テニス部の部長でもある有名人の彼のことは前々から知っていたが、三年生になり、同じ美化委員になってから、個人的にも話すようになった。少なくとも、こうしてメールアドレスをお互いに知っている程度には。
メールの件名は、『指令』。
厳しさのあまり軍隊じみていると有名な立海テニス部ではあるが、精市の柔和な顔に似合わない厳しいその字面に、莉子は首を傾げつつも、かちかちと携帯電話のボタン操作をして、本文を確認する。
頼みがあるんだけど、商店街近くの土手に来てくれる?
多分橋のあたりかな。出来るだけ急いでやってね、よろしく。
──何のことやら。
行動を命じつつもその意図を明記しないあたり、それは確かに『指令』であった。
だが美少年の言うことに対しては、よく躾けられた新兵よりも従順な莉子である。逆らうなんて以ての外、とばかりに、彼女はものすごいスピードでボタンを操作し、『了解!』とだけ返して、すぐさま今来た道を戻り始めた。
──時を、少し遡り。
蒸し暑さを助長するように、さほど綺麗でもない川がゆったりと流れる土手沿いの道を、三人の中学生が、だらだらと歩いていた。
三人とも白いビニールの買い物袋を持っており、ジャージを着用している。しかし学校指定の名前入りのジャージを着ているのは、左右を歩く二人。そして先輩らしく二人を両脇で歩かせ、細かくうねった黒髪をした少年は、芥子色に黒の太い横ラインと、赤と白の差し色が特徴的なエンブレムの入ったジャージを身につけていた。
立海大附属中学の、テニス部のジャージである。そして着用しているのは、立海大附属中学男子テニス部で唯一の二年生、切原赤也であった。
「あっついですねー」
学校指定のジャージの一人が、へたれた声で言う。まだ小学生だった頃の面影が抜けないあどけなさが紡ぐ敬語が、彼が下級生であることを示していた。
「ムシムシしてると、ほんっとに死ぬ……」
赤也が、後輩よりもへたれた声で答える。基本的に屋外スポーツであるテニスをやっていれば暑さには慣れるものだが、慣れたからといって、平気になる、というわけではない。
「あー、アイス食いてえな」
「部費で買っちゃだめですよ?」
「買わねーよ」
立海大付属自体が体育会系の校風として知られ、中でも男子テニス部は、もはや軍隊であるとまで言われるほど厳しい。特に上下関係に至っては、かなり細かいものがある。そんな中、赤也はこの下級生二人とは、こうして軽口を言い合って笑える程度の、割と気安い関係を築いていた。
遅刻の罰則のさらにおまけとして課された買い出しであるが、まあ悪くはない道のりである。と思いながら、だるそうに、その実なかなかのんびり和やかに歩いていた赤也は、ふと足を止めた。
「何の声だ……?」
赤也は、耳を澄ませてあたりを見回した。
「あの、切原先輩?」
「ん……ああ、ちょっとお前ら先に帰ってろ」
「へっ? わ、わかりました……」
「おー、じゃあなー」
不思議そうな顔をする後輩に短く声を掛けた赤也は、買い物袋を彼らに押し付けると、ひとりで土手の下へと降りた。
後輩二人は顔を見合わせたが、行動し始めた切原赤也を自分たちが止められることなどできないのはわかりきっていた。それに、いくらある程度気安い口がきけるとはいえ、立海大付属男子テニス部において、先輩の言うことは絶対である。
すでによく躾けられた二人はさほど迷う様子もなく、指示通り、おとなしく学校へと歩き始めた。
「何か、鳴き声みてえのが聞こえるんだよな……」
雑草をかき分けながら、赤也はきょろきょろとあたりを見回す。風も凪いで蒸し暑い中、藪蚊や羽虫が飛び交う土手をうろつくなど普段なら絶対にやらないのだが、耳に届いたその声が、赤也はどうしても気になった。
おそらく動物の鳴き声だろう、とは思うのだが、橋の上を定期的に通る車や電車の音がうるさく、あまり大きくないらしい鳴き声は、はっきり聞こえづらい。
しかししばらくがさがさと辺りを探し続けると、ついに“鳴き声”の元に辿り着いた。
それは、夏の気温で鬱陶しいほど高く育った雑草に埋もれるように置かれた、大きめのダンボール箱。
「い……犬っ!?」
赤也が声を上げると、キャン! と、ダンボール箱の中の毛玉──、片手で持ち上げられるくらい小さな仔犬の一匹が鳴く。
ダンボール箱という時点で、捨て犬か捨て猫であろう、とは想像していた。
しかしそれが五匹もいようとは、予想外である。体中を覆うふわふわの毛、くるんと跳ね上がった尻尾、チワワのようなつぶらな目。一匹だけでも破壊力抜群の愛くるしさが、五匹分である。赤也は瞬時に心を掴まれ、自然にしゃがみ込み、まじまじと箱の中を見た。
箱の中には新聞紙が敷かれており、糞尿で汚れた様子もないことから、ここに置かれてさほど時間が経ってはいなさそうだった。仔犬も比較的元気そうな様子で、赤也を見て、小さなしっぽを振っている。
──確か、ポメラニアンではなかろうか。
と、赤也は拙い知識から、仔犬の犬種の予想をつけた。捨てられてしまっている辺りからして血統書付きなどではないのだろうが、少なくともそれらしい姿形である。つまり、愛玩犬として相応しい見た目だ。どの角度から写真を撮ってもそのままカレンダーか何かにできそうな愛らしい生き物を、こんなに蒸し暑い、藪蚊だらけの橋の下に捨てる人間の気持ちが、赤也にはさっぱりわからなかった。
「お前ら、捨てられちゃったのか? どーすっかなぁ……、ウチじゃあ飼えねーし、飼ってくれそうなヤツもなぁ」
赤也はあまり独り言を言う癖はないはずなのだが、仔犬に話しかけるようにして、困り果てた声で言った。
切原家では生き物を飼ったことがなく、また、親戚や友人の家でも、ペットがいるところは多くなかった。つまりこういう時にどういう行動を取ればいいのかさっぱりわからなかった赤也は、しばらく悩み、悩んだ結果、携帯電話を取り出した。
立海大付属は体育会系の校風であり、中でも男子テニス部は、軍隊と呼ばれるほど厳しく、上下関係にも細かい。先輩の言うことは絶対である。だがそれは同時に、困ったときは先輩を頼れるということでもあった。
先輩、のグループにまでカーソルを操作した赤也は、誰に電話をかけるか、少し迷った。
最初に思いついたのは、最も自分の面倒を見ることが多い、真田弦一郎である。動物が嫌いだという話は聞いたことがない。が、好きだという話も聞いたことがない。そこまで考えて、雷親父よろしく「元いた場所に捨ててこい!」と言われるのをすぐさま想像してしまい、彼に相談するのは却下した。
次に思いついたのが、柳蓮二。赤也に限らず、困ったときの、と一番頼りにしやすい存在であるが、今日は家の用事で休んでいる。
ならば最も気安く付き合っている丸井ブン太とジャッカル桑原であるが、蓮二がいない分、後輩の指導をしていて忙しく、携帯にはまず出ないだろう。柳生比呂士も同様。仁王雅治はどうかと思ったが、彼は極端な猫派で、犬はあまり好きではないと言っていた気がする。
結果、赤也は意を決し、ほとんど消去法ではあるが、最も頼れる最大権力者の名前にカーソルを合わせ、ダイヤルボタンを押した。
「──もしもし、部長? 切原っす」
『赤也? 買い出しから戻ったんじゃなかった?』
ハスキーな女性とも聞こえるような、あまり低くない声。立海大付属男子テニス部部長、幸村精市である。
ある意味弦一郎よりも厳しい人物であるので滅多なことでは頼れないが、花が好きで小さな妹にも甘い彼なら、可愛い仔犬を無碍に扱うこともなかろう、と赤也は思ったのだった。
「いや、気になることがあって、宮田と内海を先に帰らせたんす。それより、ちょっと相談したいことが……」
『何、部費でも落としたのか?』
「違うっすよ!」
すぐさま自分がなにかヘマをしたと断じる反応に、赤也は肩を怒らせた。──普段の行動からして、しかたのないことではあるのだが。
「あの、商店街からウチの学校まで来る途中に土手、あるじゃないっすか」
気を取り直して、赤也は話し始めた。ちらちらと、箱の中を見ながら。小さな前足を箱の縁にかけ、黒いつぶらな目をきらきらさせている仔犬は、自分に大きな期待をかけているようにも見えた。
「そこの土手で、小さい仔犬を見つけちゃって……、どうしようかって悩んでたんス」
『仔犬?』
「ハイ、小さくてふわふわで、多分ポメラニアンだと思うんすけど……。ウチは飼えねえし、飼ってくれそうなヤツも知らねえし、かといってここに置き去りもアレじゃないっすか」
『それだったら、保健所に連れて行けば?』
「えっ、保健所って保護してくれるんすか?」
赤也の顔が輝いた。しかし、その輝きはすぐさま打ち払われることとなる。
『一定期間はね。その後は殺処分っていうのが大体だよ』
「殺っ……、だだ、だ、駄目っすよそんなの!!」
冷たくもなく、熱くもなく、ごく平坦な調子で言い放たれた精市の言葉に、赤也は逆にぞっとして、思わず声を荒らげた。
『言っとくけど、部室には絶対連れて来ないでね』
赤也の焦った様子がわかっているだろうに、精市は、ごく淡々とした声で続ける。
『ポメラニアンの仔犬とか、世界で最も可愛いもののベスト3にランクインするんだから。そんなのが目の前に来たら、保健所連れてけなんて言えないだろ』
「出会っちゃった俺の気持ちはああぁぁ!?」
『兎に角、俺は力を貸せないよ。自分でどうにか考えてみな』
──ブツッ。
蜘蛛の糸が切れたかのような無情な音を立てて、通話が切断された。
赤也は呆然としていたが、ツー、ツー、と鳴るばかりで一切反応しなくなった電話を、ゆっくりとした動作で切る。相談する相手を間違えたことは明白であったが、相手は最大権力者である。そして軍隊式とも言われる立海大付属男子テニス部において、最大権力者の言うことはもはや決定事項であり、他の何人であろうとも覆すことはできないのだ。
「お前らさぁ……そんなに尻尾振ったって、どうしようもねえよ……。俺だってどうにかしたいけど、どうする事もできねーもん」
言い訳のようなことを、赤也はほとほと情けなさそうに言った。
自分に大きな期待をしてくれていた──赤也の勝手な想像であるが──、仔犬に対し、何の力にもなってやれなかったことが、赤也の胸を締め付ける。
俺がコイツら置いてったら、多分こいつら餓死とか、苦しい死に方するんだろうなぁ。つっても、保健所に連れてったところで結局は殺処分だろ? 里親探しなんてしたことねーし、できねーし。まず連れて帰るのも無理だし…… と、赤也は悪い想像ばかりをぐるぐると巡らせ、そのたびに、半ミリずつ涙がせり上がってきた。
そんな赤也に、仔犬たちも心配そうな様子だ。──無論、やはり、赤也の勝手な想像であるのだが。
「お前らっ……人の事心配してる場合かよ……自分たちが、死にそうなんだぞっ……」
ぶわっ、と、赤也のつり目がちの大きな目から、涙が零れ落ちる。
テニスにおいては悪魔だなんだと言われる彼であるが、実のところ、この歳になっても未だ本気でサンタクロースを信じているような、純真な心も持ち合わせていた。
仔犬がキューンと鳴く度に、赤也は嗚咽をおさえる羽目になった。その間にも脚を刺す藪蚊や、橋の上を通る電車の大きな音が仔犬のか細い鳴き声を消すことが、ことさら惨めさや無力感を煽る。
「うっ、えっ……も、もう、どーすりゃ、いいんだよ……!」
──なんて世の中は厳しいんだ。
こんなに小さくてかわいい仔犬を捨てる奴もいるし、部長は鬼だし、副部長はいつも鬼だし、こんな時に柳さんはいねえし、仁王先輩は猫派だし。
どいつもこいつも薄情すぎる、と、赤也は途中から単なる八つ当たりになった憤りを迸らせながら、ぼろぼろと泣いた。
「……はぁっ、あれ、きみ、切原君? だよね?」
しばらくぐずぐずと泣いた赤也の背後から聞こえた、高い声。
驚いた赤也が勢いよく振り向くと、そこには困惑した表情の、立海の制服を着た女生徒が、息を切らせて立っていた。
「あ、アンタ、何でここに……」
──確か、小嶋莉子。
と、赤也は記憶を引っ張り出した。
ついこの間、部活中に会った妙な先輩。というのが、赤也の認識だった。
少なくとも読者モデルくらいにはなれそうな容姿の持ち主で、なおかつ、その容姿をひっくり返すほど、良く言えば底抜けに明るい、悪く言えば残念なキャラクターの持ち主だ。特にイケメンといわれる容姿に優れた男子、時に女子に目がないらしく、ミーハーを堂々と自称しているという、赤也に言わせれば「変な先輩」である。
ちなみに、後でクラスメイトに話を聞けば、赤也が抱いたその印象と寸分違わない評価で、一部で有名な人物であった。
しかし赤也にとってはそれよりも、精市や弦一郎、蓮二らを始め、先輩連中の口から彼女の名前が何度か出たことがあり、しかも何やら好評価な様子である、というのが大きかった。あの面子が揃って知っているばかりでなく褒められる女子生徒というのは珍しく、よく覚えていたのである。
間近で見るのは二度目だが、確かに可愛い少女ではある。
ばっちり化粧をしているわけではないが、眉はナチュラルかつ綺麗に整っているし、長めの睫毛がわざとらしくなく、くるんとカールしている。ニキビのない肌が、おそらく走ってきたのだろうせいで赤く蒸気し、少し乱れた髪の生え際が汗ばんでいる様が爽やかだ。
膝上の、校則ギリギリくらいだろう、短すぎない長さのスカートから伸びる脚はすらりとしていて、しかし程よく肉がついていて健康的である。
藪蚊も多く、雑草がちくちくと脚を刺すだろうに、莉子は迷いのない様子で、ざくざくと大股で土手を降りて、赤也に近づいてきた。
「いやー、幸村君から急行せよってメールが来てさ」
坂になっている土手を下りながら、莉子は言った。その言葉に、赤也は「幸村部長が?」と、一瞬きょとんとし、それから眉をしかめた。こんなにかわいい仔犬を保健所に連れて行けと即断したあの神の子だか鬼の子だかが、一体この少女に何を命じたというのか、と軽く警戒したのである。
「ん、あれ、切原君泣いて……」
「ねえよ!」
と威勢よく怒鳴るが、ぼろぼろと涙と鼻水を垂らしている赤也に、あらー、と莉子は苦笑を浮かべた。精市のメールはつまり、この状況を助けてやってね、という意味だということは察することができる。しかし赤也は以前接した印象ではどうにも感情の激しい少年で、下手をすると攻撃的になってくるタイプだ。
とはいえこうしてぼろぼろ泣いているのを見捨てることはできないし、そもそも莉子は赤也の子供っぽく癇癪を起こしやすい性格を、さほど脅威とは思っていなかった。──こういうところが、精市から真っ先に『指令』を受ける要因なのだが、彼女はそこまではよくわかっていない。
ともかく、そんな莉子は、多感な中学二年生の男の子の涙については懸命にも深く追求せず、どしたの? と短く問いかける。
保健所に連れて行け、と即断した精市に言われてきたという莉子を信用するかどうか、赤也は少し迷った。
だが、どこか幼稚園の先生などを彷彿とさせる様子で明るくにこにこしている莉子がそんな鬼のようなことを言う様は想像がつかなかったし、何より他に頼れるものが何もなかったので、赤也はおずおずと横に場所をずれ、自分の後ろにあるダンボール箱を示した。
「……コイツら、見つけたんす」
「こいつら? ……あっ」
莉子が、ダンボールを覗きこむ。途端、そのぱっちりとした目が更に見開かれた。
「ポメラニアン! 可愛いーっ!!」
ふぁーっ、ちっちゃい! 五匹もいる! きゃー! と、いかにも女子らしく、そして語尾の全てにハートマークが飛んでいるような声で言った莉子に、赤也はほっとした。まさかこのリアクションのまま、「じゃあ保健所に連れて行こうか」とは言わないだろう。
「捨てられた、みたいで」
しゅん、とした様子で言った赤也に、莉子は、「ああ」と納得した声を上げた。
どうも感情の起伏が激しい子ではあるが、その分素直な子なのだろうなあ、と莉子は赤也に改めて好感を持った。こんなにかわいい仔犬が捨てられていれば放って置けなくなるのは普通だろうが、泣くほどというのはなかなかない。
しょんぼりとうなだれている赤也と、状況がわかっていないのだろう、元気にしっぽを振り、まるで笑っているように口を開けて舌を出している仔犬たちとの対比が微笑ましい笑いを誘い、莉子はニコッと笑みを浮かべた。
「それで、切原君はこの子たちをどうしたいの?」
「え?」
「ほら、あるでしょ。助けたい、とか。飼いたい、とか。優しい先輩に相談してみなさい?」
冗談めかして、しかし包容力を滲ませて笑う莉子に、俯いて鼻を啜っていた赤也は、少しずつ口を開き始めた。
「……そりゃ、助けてやりてえけど……俺にはどうすることもできねえっすよ」
「そっか、それで泣いちゃったのね。優しい所あるじゃん」
「だから、泣いてねえって!」
むきになって、しかしどこかばつが悪そうというか、照れくさそうにむくれる赤也に、かわいいなー、と思った莉子は、にっこりと笑った。
接するのは二度目だが、いかにも美形、美少年、という感じではないにしろ、顔立ちは整っているし、なんとも表情豊かで愛嬌のある少年である。莉子の中では、赤也は十分“イケメン”のカテゴリに入っていた。
猫のように大きめのつり目や、まだ少し幼さの残る輪郭。そのくせまさしく野良猫よろしくまずは威嚇からという態度も、いかにもやんちゃ、ツンデレといった感じだな、と莉子は評価する。──赤也を知る者からすれば、“やんちゃ”や“ツンデレ”などという可愛らしい言葉に口元をひくつかせるかもしれないが、莉子にとってはそうだった。
やんちゃだけど心優しい少年と仔犬、イイネ! といった満たされた気持ちで、莉子は自分の携帯で仔犬の写真を撮ると、続けて携帯をカチカチ弄る。
赤也は不思議そうに見ているが、一分ほどでそれは終わった。莉子は相変わらず流れるような動作で携帯電話をパタンと閉じ、それを足元に置いた。
「ほーら、お水だよー。喉渇いたでしょー?」
莉子は鞄の中から水筒を出して、コップにミネラルウォーターを注ぐ。
この蒸し暑さに、仔犬たちも喉が渇いていたのだろう。五つの毛玉はすぐに水に飛びつき、小さな尻尾を振りながら水分補給をしはじめた。
──ぴろぴろぴっ
──ぴろぴろぴっ
──ぴろぴろぴっ
ひっきりなしに鳴る、どこか間抜けな電子音。
地面に置かれた莉子の携帯電話からのそれに、赤也は怪訝な顔をする。仔犬たちが水を飲み終わる頃から、この音が数秒も間を開けずに鳴り響いているのだ。
メール魔やライン魔であるがゆえ、数分おきに携帯電話が鳴る人種というのは一定数いるが、莉子は着信があっても携帯を開かないし、仔犬をもふもふといじくり回しているだけだ。
しかし、不思議そう、そして不安そうに携帯電話を見る赤也の視線に、莉子はにっこりと笑うと、地面においたそれを開いて、画面を見せた。
──そこに表示されていたのは、【新着メール32件】の文字。
かなりの件数である。
しかしその画面も、すぐにまた【新着メール受信中……】の表示に切り替わった。
「これ、なんだと思う?」
「へっ?」
にこにこと微笑んだまま言う莉子に、赤也はぽかんとした顔を上げた。
「この子達の、里親希望者だよ」
「……マジで!?」
赤也は、素っ頓狂な声を上げた。
聞けば、先程莉子は、知りうる限りのアドレスに里親募集のメールを送ったらしい。ようやく状況を呑み込んだ赤也の表情が、ぱああっ、と明るくなった。
その表情に、うんうん、純真な少年の笑顔、悪くないね! と内心非常に満足しつつ、莉子もまた満面の笑みで大きく頷く。
「うん。この希望者の中から、最後まで飼ってくれそうな子に親になってもらえばいいんじゃない?」
こうしている間も、莉子の携帯電話はまだ鳴り続けている。彼女のアドレス帳には、一体どれほどの人数が登録されているのだろうかと、赤也は呆然とした。
「すげ……」
「何をするにも、友人って大事だよ。情報社会の現代じゃ、人脈が一番のライフラインなのさ!」
ニカッ! と、莉子は得意げに笑う。
だがそのドヤ顔に、赤也が呆れることはない。たかだか数分で解決策を実行し、しかもその候補を山と見つけてきた莉子に、赤也はすっかり彼女を見直し、これでもかと尊敬のこもった、キラキラした眼差しを向けていた。
そしてそんな目で見られてもちろん悪い気はせず、莉子はふふんと胸を張った。
「とりあえず、メールが落ち着くまでここにいるワケにもいかないし……」
そう言いつつ、莉子は脚に吸い寄せられてきた藪蚊を、ピシャリと叩いた。
「ウチに連れて行こうか。切原君も来る?」
「いいんすか?」
橋の上では電車が通る轟音が鳴り響いていたが、莉子が張り上げた高く明るい声は、赤也にもよく聞こえた。
そしてその声に負けないように、赤也もまた、部活で鍛えた声を張り上げる。
「勿論!」
にっこり笑った莉子に赤也も笑い返し、仔犬の入ったダンボール箱を、明るい気持ちで持ち上げた。
「本当にありがとうございました、莉子先輩!」
がばっ、と勢いよく、赤也はきっちり九十度腰を折って頭を下げた。
土手を離れてたかだか二時間、粗方の里親が決まってしまったのである。本当にあっという間に仔犬の命を救った莉子に、赤也はすっかり一目置き、従順な新兵のような目を向けていた。
「ど、どういたしまして」
テニス部仕込みの軍隊風の態度にか、それとも先日までの態度との落差のせいか、莉子が若干驚いて怯む。
赤也もその反応は予想の範囲だったのか、照れくさそうに笑った。そしてその表情に、莉子もまた、やっぱいい子じゃん、と満足気に笑う。
「赤也でいいっすよ!」
「了解、赤也君!」
「へへっ! ……あ、そういえば、こいつとこいつ、飼う事にしたんすよね?」
空調の効いた部屋に来たからか、新聞紙の上に更に清潔なタオルを敷いてもらったからか、それとも餌をもらったからか──、おそらく全てだろう、先程からかなり元気さを増した仔犬のうち、赤也はしっぽにピンクと赤のリボンを結ばれた二匹を示した。
「うん。お母さんがね、『こんなに可愛い子たち、手放せな〜い!』って言いだして……」
愛くるしい仔犬にメロメロになった莉子の母は、犬用のシャンプーやエサを買いに、先ほどすっ飛んで行ってしまっている。
「名前はどうするんすか?」
「あ! そうだ! 名前! お母さんが帰ってくる前に決めちゃわないと!」
赤也としては、なんてことのない質問のつもりだった。しかし莉子はハッとしたような顔をしたあと、深刻な顔で、珍しく焦り出す。
「うーん……、個人的にお菓子の名前は付けたくないんだよなぁー……、皆、つけてるし。簡単で可愛いやつ……。ポチはありきたり過ぎて……、うーん……」
真剣な表情で首をひねり、腕を組んでうんうん唸りながら名前の候補を挙げ始める莉子に、赤也は心配そうな視線を向けた。
「こういうのって、家族で相談して決めるんじゃないんすか?」
「……うちのお母さんね、ネーミングセンスが銀河級にぶっ飛んでるの」
「ぎ、銀河級?」
ごくり、と息を呑みこむ赤也に、莉子は苦い顔で、こくりと深く頷く。
「まず、何と言っても私の名前ね」
「え? 莉子先輩っすよね……? 良い名前だと思うっすけど」
「うん、最終的にお父さんが決めてくれたの」
良い名前、と言ってもらったことにありがとねとすかさず礼を言うことも忘れず、莉子は続けた。
「お母さんは、私に『シャルロアンヌちゃん』ってつける気満々だったんだって……」
「小嶋シャルロアンヌ……」
赤也は、呆然と復唱した。
最近、キラキラネーム、とも呼ばれるぶっ飛んだ名前が流行りというか、話題というか、社会現象とも言われているが、それにしてもすごいセンスである。キラキラというか、ギラギラ。まさに──
「それは、その、銀河級っすね」
赤也は、納得と驚きと呆然が入り混じった、曖昧な声でそうコメントした。
「私、純日本人だよ!? 黒目黒髪で名前はシャルロアンヌって! グレるよ流石に!」
同意を得られたためか、莉子はぺしんと床を叩いて訴えた。
「前に飼ってた出目金の金魚には、『ネオブラックフェザリオン』ってつけるし」
「ネオブラックフェザリオン!? 金魚に!?」
「私は『デメちゃん』って呼んでたけどね」
ないわあ、と莉子は顰め面で首を振った。赤也もまた、「それはねえっすねえ」と同意する。
ともかく、母の銀河級ネーミングセンスの被害を広めないためにも、莉子は、今のうちにこの子達にまともな名前を! と強く意気込んでいた。
「名前……、よし。名前は、真っ白なましろとオレンジのれんじ!」
白い毛並と、キャメル色の毛を持つ二匹の仔犬を見れば、由来は明らか。というより、見たままの名前である。
「オレンジ? 茶色じゃないっすか?」
「この毛色はオレンジって種類なんだよ」
「へー……」
しかし、銀河級のネーミングセンスを味わったあとでは、ごくまともで良い名前である、と赤也も感じて頷いた。
そして当の二匹の仔犬も、それが自分の名前だということを認識したのか、黒い目をきらきらと輝かせて、キャン! と良い返事をした。
「でもれんじって、柳先輩と同じ名前っすね」
「ハッ!」
不覚! とばかりに、莉子が思わず声を上げる。ミーハーたるもの、イケメンの名前を忘れるとは何事か。
莉子は慌てて他の名前を考案しようとしたが、すでに時は遅く。予想以上にお利口な二匹は、既に『ましろ』と『れんじ』という名前にしか反応しなくなっていた。
(柳君の前じゃ、絶対呼べないな……)
楽しそうに跳ねまわる仔犬を前に、莉子は罪悪感ともなんとも言えない感情に落ち込んだ。
彼の名前を知らないわけでもないのにわざわざ犬に同じ名前をつけたとあれば、いくら愛らしい仔犬であろうとも、あまり良い気はしない可能性はある。
なにせ、なんといっても犬なのである。莉子とて、今から「れんじ〜、餌だよー!」とか、「れんじー、ウンチしたいの?」などと言うのかと思うと、内心冷や汗が止まらない。
可及的速やかにあだ名的なものを考えよう、と莉子は決意した。
ここで「私が飼い犬に同じ名前をつけるほど柳君のこと好きとか思われたらどうしよう!」という思考が働かないあたりが、莉子がミーハーではあれども乙女度が若干足りていない証拠である。
「ただいまー! ロイヤルパーベティちゃんとキャミアンナリリィちゃん、連れてきてー!」
そして数分後、買い物を終えて帰ってきた莉子の母の銀河級の声に、何語だよ、というツッコミを揃って抱きつつ、二人は仔犬たちとともに玄関に向かった。
R.INDICUMのマイさんと、“お互いの作品を自分の文体でリメイク”にチャレンジ。大好きな『かっこいいもの、寄っといで!』の
14話をリメイクさせていただきました!(*´ω`*)
マイさんがリメイクしてくれた『花なり想ひ文』の第八章:心に私なき時は疑うことなし(四)は
こちら。