手塚国光と魔法の手紙
今年もまた、夏がやってきた。去年と同じ夏休みだと、その時の手塚国光は思っていた。
去年と同じようにテニスと宿題に励むつもりで、ひと月も前から着々と夏休みの計画を立ててきたのだ。だから、今日も手塚は市の図書館へとやってきた。今日は、理科と社会と、それから読書感想文をやろう。理科と社会のプリントの問題は、手塚にとっては簡単だったが、読書感想文が大事だと考えたからだ。
連日のように猛暑と訴えるニュースの通り、外は炎天下だ。図書館に入った途端、やっと呼吸が出来る気さえした。
いつもと同じように宿題に取りかかり、いつもと同じように幼馴染の女の子がやってきた。そして、いつもと同じように、二人で宿題を教え合いながら、解き進めて行く────のだと、そう、思っていた。
「みっちゃん! みっちゃんのお家、たくさんフクロウがいるよ! 死にそうになってるよ!?」
────その幼馴染が、血相を変えて叫ばなければ。
手塚国光という少年は、テニスの才能に突出した、けれど普通の小学4年生と大差ない少年だ。顔立ちは10歳にしては整っており、利発そうな見た目をしている。もちろん、見た目を裏切らず、年の割に落ちついた聡明な少年だ。
彼の家族は祖父、父、母と至って普通の家庭だ。ほんのちょっぴり厳しい── 一般家庭の「祖父」という存在からすればかなり厳しい──祖父に躾けられているが、それでも一般家庭の少年には違いない。
そんな普通の少年である手塚国光は、2週間ほど前から奇妙な体験をしている。
始まりは、一通の手紙だった。
宛名は、普通の手紙と同じように住所が書かれている。が、最後の住所欄が可笑しい。手塚国一の家、二階の一番奥の部屋、手塚国光様────そんな「手塚国光」ただ一人を特定するように、配慮された宛名にまず眉根を寄せた。
裏返せば、紋章入りの紫色の蝋で封印がなされていた。真ん中には大きく『H』の文字。その周りを獅子、鷲、穴熊、蛇が囲む。見たこともない、重厚な造りの手紙。ただの手紙ではないことは、誰の目にも明らかだった。
そして、手塚はそこいらの小学四年生よりも聡明すぎた。
「おじいさん! これはもしや、おじいさんが教えてくださった“ふりこめさぎ”の手紙ではないでしょうか!」
郵便受けから手紙を取り出した手塚は、美しい日本庭園を駆け抜け、彼は縁先でのんびりと新聞を読んでいた祖父の元へと急いだ。
何事も慌てずに行動せよと、厳しく言いつけてきた祖父・手塚国一は孫の国光の様子に、ただ事ではないと察し、警察官時代に培ってきた鋭い眼差しを向ける。
息を切らせ縁先に飛び込んだ手塚は、確信を持った円らな目で祖父を見上げる。
「おじいさんのおっしゃっていたふりこめさぎの手紙かもしれません」
「どれ」
祖父に手紙を差し出す。 手紙を受け取った国一は、じっくりとその手紙を検分した。裏に返し、また表に返し。とくと眺め、観察した。
しばらく、そうすること三分にも満たない時間だったろうか。うむ、と深く重い声を洩らす祖父に、手塚はきりっと表情を引き締め、祖父の言葉を今か今かと待ち望んだ。
「このような文、わしはいまだかつて見たことが無い。どんなしかけが施されておるかわからん。油断するなよ、国光」
「はい! おじいさん!」
「うむ」
そうして、その奇妙な手紙は祖父の手により焼却処分された。
────その、次の日。
「なに? 昨日の手紙が今日も?」
「はい。また、です」
「うむぅ……これがもしや、世間を騒がせるだいれくとめーるという代物やもしれん」
「だいれくと、めーる……ですか」
「さよう。ふしだらでいかがわしい写真を見たいという男性心理を利用し、不当な金額を請求し続ける不届きな文よ。犯人は変態が多い」
「なるほど。油断せずに破り去る他ありませんね」
「その通りじゃ。油断するなよ、国光」
「はい!」
2通目は、手塚の手によって破棄されたのだが────次の日には、郵便受けに2通も投函されていた。もちろん、その2通も丁寧に処分した。さらに次の日は5通に増えた。当然だが、すべて処分した。さらにさらに次の日は、10通と倍に増えた。こうなってくると、姿も見えぬ悪質な犯罪者による仕業としか思えなくなってきた。もともと、手紙に対するグレーに近い疑念は、ここに来て真っ黒である。
週を跨げば、20通を超した。
さすがにここまでくれば、廃棄作業も一苦労だ。相手にしないのが一番だと手塚は考え、無視を決め込むことにした。
すると、郵便受けが壊れるほど、大量に投函された。短い手塚の人生の中で、郵便受けが破壊されるほどに手紙が来た経験など、ない。祖父宛の大量の年賀状でも、こんなことにはならなかった。
郵便受けが半壊した時点で、手塚としても、もはや意地だ。断固として開封してなるものかと、思い始めていた。
そうして2週間。名も知れぬ犯人、いや変態からの攻撃は、手を変え品を変えて手塚を襲った。
ある時は、手塚のランドセルの中から。ある時は、手塚の朝食のゆで卵の中から。またある時は、手塚のクローゼットの中から。心なしか、比例して庭先がやたらと鳥臭さ増したような気がしたし、やたらとフクロウを見かけるようになった気がしたが、気のせいだと言い聞かせた。
それよりも、だ。許すまじ、卑劣な変態め。
少年・手塚の心には、珍しく苛立ちが沸々と煮えたぎった。ただでさえ、例年にない猛暑なのだ。暑い上に、地味な嫌がらせが続けば、冷静沈着な手塚少年の心もささくれる。
────そして、2週間後の今日。
「あ、あのね……みっちゃん。それね、たぶん入学許可証、だと思う、よ……?」
「入学許可証?」
「う、うん」
蒼褪めた表情で、おそるおそる伺うように視線を寄越してきた幼馴染。名前を、藤宮紫乃。手塚家の向かいに住む、同い年の少女だ。
何か言いづらそうに、口をもごもごとさせ、あーだのうーだの言葉にならない声を洩らしている。
「とりあえず、フクロウがカワイソウだから、手紙を受け取ってあげて? 熱中症で死んじゃうよ……」
「あれだけ手の込んだ、悪質な嫌がらせをする犯人なんだ。ある種の執念さえ感じる。開封すれば、家が爆破する仕掛けがなされているかもしれない。油断せずに行こう」
「なんでそんな過激な発想!? みっちゃんコワいよ!」
常より祖父から、敵に背後を取られるなと教えを受けてきた手塚だ。「敵って誰ですか、お父さん……」といつも苦笑いするのは父親だが、手塚は祖父をとても尊敬していたし、戦時中の日本を生き抜いた祖父の言葉は、平和な昨今の日本にこそ必要な心構えだと思っている。
そもそも、どうしてこの幼馴染が、手紙の中身が入学許可証だと知っているのだろうか。
怜悧な眼差しを向ければ、口をモゴモゴさせている。大人しいこの紫乃という幼馴染。人見知りしがちで、内気な性格なために、会話する行為が少々苦手のようだ。手塚はそんな彼女をよく知っていたので、黙ってじっと言葉を待った。
「……私にも、みっちゃんと同じの、きたから」
「なに?」
「……こ、これ」
「! 開封したのか」
まるで、爆発物を解体したのか、くらいに厳しく咎める視線を寄越す手塚に、紫乃は慌てた。
一生懸命にこれは危険な物じゃなくて、ちゃんとしたものだよと説明をする。開封済みの手紙を見せれば、ようやく手塚の視線が和らいだ。
「……英語で書かれているな」
「イギリスの学校だから」
「読めるのか?」
「みっちゃんも読めるよ。毎日英語のお勉強してるんでしょ?」
日本の児童小説を、原文で読んでみたいと思い始めていた手塚は、1年ほど前から毎日英語の勉強をしていた。NHKのラジオ放送を積極的に活用し、近所にホームステイしているアメリカ人の大学生にも教えてもらっている。手塚の祖父の柔道に大学生が興味を持ったことが、切欠だった。
言われてみれば、確かに難解語句は見当たらない。冒頭の一文から読み進め始めた。
『親愛なる藤宮 紫乃殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。
教科書並びに必要な教材のリストを同封いたします。
新学期は九月一日に始まります。七月三十一日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております。
敬具
副校長ミネルバ・マクゴナガル』
「魔法、魔術学校……?」
読み終えた手塚の第一声は、それだった。
魔法。
児童文学によくある、ファンタジーだ。黒い装束で、黒い帽子をかぶり、杖を振って、箒で空を飛ぶ。そういえば、この間の金曜ロードショーでは『魔女の宅急便』が放映されていた。
魔法────もう一度、呟く。そして。
「紫乃。やはり“さぎ”だ。警察に届け出よう」
「なんでそうなったの!?」
「魔法は、物語の世界の話だ。現実には存在しない」
手塚だって、まだ10歳の少年だ。もしも映画や本の世界の主人公のように、魔法に憧れる年頃である。
だけど、聡明な彼は「そんな非現実的な存在」だと、冷静に理解していた。ありもしない非現実を想像し、想いを馳せる。現実世界を生きている人間の、精一杯の娯楽なのだと。
「ううん、存在するよ」
「紫乃?」
「だって…………わ、私」
何かを思いつめたような瞳。じわじわと涙の膜が紫乃の両目を覆う。
わずかに目を瞠らせた手塚は、静かに黙し、言葉を待った。
「だって、わたし、魔法使いだもん」
怯えるような色を宿し、ただ一言そう告げた幼馴染に、手塚は「そうか」とだけ答えた。
「わかった」
「えっ」
「紫乃がそう言うなら、本当なんだろう」
「でも、みっちゃん、さっき……」
「紫乃は、悪ふざけで嘘をついたりしない。絶対に、そんなことをしない。だから本当なんだろう?」
「み、みっちゃん……!」
嫌われちゃうかと思った、と嗚咽する紫乃に、手塚は首を傾げつつ、「泣くな」と紫乃を慰めた。理解できないが、魔法使いだと手塚に知られたら、手塚に嫌われると思っていたらしい。よくわからない。
そのまま告げれば、「みっちゃん、だいすき」と、眦を真っ赤にした紫乃が微笑んだ。「ああ、俺もだ」。恥じることなく言ってやれば、やっぱり幸せそうに笑ってくれる。
「それで、紫乃」
「うん」
「……魔法使いは……ほ、箒で、空を飛べる、のか?」
ほんの少し瞳を輝かせて。期待に満ちた眼差しを向ければ、紫乃は元気よく頷いた。
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