【The Shining】
ワイモブがヒーローのエステ受けに行く話
ちろちろりーんとメール着信音が鳴る。またメルマガかな、今ライビュで忙しいのにな。と思って、何気なく携帯電話を開いたのだ。文面を理解した瞬間、彼女は短縮コールで電話を掛けた。いつもなら気にならないコール音が、やけに長い。がちゃっと受話器がとられ、「はーいもしもし」という気の抜けた声が聞こえた。
「先生!? アンジェラの抽選当たった!!」
『え、ほんとうー? 美肌ケア? よかったじゃん』
「ゆるい!」
『あー、でもそれだったら僕が医療スタッフ枠で出勤する日だ。ちょうどいいねー、直接診断できるし。おっけーおっけー任せろー』
「だからゆるい!! うわーなに着ていけばいいんだろう!? タイガー&バーナビーもアンジェラもライアンもいるでしょ!?」
『お化粧はだめだよ』
「あい……」
ゆるい言葉とは一転、主治医は言い含めるようにそう言った。彼女はしょぼんと肩を縮める。その頬は、興奮とはまた別の赤さで彩られていた。頬だけではない。首、額、腕、太もも、ひょっとしたら見えないところまで。ステロイドと細胞液でてかてか光る傷口が、彼女の身体のあちこちにあった。
赤ん坊の頃から、アトピー性皮膚炎が一番の親友だった。実家を出て、このシュテルンビルトに来ても付き合い続けている病。子供の頃よりひどくなくなったけれど、過度なストレスや、疲労を感じたら、気付けば身体をかきむしっていた。薬を飲んで、塗り薬やワセリンをとにかく塗って、それでもなかなか落ち着かない。寝て起きたら下着に血が点在しているのは日常茶飯事である。
「はい、はい。わかった、またなにかあったら電話するから。あ、でも次の診察の方が近くない? そのときまた話すよー」
ぴっ。通話を切る。そのまま、くちゃくちゃのベッドに寝ころんだ。
(本当に、どうしよう。なに着ていけばいいんだろう。せめて髪は整えたいな。嬉しいのに、なんでこんなに悩んでるんだろうなあ)
目に入った腕の色を見て、ため息を吐く。年頃になっても化粧はできなかった。試しにBBクリームを塗っただけでものすごくかぶれたのだ。「化粧はマナー」とされる現代社会で、そのマナーができないとなると職種もいくらか限られる。それはいい、人前に出るのは向いてないから、黙々と作業をするような仕事の方が楽だ得意だ。だが、悩みはあった。おしゃれができないのだ。好きな服を着ても、頭からつま先までぴかぴかにするなんて夢のまた夢。そもそも、腕も足もごわごわのまだら模様になっているのだから、夏だって露出ができないのだ。いくら暑くったって長袖にパンツルックかマキシスカートである。同僚、クラスメートにぎょっとされるのはもう飽きた。気持ち悪いって視線を感じるのも、大丈夫? って過度に心配されるのも、正直言ってしんどいのだ。口に出したら角が立つ。こんなのだから休みに外に出ることもできない。
アスクレピオス系列の病院に通いだして、今の主治医にかかり始めてから、ちょっとだけ前向きになった。外に出ること、人に会うことを忌避している自分に気づいた。案外、周りの人が自分にピントを合わせていないことも知って、気が楽になった。その矢先にこれである。
ああーっ! 彼女は壁に貼ったワイルドタイガーのポスターを拝んだ。日系らしい彼に合わせて仏教式である。まあ真似事に過ぎないのだが、いただきますとかのテレビで見た挨拶を真似するのは結構好きだった。遠くにいる彼らが近く感じられるから。
ひとしきりじたばたしてから起き上がる。
「よし。美容院予約、コーデ研究、今回のイベントに合わせて発売されるグッズ費用! 貯金の残高は十分だ!!」
おれはやるぞー! うおー! ワイルドー!
腕を突き上げて、虎の物まねをした。大好きなワイルドタイガーが、旧スーツと新スーツで彼女を見ていた。
顔を隠すように伸ばしていた髪をばっさり切ってもらった。流行の前下がりボブである。毛先の巻き方もばっちり習った。「髪を切ると一気にイメージ変わりますよ」って、美容師のお姉さんはにっこり。彼女もにこにこ笑った。鏡に映る自分は前より華やかだった。ちょっと変わっただけなのに不思議である。
服は、頑張って店員さんとお話しながら選んだ。ふわふわした色は身体が膨張して見えるので、ネイビーやカーキ、ワインレッドなど濃い色にする。パステルカラーは小っちゃくて細い子によく似合うのだ。残念ながら彼女はそういうタイプではなかった。
アンジェラだったら似合うかもしれない。通り過ぎてきたレースやパステルカラーを見て、ぼんやり思った。ライアンと並んでも見劣りしないあのヒーローは、結構なモデル体型で、フルフェイスヘルメットから覗く口元の白さと腰回りだけで、とても痩せているのだとわかる。例の事故のときよりはふっくらしているようでなによりだ。顔は知らないけれど、ああいう服を着た彼女はきっと、妖精のようになるのだろう。そういうことを考えながら、彼女はネイビーのワンピースと、白いボレロと、黄色いパンプスを買った。気付いたらライアンカラーだった。あの配色が似合うのかな、と思うととても不思議である。今日はいろんなことが新鮮だ。不思議だ、不思議だと思い続けるのがなんだか楽しかった。メトロの中で荷物を抱きしめたら、身体が満たされるみたいだった。
「ハーイおはよう! 髪切ったね、いいねいいね! 似合ってるよ」
「どうもどうもー」
「それくらいだったら首筋かゆくてもまとめられる長さだからちょうどいいんじゃなーい? 薬の消費スピードどう?」
「えーと塗り薬が半分くらいで、飲み薬はあと一週間分」
「うんうん、わかった。ちゃんと処置してるみたいで安心だよ」
「サボりませんて」
「だってキミ、忙しいと食べるのすらおろそかにするじゃない。去年の夏ひどかったのはばっちり覚えてるぞー」
「ぎゃーやーめーてー」
「アハハ。うん、でも、最初の頃よりすごくよくなった。今回のアンジェラのイベント当たって本当によかったね。経過を見つつだけど、もしかしたら薬の量減らせるかもしれない」
「それ! それなの!! ステロイドってやっぱり強い薬だから、そんなにいっぱい使いたくないし……」
「わかるわかるー。こっちもそんなにたくさん出したくないよ」
二人して肩をすくめ、ぷくすっと笑った。
それが施術日の数日前のことである。精一杯のおしゃれをして、ガチガチの緊張状態に陥りつつ、なんとか彼女は会場となるアスクレピオスの病院へたどり着いた。すでにへとへとである。朝ごはんはサンドイッチとカフェオレしか食べられなかった。胸がいっぱい過ぎて全然お腹が空かなかったのだ。おはよー、と片手をあげる主治医の顔を見たら、一気に肩から力が抜けたけれど。やはり初めて使う路線や、地図アプリとにらめっこしながらの移動は負荷をかけたようだ。最初にヒーローたちと顔合わせと、今日はよろしくという挨拶をして、お姫様抱っこ組とケア組に分かれる。
私服!! タイガー私服!! 神よ!!
内心荒れ狂いすぎたせいで血圧が上がった。主治医がげらげら笑っていた。肌の調子、服薬状況、睡眠状態などを診てもらい、お昼を食べたあとに、当選者たちが順番に呼ばれていった。出された食事は栄養バランスばっちりで、腹持ちのいいものばかりだった。つるんと食べられるのに満腹感があって、ちょっぴりうとうとしてしまう。
「――さん、中へお入りください」
「へあっ、はい!」
バネ人形が飛び起きるようにして、彼女はソファから立ち上がった。ぴょん! と飛び跳ねたかもしれない。周りの人々がほほえましげにくすくすと忍び笑いを漏らした。へへへ、と彼女の顔、緊張もいくらか緩む。新品のパンプスをかつかつ鳴らすと、それだけで気分が上昇していった。
「よろしくお願いしますー」
「ハァイ、バーナビーです……えっ」
「こんにちは! あっ」
「いらっしゃーい、うおっ?」
リアクションでだいたいのことを察する。ぴしーんと彼女の笑顔が固まった。一番遠くにいたタイガーが、慌てたようにして駆け寄ってくる。
あっ、イケおじ。いいにおいがする。
脳みそは完全に現実逃避をしていた。
「お嬢ちゃん大丈夫か!? 痛くないか!?」
「皮膚の病気ですか?」
「アー、はい、アトピーです。痛くないです……」
あっ、アンジェラおっきい。見上げなきゃいけない。本当にユニセックスだな。声かわいい。
タイガーのあとについてきたアンジェラが首を傾けて、じっとこちらを見つめているのを、目元が露出していなくても感じた。彼女はきゅっと肩を縮めた。
「アトピー……ああ……。でも、本当に大丈夫ですか? すごく、その、真っ赤ですけど」
「大丈夫です……ありがとうございます、ありがとうございます」
もう完全に及び腰である。善意が痛い。来てごめんなさい……心配させてごめんなさい……と、いささか思考がパニックを起こし始めたときだった。ゆったり歩いて、にゅっと顔を現したライアンが、彼女を上から下まで見てから、こう言ったのだ。
「その服イケてんじゃん。髪も切ってきた? 気合入ってんな」
そのまま、にっと、いたずらげに彼は口の端を持ち上げた。とてもまぶしい、まるで雲の隙間から陽光が差し込んできたような心地に陥った。一瞬呆けたあと、じわっと目頭が熱くなる。止まれ、と念じたがダメだった。ぼたりと大粒の涙が落ちてくる。
「うっ、ひっ、ごめんなさ、うあー……」
三人がぎょっとしているのがわかった。彼女としても、人前で、大好きなヒーローの前で泣き出すというのはものすごく恥ずかしい。顔から火が出そうだ。見られたくなくて両手で顔を覆った。だが、ライアンは変わらなかった。のちの彼女は「コミュ力おばけかよ」と、思い出すたびに悶絶する。
「おいおい、泣くほど嬉しいって?」
「うれしーですー……うっうっ」
「ハハハ、素直だな。お、爪もきれいにしてあるじゃん。グリーンってことはオッサンファン?」
「今ライアンのファンにもなりました、んぐうう……クッソイケメン……内外共にイケメン……」
「そうでしょう、そうでしょう!」
バーナビーがンンッと咳ばらいをしたのが聞こえた。
「お前が言うのかよ」
「ぷ、ふふ」
「やっと笑ってくれましたね」
イケメンか? 口に出しそうになってものすごく耐えた。アンジェラの周りが光り輝いて見える。
それじゃあそろそろ能力施術へ、という流れになって、「ではいきます」という声とともに、彼女の全身が青い光に包まれる。光が散っていく頃には、見違えるほど肌の白くなった彼女がいた。真っ先に目のいく顔や手足の赤みが消えたこと、ライアンが口にした言葉で、彼女がどれだけ気合いを入れて自分たちに会いに来てくれたのかがじんわりと胸に染みていった。ふっとバーナビーの口許も緩む。先に口を開いたのはタイガーだ。
「おお! きれいになったじゃねーか、よかったよかった」
「好きです。いつまでも応援します」
「へへ、ありがとな」
「本当に、おきれいですよ」
「あーっありがとうございます! ありがとうございます!」
「お洋服もとても素敵です。似合ってます」
「頑張って選んだ甲斐がありました……!」
「誉め合戦かよ」
しかもタイガーのときだけガチトーン……というライアンの呟きは聞かなかったことにした。
人生で最も幸福な一日だった。日記に書いて、掲示板にも書き込んで、何回も何回も、記憶に焼き付けるように思い出す。ますます彼らのファンになった日だ。絶対に忘れない。
「一番はタイガーだけど、R&Aのこともすっごく好き!」
白い肌で、彼女は笑った。