No.029/相席、よろしいですか
「オレ、いつでもOKです!」
そう言って受付に申込用紙を提出したゴンは、後ろに立っている面々の方を振り向いた。
「だってさ」
「元気がいいボウヤだな」
能面のような顔をした片腕の選手、そして車椅子に乗った選手と杖をついた義手の選手もまた、ゴンのあとについて申込用紙に記入をした。
キルアはその様子をなんとなく見ていたが、ふと口を開き、言った。
「……なあ。シロノっていう子供の選手知ってるか? 俺みたいな銀髪で、女の」
「ああ……、知ってるよ。兄貴とかいう男と一緒に来てたガキだ」
能面が答えた。キルアは更に問う。
「強いの?」
「200階に上がってきてからは1試合しかしてないから、何とも言えないがね。ただ……」
能面、サダソは、シロノに関わる選手がことごとく闇討ちされている、という例の噂を話した。兄の方が犯人だという説が最も有力だったが、既にその兄が帰ってしまってからも闇討ちが続く為、階の低い選手が警戒しきっている、ということも。
「実力はまあ、弱いとは決して言えないと思うが……それとは別に、あのガキと戦いたいってヤツはあまりいないな」
「なんで?」
これには、ゴンが質問した。
「噛み付くんだよ」
そして、今度は車椅子の男が答える。話した所で自分には全く関係ない話題だからだろう、彼らの口は割と軽い。
「……は?」
「だから、対戦相手に絶対に噛み付くんだ。格闘センスが悪いってわけじゃない、むしろそこいらの奴よりは格段に良いと思う」
だが、何故か必ず対戦相手に噛み付いた挙げ句、最後には泥仕合とも言えないような、まるで子供か動物の喧嘩のような戦い方をするものだから、シロノと戦いたいという奴はあまりいないのだ、と車椅子の男、リールベルトが肩を竦めた。
思ってもみなかった話に、ゴンとキルアは顔を見合わせる。そして受付の係から部屋の鍵を渡された二人は、受付を後にした。
──一方、その頃。
ヒソカがシロノを連れてやってきたのは、路地の奥まった所にある、小さなレストランだった。
いかにも知る人ぞ知るといった風情のそこは、メンチに貰ったしおりの中にも載っていた店だ。しかし予約必須の上にどうも雰囲気が上品すぎて行き辛く今まで手つかずだったのだが、メンチのオススメであるなら味の保証はついている、とシロノはいくらか機嫌を直した。
「あのリストの中で、ここはボクも気になってね♥」
この間も来たんだけど、なかなか良いよ、とヒソカは笑みを浮かべ、シロノを片腕に抱き上げたまま、マホガニーの重厚なドアを開けた。
いらっしゃいませ、と迎える声も適度に低く、品がいい。テーブルや椅子も飴のように輝くマホガニー色で、重厚ながらも温かで落ち着く雰囲気が漂っていた。
店内には何組かの客がテーブルに着いて食事をしていたが、予約名を告げると、ギャルソンは空いているテーブルではなく、奥に続く廊下に彼らを促し、そして奥にある扉を開けた。
やや小さめの個室もまた、アンティークの調度品が置かれた、重厚で趣味の良い空間だった。ヒソカは、ギャルソンが引いた椅子に抱き上げていたシロノをお人形を座らせるようにしてそっと下ろし、静かにシロノの対面の椅子に腰掛けた。
行儀よく、と言われているので、シロノもあからさまに足をばたつかせたり、あっちこっちを触るようなことはしなかった。ただ、シロノには少し高いテーブルの端にちょんと両手の指先を乗せ、くるりと部屋の中を見回してみたりはしたが、ヒソカはそれについてはいつもの薄い笑みを浮かべているだけで、特に注意はしなかった。
──奇妙な部屋だった。
壁紙や調度品の趣味はとても良い。しかし二人がけのこぢんまりとしたテーブルの横、ヒソカとシロノを東西とするならば北側がドアなのだが、問題は反対の南側。そこには、ステンレス製の大きな台があり、そしてその上には、様々な調理器具が整然と並べられている。
「失礼いたします」
軽いノックのあと、先程ここへ案内したギャルソンと同じ格好をした者たちが、ぞろぞろと部屋の中に入ってきた。そして彼らの手にあるのは、ボウルやトレイに入った様々な食材だ。ギャルソンたちは曇り一つないステンレスの調理台の上にそれらをきっちりと並べると、一人一人、角度30度の素晴らしいお辞儀をして退室していった。
シロノはぽかんと口を開けて、調理台の上に並べられた食材たちを見た。多少形とも料理をするシロノには、それらがどれもこれも高級食材であることがわかる。トマトひとつとっても、色艶がそこいらの市場にあるものとは段違いだ。
シロノはごくりと喉を鳴らし、木のボウルに盛られた真っ赤なイチゴに、思わずそっと手を伸ばした。
「──めっ♥」
「いっだあ!?」
ビシィ! と凄まじい音を立てて、シロノのこめかみにヒソカのデコピンが炸裂した。デコピンといえど、僅かにオーラを込めたそれは、少なくともエアガンで撃たれるよりは痛い。シロノはこめかみを両手で押さえ、痛覚を切るのも忘れて、椅子の上でもんどりうった。
「行儀よく、って言ってるだろう?」
もちろんつまみ食いもダメ、と、ヒソカはにこにこと言う。シロノがこめかみを押さえたまま涙目で彼をじろりと睨んだその時、再びノックの音がした。
「ヤーッホー、久しぶりねーシロノちゃん」
「メンチさんだ!」
コックコートを纏って入ってきたのは、メンチだった。そしてなんと、彼女こそがこの店のオーナーであり、チーフシェフだという。
「んもー、いつ来るかいつ来るかって楽しみにしてたのに、なっかなか来ないんだから」
「……ゴメンなさい」
「ま、いいわ。腕振るっちゃうから、楽しんでってちょーだい」
どうも、ここは一流のシェフ──つまりメンチが目の前で料理を作ってくれる、という店であるらしい。味も一流だが、美しい料理が出来上がっていくのを目でも楽しめる──というのがウリなのだ、ということだった。
「でもさあ、せっかくこんなにいいモノなんだから、ヘンにいじくり回して食べるより、そのままガブっていったほうが良いと思うんだけど……あっ」
しまった、とシロノが思った時にはもう遅かった。店の、いや料理そのものの趣旨を根底から否定するその発言に、メンチの表情には笑顔と青筋が同時に浮かんでいる。
「ホホホホ、言ってくれるじゃないのチビちゃん?」
「あ、いやあの」
冷や汗をかきつつ狼狽えるシロノに、メンチは素晴らしい手際で小振りなトマトを切り分け、小皿に乗せた。ストン、とトマトが空気を切るようにして分かれるあたり、相当良い包丁を使っているらしい。
「オードブル代わりね。ほい、ドーゾ」
トマトが乗った小皿を、メンチは子供に差し出した。シロノはきょとんとしつつも、しかし瑞々しく美しい赤の中にとろりと崩れる黄緑を見て喉を鳴らすと、それを摘んで口に入れる。
「……おいしー」
やはりかなりいい品であったらしく、塩も振っていないはずのトマトは、素晴らしい味をしていた。嬉しそうな笑みを浮かべてぱくぱくとトマトを食べる子供にメンチは笑み、そして風を切る音すらさせずに包丁を構えた。
「──観てなさい」
メンチから、オーラが立ち上った。
彼女の両手に持った包丁が、目にも留まらぬ凄まじい早さで食材を調理していく。そしてあっという間に、彼女の前に、2皿のスープが出来上がった。
「さ、召し上がれ」
差し出されたスープは、宝石のようなあのトマトの赤さを持ってはいたが、完全にペーストされており、原型は全くもって留めていなかった。シロノはどこかがっかりした気持ちでスープスプーンを手に取ると、赤い液体を掬って口に運ぶ。途端、その目が見開かれた。
「どーお?」
目を真ん丸にしたシロノに、にやり、とメンチは笑いかける。
そのスープは、先程口にした果肉の味を、全くもって損なってはいなかった。むしろ──
「わかった? これが“素材の味を生かす”ってコトよ」
メンチは次の料理のための食材を並べ替えながら、シロノに言う。
「そして料理人の仕事は、そこから更にプラスアルファの要素をいかに加えることができるか、っていう所。しかもその上限はない、だからこそやり甲斐があるわ」
「すごーい……」
シロノはそう呟き、そして感嘆しながらも、夢中でスープを飲んだ。そして皿の中が空になったとき、一滴も無駄にすまいとしたからだろうか、シロノの口の周りは、全く汚れてはいなかった。
そしてその後、目の前で調理されて出てくる魚料理や肉料理に、シロノは夢中になった。しかし、今までのように所構わずがっつく、ということは殆どしなかった。そしてその理由は、食べるだけでなく、メンチの調理風景を見ることにも夢中になっていたからだった。
「うわーあ……」
始終、シロノはこんな風に感嘆の声を漏らしていた。
一つ星を受けた美食ハンターであり、料理人としても超一流であるメンチの手際は、素晴らしいものだった。素早く、しかし素材を的確に扱い、絶妙の具合で手を加えてゆく。そして出来上がった料理はいっそ芸術的と言っていいほどに美しく盛りつけられ、目の前に出されてくる。
いま目の前にあるのは、とある運河でしか生息していないという魚のムニエルだ。独特の骨格をしているため普通の魚のように下ろせないというそれは、メンチの手によって複雑に切れ目を入れられ、白く美しい魚肉を晒している。まるでパズルが開くような具合で開かれた魚は料理というよりも作品と言った方が相応しく、そこにナイフを入れる行為を凄まじい贅沢だと思わせた。
シロノはフィッシュナイフを手に取ると、そっとその白身に差し込んだ。そしてふわふわの魚肉をもう一方のフォークで丁寧に掬い、丁重に口の中に入れる。すぐにもう一口、という欲求が沸き上がるが、あのソースに上手に絡めて食べるのが最高の食べ方なのだとその舌でもって知ってしまっているシロノには、料理を乱暴に扱うことなどとてもできない。
丁寧に、そしてどこまでも真剣に、夢中で料理を食べているシロノを見て、メンチはとても満足そうな笑みを浮かべた。
「やればできるじゃないか、シロノ♥」
皿がまた一つ下げられた時、ヒソカが言った。シロノは彼が食べ終わった皿をふと見るが、それは、最大限の努力でもって綺麗に食べたシロノの皿よりも、遥かに美しかった。一目見て解すのが難しいのがわかる魚の骨は、まるで最初からそうだったかのように、慎ましやかに端に寄せられている。かけられていたソースは、テーブルクロス、いや皿の美しい飾り柄にすら一切飛んではいない。それは彼が的確な所にナイフを入れ、そして巧みにフォークを使って、完全に皿の中でのみ食事を行なったからだ。
そしてギャルソンが入れ替わり立ち替わりやって来て、最後のデザートの為の準備が整うと、メンチは今までよりも更に慎重で繊細な手つきで、調理を開始した。
「──ボクはね、“食べ方”についてはちょっとうるさいんだ♣」
メンチの手元を食い入るように見つめるシロノをちらりと見てから、ヒソカは自分もまた調理風景を眺めつつ、言った。
調理台の上では、様々なフルーツが次々と切り分けられている。果汁をたっぷり含んだ色とりどりの果肉が、照明の光を反射して、宝石もかくやというほどに輝いていた。
「青い果実たち、それが実る時、ボクは決して乱暴にかじり付いたりはしない♦」
ヒソカは自分の顔に手を遣った。先が細く長い彼の指は広げられ、薬指は彼の目尻に、一番広く広げられた小指は、やや吊り上がった薄い唇にかかっていた。そのまま彼が僅かに首を傾げると、染めているのか地なのかわからない、しかし見事な金髪がさらりと流れる。
「果実が実るには時間がかかるしじれったいけれど、食べ頃まで実ったときの気分といったら、表現できないほどだね……。そして果実が熟す過程を見守るのも、また一興♥」
薄い唇が、更に吊り上がる。わざと荒く作った生地に、長い時間をかけて作られたシロップが打ち込まれ、生地の中にしっとりと消えてゆく。
「美しく赤く染まってゆく様、どんどん薫り高くなる芳香……♦」
薄く伸ばしたチョコレートが魔法のような手際で波打ち、薔薇の形に重ねられてゆく。ホワイト、ミルク、ブラック、数種類の味と色の薔薇が、グラデーションになるように積み上げられる。そしてボウルの中のヘラがその上を踊ったかと思うと、きらきらとした輝きがそこに落ちた。まるで魔法のような光景に、シロノはうっとりと魅入る。
そして出来上がったのは、しっとりとシロップを含ませた土台の上に瑞々しいフルーツをカットして乗せ、そしてチョコレートでこれ以上なく精巧に作られた薔薇を飾った、至高のようなケーキだった。透明な飴の糸と雫が朝露のようにきらきらと輝き、尚一層素晴らしい効果を生み出している。
「そして、果実がほんとうに実った時──」
ヒソカが、まるで婦人の手を取るような恭しい動作で、デザートナイフを手に取った。
「そこに初めてナイフを入れる、その快感……♥」
ざくり、と、ヒソカは躊躇いなく、チョコレート色の薔薇を銀のフォークで無惨に崩した。漂うオーラが、彼が快感を感じていることを嫌でも知らせている。
「ひと思いに崩してしまうのも良いし、ゆっくりと皮を剥き、果肉を小さく切り刻むのもいい♦ 果実が実る間、ボクはどうやってあのコたちを素敵に食べてやろうかと、とても楽しく夢想する♥」
「……とんだ変態だわね」
「クク♣」
呆れた声で言うメンチに笑みだけを返し、ヒソカは崩れた薔薇が乗った宝石のような果実を、滑らかな所作で口の中に入れた。口の中でふんわりと溶けるチョコレートと、最高級のフルーツの酸味が極上の調和を奏でる。ヒソカは恍惚にも似た表情で、ぺろり、と妙に長い舌で唇を舐めた。
「シロノ、キミはどう思う……?」
問われて、熱に浮かされたようにしてぼんやりとケーキを見つめていたシロノは、そっと小さなフォークを手に取った。そして磨き抜かれた先端を、薄く繊細な花びらに近づける。
そしてシロノは、その透明な目を逸らさずに、さくりとフォークを美しい薔薇に差し入れた。
──ぞくり。
その瞬間、シロノの背筋に、今まで経験したことのない震えが走った。
崩れた薔薇をじっと見つめたまま動かないシロノを見遣り、奇術師が笑みを深くする。その笑みは、今まで自分一人しか愛好していなかった趣味の仲間を見つけた時のような、とても楽しげな笑み。
ヒソカは出会ったときからシロノを将来有望な資質を持った子供だと評価していたが、しかし、青い果実という感覚とは違っていた。
それは今まで一度もなかった感覚で、見たことのないものが現れようとしている、という、果実に出会ったときとはまた別のわくわくしたものを呼び起こした。だからこそシロノが死んだとき、その正体がが何だったのか永遠にわからなくなってしまったのかとがっかりしたものだが、いま、ヒソカはこの子供が自分にとって何なのか、はっきりと理解していた。
例えるならば、ヒソカはずっと、ひとりでテーブルに着いていた、そんな風に思う。
なぜと言って、彼の目に映るのは沢山の、そして玉石混淆の果実たちではあったけれど、自分と同じように果実を食べようと探している人間はいなかったからだ。
ときどきお仲間かと思う人物に出会うことはあるけれど、結局彼らはヒソカの楽しみかたやこだわりを理解することなく、結局は「不味い果実」としてヒソカに食べられてしまう。そしてまずい果実を食べるはめになってしまったヒソカは、また一人、次こそはおいしい果実に出会いたいと思いながら、つまらなそうにテーブルの上の空っぽの皿をつつくのだ。
「おいしい……」
だが今、彼のテーブルに、初めて同席者がやって来た。その同席者は、どの果実がどうおいしいのか、とてもよく理解している。まだ幼くてテーブルマナーもなってはいないけれど、ヒソカも抱くその気持ちをよく理解しているのなら、上手に食べられるようになる日も、そう遠くはないだろう。それに、ダメなところはこうして教えていってやればいいのだ。このテーブルに先に着いていた、“先輩”として。
「──わかってくれて嬉しいよ、シロノ♥」
ひとりきりのテーブルも、別に寂しかったわけではない。しかしテーブルに登る味の善し悪しを語り合うことの出来る同士が居るのも決して悪い気分ではない、と、うっとりと、そして嬉しそうにケーキを食べる“後輩”に、ヒソカは深い笑みを浮かべた。
Annotate:
後輩の面倒を見る奇術師。