ホグワーツ特急にて
 ヨーロッパの建造物は、歴史の積み重ねだとつくづくそう思う。
 歴史的建造物をそのまま現代に残し、維持させる技術は、すばらしいものだ。隣で放心する紫乃の横顔を眺めながら、手塚もまた感嘆の溜息を洩らしていた。
 入学準備のため、必要な教材を揃えにダイアゴン横町へと訪れた際もそうだったが、このプラット・ホームもまた、荘厳かつ壮麗で、歴史を感じさせる。

 キングス・クロス駅。ホグワーツへ向かう子供たちは、例外なくこの駅から発車するホグワーツ特急に乗車するのだという。
 ロンドン・ヒースロー空港から地下鉄ピカデリーサーカス線を利用し、キングス・クロス&セント・パクラス駅までは、乗り換えなしの一本線だった。表示を見ながら、なんとかキングス・クロス駅へと辿り着く。ダイアゴン横町での反省を踏まえ、紫乃とはぐれまいと手を繋いだが────駅構内は、人が疎らだった。
 時間は10時。発車する一時間も前に来る人間はいないようだが、用心しておくに越したことはない。

 なんせ────

「9と3/4番線……」
「どこなのかな……」

 9と3/4番線より発車する特急列車なんて、想像もつかない指示が待っていたのだから。

「……わからないな」
「……うん」

 前回の買い物で、魔法界での出来事に対しては、「これがもう当たり前なのだ」と無理やりにでも思いこむようにしていた。あまりにも驚きの連続で、いくら常から冷静沈着な手塚といえども、許容量を越えてしまっていたからだ。
 しかし、当たり前だと思い込もうとしても、これはなんでも────。

「存在する、のか……こんな路線が」

 分数の路線だなんて、常識では考えられない。  ありえない。だが、ありえないことがありえるのが魔法界の常なのだろう。身を持って知っている手塚は、油断せずに行こうと言い聞かせた。

「とりあえず、ここが9番線だよね」
「ああ。そして、隣が10番線だ」

 ホームに立ちつくす二人は、それぞれ大荷物をカートに積んでいる。
 唯一、違うのは、手塚のカートに載せられた、圧倒的な存在感を誇る鳥かご。中にいるのは、黄金色の瞳に美しい羽のオジロワシ。魔法動物ペットショップで、なぜか手塚に懐いたこの鳥。人間の言葉が理解できるのか、手塚の言うことはきちんと利く、利口なワシだ。いまも大人しく羽を休めている。
 地下鉄内と比べて、さほど注目を集めなくなったとはいえ────なんせこの大荷物に、鳥かごだ────それでも、先ほどからチラチラと視線を感じる。
 どうにかして、目的の9と3/4番線を見つけられないものだろうか────途方に暮れていた時だった。

「もしかして君たち、ホグワーツに行くのかい?」




「助かった。あのまま列車に乗れずに立ちつくしていたかもしれない。ありがとう、不二」
「ありがとう、不二くん」
「そんな大したことじゃないよ、二人とも」

 手塚と紫乃に声をかけ、9と3/4番線まで連れてきてくれた目の前の彼────名を不二周助という────は、にこにことサンドイッチを頬張っていた。

 構内から場所を移して、ホグワーツ特急車内。
 まさか9と3/4番線が、9番線と10番線の間の柵を通り抜けたその先にあるとは、誰も思わないだろう。
 つい数分前の出来事に、やはり魔法界では一瞬足りとて油断できないなと、気を引き締め直した。

「お礼にこんなたくさんのお菓子をもらっちゃったしね」
「ううん、そのくらい困ってたから……」
「ふふ、なら声をかけてよかったよ。違ったらどうしようかと思ってたんだ」

 腕を組み、安堵の溜息を洩らしていると、和やかに会話する不二と紫乃
 珍しいこともある、と手塚はいささか驚いていた。というのも、どうにも紫乃は男子からいじめられやすく、小学校ではからかわれたり、追いかけ回されたりして、泣かされることばかりだった。もちろん、手塚がそれを許すはずもなく、紫乃を泣かせた男子を撃退してきたのは、語るまでもない。
 そんな紫乃だから、男子相手の会話が極端に苦手なのだ。しかし、彼はそうではないらしい。

紫乃ちゃんって呼んでもいいかな?」
「うん、いいよ。じゃあ、周ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろん」

 亜麻色の髪に、同色の瞳。まるで物語の世界から飛び出して来た王子様のような、美しい容貌。紫乃のいじめっ子たちは、不二の容姿とかけ離れている。それに、言葉づかいも粗野ではなく、柔らかなそれだ。何もかもが王子様のような彼だからこそ、安心したのだろうか。
 なにはともあれ、異性の友人が出来たようでなによりだ。不二としても、彼のような少年と交友関係を深められるのは嬉しいことだった。

「ほら、手塚。これも美味しいよ」
「なんだ、それは」

 一見するとゼリー・ビーンズのような、色とりどりのそれ。お礼にと車内販売で購入した、数々のお菓子の内のひとつなのだが、不二はさきほどからそればかりを口にしている。よほど好きらしい。
 ポカンとしている手塚の隣では、紫乃がジュースを飲んでいた。かぼちゃジュースというらしい。美味しそうだった。

「百味ビーンズっていう色んな味のするお菓子だよ。どの味に当たるかは運次第だけど、僕はどの味かわかるんだ。これはきっと激辛ハバネロ味だろうね」
「……食べるのか」
「きっと美味しいよ、オススメ。どう、手塚?」
「…………遠慮しておく」
「じゃあ、胡椒キャンディは? 口から煙が出ちゃうけど、おいしいよ手塚!」

 ────どうやら、この不二周助という少年。味覚にかなりの問題がある、らしい。
 たった少しの付き合いだが、手塚はしかと理解した。

「みっちゃん、ちゃんと普通のお菓子もあるよ。ほら、糖蜜パイ。アップルパイもかぼちゃパイもあるよ」

 「とっても美味しいよ」そう言って、幸せそうにパイを頬張っている紫乃を見る限り、とてもおいしそうなパイのようだ。こちらはありがたくいただくことにしよう。ペットボトルの煎茶を取り出し、手塚もパイを手にする。一口、口にすれば、ほどよい甘さとパイ生地のさくさく感が口の中で広がった。美味い。

 もぐもぐと無言で食べ続けていれば、紫乃も不二も微笑んでいた。「手塚、気に入ったんだね」「みたい」目の前で交わされる会話に、手塚が口を挟もうとした。


「……すまん、このコンパートメントに隠れさしてくれへん? ほんま頼むわ……!!」

 ノックもなしにガラリと開いた個室の扉。
 困り果てた様子で、日本人の少年が飛び込んできた。




「いやな、なんでかしらんのやけど、色んな先輩らから声掛けられてもうてな?」

「コンパートメントに引っ張り込まれそうになったんや……!」自身を抱きしめるようにして、ぶるぶる震えるリアクションをした少年は、先ほどまでの出来事を思い出したのか、若干顔を青くしている。
 不二の隣に座った彼は、アッシュブロンドの髪に薄茶色の瞳の美少年だった。しかし日本語を話していることから、彼もまた日本人なのだろう。方言から考えるに、大阪人か。

「別に積極的な女の子がアカンわけと違うんやけど、ああも肉食過ぎるとちょっと……」
「大丈夫?」
「ああ、カンニンな。ええと、」
「藤宮紫乃です」
「藤宮さんか、おおきに。いやー、日本人の姿が見えたさかい、ここしかないおもて、飛び込んだんや。ほんますまん。助かったわ。ああ、それと俺は白石蔵ノ介ゆうねん。よろしゅう頼むわ」

 気さくな笑顔で自己紹介する彼、白石に、なにか事情があってのことなのだろうと手塚は納得した。なにより、紫乃が怯えない。悪い人間ではないのだろう。
 自己紹介する不二にならい、手塚もまた簡単に自己紹介をし、握手を交わした。

「これでやっと一息つけるわ……」

 「はー、助かった……」大袈裟なほどに溜息を吐いて、そう言った白石を見る限り、よほどの目に遭ったのだろう。
 ぐったりと座席の背もたれに凭れかかり、深呼吸しているようだった。

「まあ、俺以上にハリー・ポッターの方がえげつないことになってそうやけど」
「ああ、彼はね……そうだよね……」
「ハリー・ポッター?」

 またしても知らない単語が登場した。魔法界の何かの単語だろうが、いったい何だろうか。
 反芻するように呟けば、不二も白石もマグルかと問うてきた。マグルとは非魔法使いのことだと、前回で学んだ。頷けば、納得したような視線が返される。

「魔法界の英雄と言われている、通称“生き残った男の子”のことだよ」
「生き残った?」
「かつてのイギリス魔法界は“例のあの人”を怖れていたんだ。闇の魔術に長ける彼は、純血主義思想の元、マグル出身者を根絶やしにすべく、魔法界のマグル狩りを次々に行っていてね」

 「かつての魔女狩りと同じように」囁く不二の声は、どこか重い。「純血主義っちゅーのは、魔法使いは純血のみであるべきゆう主張をしよんねん。マグルや半純血を毛嫌いしよる、しょーもない主義や」と白石から補足があった。  “例のあの人”とやらの想像がつかないが、手塚には考えられない世界だった。魔法なんて、物語の世界の中のように夢と希望で輝く、きらきらした代物だと思っていたからだ。

 ────なのに、そんな夢あふれる魔法で、差別行為、虐殺行為があった。
 その事実は、少なからず手塚に衝撃をもたらした。
 日本にだって差別や殺人はある。だが、それでも日本はマグル界の中でも、とりわけ平和な国だ。人を一人でも殺せば、しかるべき法的処罰を受ける。だが、ここは外国で、しかも魔法の世界だ。魔法の犯罪など、想像もできなかった。

「あらゆる魔法使いや魔女が“例のあの人”によって操られ、殺され、誰もが誰もを信じられないようになってた。まさに闇の時代────でも、転機が訪れる」
「1981年10月31日、ポッター家を“例のあの人”が襲撃した。せやけど、“例のあの人”を赤ん坊のハリー・ポッターが撃退したんや」
「撃退? 赤ん坊がか? どうやって……」
「方法はわからん。けど、“例のあの人”の失踪に魔法界の誰もが喜んだ。そらそうや、えげつない時代が終わるねんから」

 要するに闇の時代は、日本で言う所の戦争と同じくらいの出来事だったということか。
 そして、諸悪の根源を撃退したハリー・ポッターという少年を英雄視している、ということらしい。話の概要は掴んだ。だが。

「……私は、あんまり好きじゃない」
「藤宮さん?」
「英雄って周りから讃えられても、ハリー・ポッターのお父さんもお母さんも、もういないんだよ?」

 手塚の感じていたひとかけらを、紫乃が拾い上げた。
 そうなのだ。
 ハリー・ポッターは、英雄という名声を手に入れたが、愛する家族を失ったということなのだ。英雄と賞賛されればされるほど、彼は家族を失った事実を突きつけられるのではないだろうか。
 きゅっと手のひらを握りしめた紫乃。ぷっくりと涙の膜が浮かぶのが見え、手塚はそっと頭を撫でた。
 泣きそうな紫乃に気づいたのか、「明るい話じゃなかったよね、ごめん」と不二が詫びる。「いや、ハリー・ポッターについての情報を教えてくれただけだろう。俺が知らなかったせいだ。謝らなくていい」慌てて、手塚が言った。

「私、そんな風に、喜べない。だって、パパもママも────」
紫乃?」
「ううん、なんでもない」

 「ご、ごめんね。変な空気にしちゃったね」努めて明るい声で言った紫乃は、立ちあがり微笑む。「そろそろ、着替えよっか」そう紫乃が言った直後、車内にアナウンスが響く。曰く、ホグワーツまであと僅かということらしかった。

「楽しみだね、ホグワーツ」

 一生懸命に笑おうとした紫乃に、手塚は何も言えなかった。

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