No.006/子育て命令
 ──誰かの気配がする。

 枕元だ、とクロロは確信したが、身体が、というよりも、身体を動かそうとする脳の司令のほうがうまくいかない。
 まさか眠くて身体を動かせないという事もないだろうに、身体の自由が利かなかった。体が締め付けられるような感覚がする。

(……金縛り、というやつか?)
 就寝中、意識がはっきりしていながら体を動かすことができない症状、医学的には『睡眠麻痺』と呼ばれる、睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態の俗称だ。不規則な生活、寝不足、過労、時差ボケやストレスなどから起こる症状だが、クロロはそんなことが身体に出るほど柔ではない。

(おかしいな)
「冷静ねえ」
 枕元から、声がした。頭を全く動かせないので確認できないが、女の声だった。
「普通さ、狼狽えない? こういうときって」
「……」
「金縛りで、枕元に気配、女の声って、結構ホラーだと思うんだけど」
「……」
「ちょっと、何か言ったらどうなの。口は動くでしょ」
「……睡眠麻痺は脳がしっかり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合が」
「……ホント、冷静」
 呆れたような口調だった。

 そしてクロロは、女の気配の他に、もうひとつの気配がある事に気付く。
 自分の傍らで安らかに寝息をたてているのは、小さな子供だった。先ほど、彼のコートを掴んだまま寝てしまったシロノをやはり猫のようにぶら下げて、クロロはこのアジトでの自分の自室、つまり緋の目のホルマリン漬けを作ったこの部屋に連れてきた。小さいので、ベッドの端に置いてもたいして邪魔にはならない。
 ノブナガの「寝小便とかされるなよ」という言葉が若干気になってはいたが、その心配はなかったようだ。
「大丈夫よ、この子、トイレトレーニングはきっちりしてるから」
「……思考が読めるのか?」
「多少ね」
 笑ったような気がした。
「ハジメマシテ、クロロ=ルシルフルさん」
 やはり名前を知っている。クロロはファミリーネームまで名乗ってはいない。

「色々聞きたいことがあるんだがな」
「ドウゾ」
「なぜ俺の……いや、俺たちの名前を知っている?」
「あんたたちだけじゃなくて、未来に団員になる子の名前も分かるわよ」
 クロロは頭を動かそうとしたが、やはり無駄だった。
 少しの間試行錯誤して、彼はこれから取れるいくつかの案を諦めた。女に殺気が全くなかったせいもある。

「おまえは」
「何?」
「予言者か?」
「まあそんなものよ。全部じゃないけど、色々わかるわ。……例えば、」
 女は少し迷うような気配を見せて言葉を切ったが、結局言った。
「……今回クルタ族を皆殺しにしていたら」

 ──五年後、二人の団員が死に、あなたは力を全て奪われる。

「とかね」
「……俺たちに恩を売るつもりか?」
「べつに? 信じるか信じないかもそっち次第だしね」
 ほんの僅かに髪がサラリと揺れる音がして、クロロは女が長い髪をしていることを知った。

「そろそろ夜明け」
「待て、まだ聞きたい事が」
「アタシの言いたい事は二つよ」
 ぺた、と、コンクリートの床の上で、裸足の足が一歩踏み出す音。

「アタシはこの子を守りたい。だから、この子を守ってくれた人にはお礼をしようと思ってる。できるだけね」
「……では今回の事は、最低限の面倒を見てくれたクルタに対する礼だと?」
「うん、まあそうなるかな。それに、こんな事して五年後あんたたちがどうなるか、ちょっと興味が湧いたのもあるわ」
 クロロが口を開く前に、いきなり、ざらり、とクロロの顔に髪の先が落ちてきた。
 長い髪は赤く、その奥から、ぎょろりとした目がクロロを見ている。

 どんどん近付いてくる顔。クロロは女の顔立ちがわからないものかと目を凝らしたが、何故か女の目の色すら確認、いや認識することが出来ない。

「これが一番重要」

 睫毛が絡まりそうなほど目と目が間近になったとき、女は言った。
 生暖かい吐息が、クロロの額にかかる。

「またこの子に手を上げたら、ぶち殺してやるから」



 クロロが起きて最初に見たのは、丸まってすうすう眠っている子供の寝顔だった。
 自分よりずっと前に寝たくせにまだ寝入っているのか、子供はこのくらい寝るのが普通なのだろうか、自分はどうだったろうか。
(そういえば、寝る子は育つとかいう諺が……)
 クロロは昨日拾った、この見慣れない生き物を観察した。

 どこもかしこも小さい子供は、まるで作り物のようだった。特に手の小ささは目を引いて、精巧なミニチュアのように思えた。小指の爪など、しげしげと眺めていてもなかなか飽きない。
(しかし、寝ているときまで“絶”か。筋金入りだな)
 安らかに寝入っている風に見えるシロノだが、そのオーラはやはり断たれていて、存在感がとても薄い。

(……“ママ”か)
 パクノダの能力でも分からなかったという事は、シロノ自身、“ママ”の正体を正確に把握していない、という事だ。だがクロロはその存在の正体に、まったくもって予想がつかないわけではなかった。ただ、少々突拍子もない予想な上に、彼はその分野を全くもって信じていない。……今までは。

 ──夢、だと思う。

 クロロは正直、今さっきの体験に対し、半信半疑でいた。
 睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるが、レム睡眠の時に夢を見る。そして金縛りが起こるのはこのレム睡眠の時で、それとともに体験したといういわゆる心霊体験の正体は、金縛り、つまり睡眠麻痺という症状が起こす幻覚等の作用なのだ。
 それに、ここでもし枕元の床が濡れているとか、血痕が残っているとか誰かの髪が落ちていた等していても、クロロは侵入者の可能性のほうを追求する人間だ。
 その矢先の、本人の訪問だった。

(……調べてみるか)
 白に近い銀髪をしているシロノに対し、あの“ママ”は真っ赤な髪をしていたな、とクロロは思い返した。赤というよりは朱、夕焼けのような濃い色だった。染めているのかどうかはわからないが。

 しばらく子供を眺めながら考えていたが、ふとあの透明な目が見たくなったので、クロロは子供を起こす事にした。
「おい、起きろ」
「……うー」
 ぴたぴたと指の背で頬を叩くと、子供はくしゃりと顔を顰め、ゆっくりと目を開けた。
 クロロご所望のその目は、白に近い灰色だというだけなのだが、白っぽい双眸はアカズのもののようだ。しかし視力に特に問題はないということは明らかだし、何より濁ったような眼球をしているアカズと違って、やはりシロノの目は少しぎょっとするほど透明度が高く、クリスタルのように見える。

 やがて覚醒したシロノは、猫のような欠伸をしてから、「おはよう、パパ」とまだ少しふにゃふにゃした声で言った。
「あさ?」
「昼近いな。起きろ」
「んー」
 んー、と言うのはどうも癖らしい。

「団長? あらシロノ、起きたの……」
 ノックをして入ってきたのは、ジャケットを着ていないパクノダだった。しかし彼女は、ベッドの上にいる二人を見るや否や、目を丸くするとほぼ同時に吹き出した。
「何笑ってる、パク」
「だって」
 パクノダは、堪えきれない、という感じでくすくす笑い続けている。

「二人とも、同じ所に寝癖がついてるんだもの」

 シロノの髪は真っ白のような銀髪で、クロロの髪は真っ黒だ。しかし髪をおろしたクロロはシロノの髪型と似通っていて、しかも今は、右側の同じ所が同じように跳ねている。
「そうしてると本当に親子みたいよ、団長」
「……俺はまだ二十一なんだが」
 クロロは片眉を下げて、複雑そうな顔をした。

シロノ、おはよう」
「おはようございます、パクノダお姉さん」
「礼儀正しいわね。パクでいいわよ」
「パクお姉さん」
「……まだちょっと長いわね」
「パク姉」
 どうしても「姉」をつけるらしい。大人だから、お姉さんだから、という事なのだろうか。
 呼ばれ慣れない呼称だが、まあいいわ、とパクノダは目を擦っているシロノを見遣った。
「顔を洗ってらっしゃい。洗面所とお手洗いはドアを出て右ね」
「あい」
 シロノは素直に返事をすると、その背丈では登るのも降りるのも一苦労なベッドを何とか降りた。そして自分の頭の位置くらいにノブがあるドアを両手で開け、パクノダが指差した方向へトコトコ歩いていく。
「団長も洗ってくれば? 寝癖直したほうがいいわよ」
「母親みたいだなパク」
 さっき父親呼ばわりされた報復なのだろうか、口答えをしたクロロを、「私、こんなでっかくて始末に負えない息子を持った覚えはないわよ」とやり返した。



 マチは、何故かレンガを一つずつ持って運んでいる、寝癖のついた頭の子供を見た。
 子供はマチに気付くと、わざわざゴトンとレンガを置いて、マチに向かって頭を下げる。
「おはようございます、マチお姉さん」
「……おはよ。何してんの」
「んーとね、届かないから」
 洗面所の方向を指差したシロノに、ああ、とマチは納得したように頷いた。シロノの背丈には、洗面台が高すぎるのだ。
「箱を使ったけど、乗ったらつぶれた」とシロノは言い、もう一度レンガを抱えた。廊下の突き当たりに積んであるレンガを持ってきたのだろう。

「アンタ、一個しか持てないの?」
 マチの問いに、こくり、とシロノは頷く。
 一つずつ運ぶなど、非効率もいい所だ。どうやら複雑な能力は使えても、念による基本的な身体強化ができないらしい。順番がちぐはぐもいいところだ、とマチは呆れた。
「いいよ、やったげる。それじゃ顔を洗うだけで夕方になるよ」
「ありがとうございます、マチお姉さん」
 ぺこり、とシロノは寝癖のついた頭をもう一度下げた。
 敬語は使わない、いや使えないが、こうした挨拶だけは何故かやたら丁寧な子供に、マチは思わず苦笑した。



「あ」
 マチの作った階段状のレンガ台のおかげで無事顔を洗って寝癖を直したシロノは、彼女とともに下に降りてきた途端、そう声を上げた。
「フィンクスお兄さん」
「ブッ」
 本人だけでなく、向こうに座って茶を飲んでいたノブナガも吹き出した。
 だがシロノはそれに構わず、小走りにフィンクスの側へ駆け寄っていく。

「おはようございます、フィンクスお兄さん」
「……呼び捨てでいい」
「何、テレてんのフィンクス」
「テレてねー!」
 けたけた笑いながら茶化すシャルナークに、フィンクスはがっと怒鳴った。

「あのねフィンクス」
「あ? 何だ?」
「昨日、ぶってごめんなさい」
「……は?」
 フィンクスは意味が分からず、思わず間の抜けた声を出した。

 そして記憶を辿り、あの“ままごと”の途中、“犬”であったフィンクスをシロノが「えい」と言いながらぺちんと叩いたことを思い出す。
 まさか、あれをわざわざ謝りにきたのか? と信じられない気持ちで子供を見るが、心当たりはそれしかない。
 フィンクスとしては、そんな事よりもむしろ“犬”の役──しかも団長によればマルチーズ──を振られた事のほうが色々とショックだったのだが、それに関してもこの子供に責任はない。全ては無駄なほど有り余るクロロの好奇心が原因であり、つまり誰を責めようもない事である。
 しかし、この子供のどこか間の抜けた謝罪を聞いたら、居心地の悪いマルチーズの呪いが何だか和らいだような気がした。

「あー……。……あんなもん、叩いたうちにも入らねーだろ」
「んー、うん」
 気が済んだのかはわからないが、シロノは曖昧な返事を返した。

 しばらく居場所を探すようにうろうろしていたシロノだが、いくらかすると、パクノダがサンドイッチと牛乳のパックを持ってきた。そういえば、あの子供は夕べから何も食べていない。
 シロノは昨日座っていた木箱にまた座り、おとなしくサンドイッチをかじり始める。

 リスかハムスターよろしく両手で持ってそれをかじっているシロノを見て、「……変なガキ」、と、フィンクスはぼそりと呟いた。



 
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 シロノがサンドイッチを食べ終わった頃、降りてきたクロロは皆を集めた。

「……それで、団長。この──シロノを本当に蜘蛛に入れるのか?」
 フランクリンが尋ねると、クロロは、にっと僅かに笑った。
「ああ」
「……ちょっと、本気? この子能力は使えるけど、“念”が何かも分かってないよ?」
 マチが言った。レンガもようよう運べない子供を見て、彼女は「アンタ、念使えるくせに“纏”は全然な訳?」と聞いたのだが、なんとシロノは「ネンってなに?」と返してきたのである。
 きょとんと濡れた顔を向けるシロノに、マチは呆気にとられるほかなかった。

「ハァ? マジかよ、話になんねー」
 そのエピソードを聞いたノブナガが、呆れたような声を上げる。
シロノはガキの頃の俺と同じく、物心つく前から自然に精孔が開いていたというタイプだ」
 クロロが言った。
「でも団長は重いモン持ったり速く走ったり……基本の四大行はだいたい出来てただろ? こいつ、普段の“纏”すらちゃんとできてねーじゃねーか」
「それは俺の能力が特質系で、しかも他の念能力者がいてこそのものだからだ」
 他と違って、特質系は自分の能力を把握するのにかなりの個人差がある上、クロロの能力である『盗賊の心得スキルハンター』は、念能力を持つ他者がいて初めて意味を為す。
 だから彼の普段の訓練は、必然的に四大行とその応用になっていた。それに念というものの存在を正しく把握し、より使いこなす為に自主的な努力をしているかいないかという点では全く違う、と本人が言う。

「……じゃ、コイツの場合は」
「あれは自分の身体能力が低くても、条件をクリアすればほぼ完璧に身を守れる能力だ。まともな師匠がいないまま、ガキが一人で生きていく上で発動し、自然にああなったんだろう。そして身を隠す為の“絶”と、あの能力に必須な“円”だけが発達した。基本をすっ飛ばしてな」
 そのせいで、シロノは“発”を行なう他は常に“絶”の状態だった。
 今現在もシロノは“絶”状態で、普通の子供よりオーラが見えない。ゼロか百かということだな、とクロロは説明する。

「でも、それなら尚更だろ。そんな使い勝手の悪い……」
「最後まで聞け。ナンバー付きの正団員にするとは言ってない」
「は?」
 不思議そうな顔をした全員に、クロロは言った。
「確かにこいつは酷くアンバランスで不完全だ。しかし能力は興味深い」
「つまり?」
「使えるようになるまで鍛える」
 これ以上なくシンプルな答えだったが、最も意外な答えでもあった。

 なぜなら、彼らは悪魔も逃げ出す最凶の盗賊団、幻影旅団である。
 一に強奪二に略奪、三四で殺戮五に虐殺という十二本脚の蜘蛛が、なにかをわざわざ“育てて”使う、ということは──あらゆる意味でありえない行為だったからだ。

「本気かよ団長、子育てするってか!?」
「俺がするんじゃない」
 何を言っているんだ、という口調のクロロに、全員が嫌な予感を抱いた。彼との長い付き合いから学んだ勘が、そう言っている。

「俺とお前たちと、全員で鍛える」

 廃墟が廃墟らしく、シンと静まり返った。
 面白いほど当たった予想結果に、誰かは片手で顔を覆って俯き、誰かは犯罪者らしからぬ動作で天を仰ぎ、または盛大にため息を吐き、あるいは諦めたような目をした。

「何か、質問は?」
「……マチ、お前の勘は?」
 ノブナガがちらりと彼女を見遣って聞くと、マチは「何も」と言った。
「この子も“ママ”とやらも、別に害になる存在じゃない、と思う」
 昨夜の“ママ”本人の訪問が現実であるならば、マチの勘は当たりだ。
 クロロはそのことを皆に話すかどうか迷っていたが、今回は保留にする事にした。まず確証がひとつもないし、他人の夢の話ほどつまらないものはない。

「……そーかい。……で、団長」
「なんだ」
「この子育て計画は、団長命令か?」
「団長命令だ」
 小さく手を上げて気だるげに質問してきたノブナガに、クロロはさっくりと答える。
 どこかから、心底面倒くさそうな呻き声が漏れた。

「では以上、そういうことだ。……シロノ、わかったか?」
「んーと……」
 クロロに確認を取られたシロノは、やはりこれも癖なのか、彼を見上げたまま、くりっと首を傾げる。
「ここの子になって、おしごと手伝う?」
「……まあ、そんなところだ。仕事のやり方は俺たちが教えてやる。いいな?」
「あい」
 こくり、と、子供は素直に頷いた。
 本当に分かってんのか、と、全員の心に微妙な不安が走る。

「やれやれ。準団員……いや、候補生という感じか」
 まさかそんな形で蜘蛛に新入りを入れることになるとは、と、フランクリンが頭を掻いた。口には出さないが、全員が同じ気持ちだろう。だがクロロは一度決めたら、完全に飽きるまで誰にも止められはしない。

 しかしこの子供は、緋の目を諦めるのと引き換えに手に入れた、つまり獲物だ。
 クロロは獲物をひとしきり愛で、そしていつか飽きるとあっさりと売り払う。この子供に対してもおそらく例外なくそうなのだろう、と彼らは考え、自分たちの団長に付き合う腹を決めた。

 こうして、この透明な目を持つ子供は、幻影旅団に身を置くことになったのだった。
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BY 餡子郎
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